先日は、明日香村“飛鳥”、甘樫丘の東方、飛鳥坐神社へと連なる町並み。
今日は、甘樫の丘から南東の方角“岡”の町並み。
マルコ山古墳、キトラ古墳、高松塚古墳、亀石、石舞台古墳、酒船石など古代遺跡で知られる明日香村。
その中で“岡”は江戸時代、西国三十三ヶ所観音霊場の一つ岡寺参詣の宿場町・門前町として繁栄した。
岡寺は既に奈良時代の天平12年(740)の写経所啓(正倉院文章)に岡寺の寺名が見えるので、当時すでに存在していたことが知られる。そして平安時代から西国三十三ヶ所第7番札所として信仰をあつめ、江戸時代には大変な賑わい呈していた。
中世の奈良興福寺領を経て、江戸時代は高取藩領であり、人数は延宝5年(1677)80人、文政7年(1824)109人で、岡寺の門前町・宿場町であって、定期市も開かれていた。
貝原益軒や本居宣長が訪れたことで知られ、本居宣長は「菅笠日記」に詳しく記していて、江戸後期には旅籠屋が7~8軒あり、明治15年頃の戸数は106軒・人数573人であった。
今日は、甘樫の丘から南東の方角“岡”の町並み。
マルコ山古墳、キトラ古墳、高松塚古墳、亀石、石舞台古墳、酒船石など古代遺跡で知られる明日香村。
その中で“岡”は江戸時代、西国三十三ヶ所観音霊場の一つ岡寺参詣の宿場町・門前町として繁栄した。
岡寺は既に奈良時代の天平12年(740)の写経所啓(正倉院文章)に岡寺の寺名が見えるので、当時すでに存在していたことが知られる。そして平安時代から西国三十三ヶ所第7番札所として信仰をあつめ、江戸時代には大変な賑わい呈していた。
中世の奈良興福寺領を経て、江戸時代は高取藩領であり、人数は延宝5年(1677)80人、文政7年(1824)109人で、岡寺の門前町・宿場町であって、定期市も開かれていた。
貝原益軒や本居宣長が訪れたことで知られ、本居宣長は「菅笠日記」に詳しく記していて、江戸後期には旅籠屋が7~8軒あり、明治15年頃の戸数は106軒・人数573人であった。
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