
初瀬門前町を歩くと“出雲人形”が売られていた。
私が家を新築したとき、家に飾る大きな出雲人形の布袋さんが欲しくなった。
それで売ってくださるお店をいろいろ探したんや。
布袋さんが届くのに半年以上も待ったんやったなぁ・・・

@出雲人形
今より約2千年前、第11代垂仁天皇の御代32年7月に皇后日葉酢媛命が薨去された。
その葬儀に先立って殉死の遺風を改めようとされた天皇は、当麻蹴速との相撲で出雲の国より大和に召し出されていた野見宿禰の「土の人馬や種々の形を作り、これに変えられては」との意見をお取り上げになった。
野見宿禰は出雲の国より土部百人を呼び寄せ、土師連(はじのむらじ)として今の櫻井市出雲に住み、土偶製作に当たったと伝えられている。
また、このようにして作られたものが、後の埴輪と言われているものである。

その後出雲には土偶を作り販売する家がたくさんあり、長谷参りの土産物として非常に喜ばれてきたが、明治の末期より交通機関の発達するにつれ、当地を訪れる人も少なくなり、製作も途絶の状態で今日に至ったという。
私が家を新築したとき、家に飾る大きな出雲人形の布袋さんが欲しくなった。
それで売ってくださるお店をいろいろ探したんや。
布袋さんが届くのに半年以上も待ったんやったなぁ・・・

@出雲人形
今より約2千年前、第11代垂仁天皇の御代32年7月に皇后日葉酢媛命が薨去された。
その葬儀に先立って殉死の遺風を改めようとされた天皇は、当麻蹴速との相撲で出雲の国より大和に召し出されていた野見宿禰の「土の人馬や種々の形を作り、これに変えられては」との意見をお取り上げになった。
野見宿禰は出雲の国より土部百人を呼び寄せ、土師連(はじのむらじ)として今の櫻井市出雲に住み、土偶製作に当たったと伝えられている。
また、このようにして作られたものが、後の埴輪と言われているものである。

その後出雲には土偶を作り販売する家がたくさんあり、長谷参りの土産物として非常に喜ばれてきたが、明治の末期より交通機関の発達するにつれ、当地を訪れる人も少なくなり、製作も途絶の状態で今日に至ったという。
出雲人形、本当に素朴な人形です。
写真左上が天神様。
右上が唐人(朝鮮通信使?)人形だそうです。
桜井市には吉備という地名の場所もありますよ!