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あの日,県境の水越峠を越えたもう一つの目的は,西行終焉の地・「弘川寺」にお参りしたかったから。
「千早城」から「弘川寺」へのナビが示した道は,途中で昔の街道?に入ってしまったよう。
その道幅は,私の愛車1台が通るのがやっとの処があった。
だから,「弘川寺」の道標を見つけた時には,ホッと安心。
そして,新しくて広い駐車場に車を停めた。
車から降りてお寺入り口を探して歩いて気 がついた。
境内入り口のすぐ前にも駐車場があって,車停めれたんや~!
私の脚は,すでに3つのお城に登り,ガクガクやった。
「弘川寺」は,665年(天智天皇4年)役行者によって開かれた葛城6坊の1つ。
その後、677年(白鳳5年)天武天皇の請雨祈願をはたしたことから勅願寺となった。
737年(天平9年)行基菩薩が当寺で修行、平安時代に入り812年(弘仁3年)には嵯峨天皇の命を受けた弘法大師が中興し、1188年(文治4年)に当寺の座主空寂上人は、後鳥羽天皇の病回復祈願を修し、その功によって奥の院「善成寺」を 建て、寺号の勅額を賜わっている。
この寺を最も有名にしているのは、1189年(文治5年)西行法師が空寂上人の法徳を慕い来住し、翌年の2月16日、この寺で亡くなっていること。
その後、南北朝時代には楠木氏の戦場となり、戦国時代には家督相続をめぐり河内国の守護畠山政長(先の守護職畠山持国の養子)は当寺に陣し、弟である畠山義就(持国の実子)がこれを攻め、1463年(寛正4年)堂塔はことごとく焼失した。
西行法師を慕うこと深く今西行と呼ばれた歌僧似雲法師は、1733年(享保17年)当寺境内にその墳墓を発見し、墓域に草庵を結んで隠 棲した。
似雲法師は遺言により,当寺境内の西行墳の傍らに葬られたという。
西行法師を慕って生きた似雲法師の存在を知って,境内の散策は,五木寛之「百寺巡礼」の気分。
西行墳を拝んで坂道を下りたとき,西行堂の屋根がキラキラ輝いていたのが印象的やった。
残念ながら,西行記念館の開館は春季と秋季のみ。
またの機会にと諦めた。
土産には,境内にあった三鈷の松の葉を拾って持ち帰った。
「写真;弘川寺の西行堂」
「千早城」から「弘川寺」へのナビが示した道は,途中で昔の街道?に入ってしまったよう。
その道幅は,私の愛車1台が通るのがやっとの処があった。
だから,「弘川寺」の道標を見つけた時には,ホッと安心。
そして,新しくて広い駐車場に車を停めた。
車から降りてお寺入り口を探して歩いて気 がついた。
境内入り口のすぐ前にも駐車場があって,車停めれたんや~!
私の脚は,すでに3つのお城に登り,ガクガクやった。
「弘川寺」は,665年(天智天皇4年)役行者によって開かれた葛城6坊の1つ。
その後、677年(白鳳5年)天武天皇の請雨祈願をはたしたことから勅願寺となった。
737年(天平9年)行基菩薩が当寺で修行、平安時代に入り812年(弘仁3年)には嵯峨天皇の命を受けた弘法大師が中興し、1188年(文治4年)に当寺の座主空寂上人は、後鳥羽天皇の病回復祈願を修し、その功によって奥の院「善成寺」を 建て、寺号の勅額を賜わっている。
この寺を最も有名にしているのは、1189年(文治5年)西行法師が空寂上人の法徳を慕い来住し、翌年の2月16日、この寺で亡くなっていること。
その後、南北朝時代には楠木氏の戦場となり、戦国時代には家督相続をめぐり河内国の守護畠山政長(先の守護職畠山持国の養子)は当寺に陣し、弟である畠山義就(持国の実子)がこれを攻め、1463年(寛正4年)堂塔はことごとく焼失した。
西行法師を慕うこと深く今西行と呼ばれた歌僧似雲法師は、1733年(享保17年)当寺境内にその墳墓を発見し、墓域に草庵を結んで隠 棲した。
似雲法師は遺言により,当寺境内の西行墳の傍らに葬られたという。
西行法師を慕って生きた似雲法師の存在を知って,境内の散策は,五木寛之「百寺巡礼」の気分。
西行墳を拝んで坂道を下りたとき,西行堂の屋根がキラキラ輝いていたのが印象的やった。
残念ながら,西行記念館の開館は春季と秋季のみ。
またの機会にと諦めた。
土産には,境内にあった三鈷の松の葉を拾って持ち帰った。
「写真;弘川寺の西行堂」
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