8月最後の日,神戸へ出かけた。
単に神戸だけではつまらない。
もう少し西へ。兵庫県高砂市へ。
以前から見てみたかった“生石神社(おうしこじんじゃ)・石の宝殿”。
いやぁ~凄かった!
昔の人は,一体なにのために造ったんやろか?
私にはアフリカ・エチオピアにあるという岩をくり抜いて造った教会?神殿?のように見えてきた。
@生石神社
兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
石の宝殿は、横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物で、水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない。
社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている。
石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」という意味の記述がある。聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、矛盾をはらむ記述ではあるが、8世紀初期には6~7世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになる。風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で風土記の内容を継承したものは見られない。『万葉集』巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は石の宝殿のことであるとも言われるが定かではない。
石の宝殿は8世紀以前からあったことになるが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。
『峯相記』では生石神社・高御位神社の解説で「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」という内容が記されており、この時期には石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承が生まれている。
『播州石宝殿略縁起』では「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」となり、『峯相記』より具体的な神格が与えられている。
単に神戸だけではつまらない。
もう少し西へ。兵庫県高砂市へ。
以前から見てみたかった“生石神社(おうしこじんじゃ)・石の宝殿”。
いやぁ~凄かった!
昔の人は,一体なにのために造ったんやろか?
私にはアフリカ・エチオピアにあるという岩をくり抜いて造った教会?神殿?のように見えてきた。
@生石神社
兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
石の宝殿は、横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物で、水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない。
社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている。
石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」という意味の記述がある。聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、矛盾をはらむ記述ではあるが、8世紀初期には6~7世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになる。風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で風土記の内容を継承したものは見られない。『万葉集』巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は石の宝殿のことであるとも言われるが定かではない。
石の宝殿は8世紀以前からあったことになるが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。
『峯相記』では生石神社・高御位神社の解説で「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」という内容が記されており、この時期には石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承が生まれている。
『播州石宝殿略縁起』では「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」となり、『峯相記』より具体的な神格が与えられている。
kazuyoo60さんは、明日香にある益田の岩船に行かれたことがありますか?
私の印象では、岩船の方がインパクトがありました。
でも、こちらも凄かったです!
「聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、矛盾をはらむ記述ではあるが・・・・」・・・黒岩十吾のこの小説では、摂政になったのは何時と云う記述はなく、皇太子のままでいることをずーっと頑固に主張しています。あらためて、去年奈良を歩き回ったおかげで、この本が少しは立体的に読めました。明日香川、大和川、斑鳩、太子町・・・やっぱり地理がわからないとお話が面白くなりませんね。
>やっぱり地理がわからないとお話が面白くなりませんね。
今回,見てみたかった“石の宝殿”を見ることが出来ました。
神社裏にある丘に登り,周りの風景を眺めてきました。
でも・・・本当に不思議な巨石でした!
生えて、良い意味で面白い景色♪。
さらに石の土台らしき処に水を溜める溝らしき
へこみが…。
溜まり水を海に例えると石は陸か島、その上に
草木まであるので、まるごと盆景に見えてしまいます。私には伝説の「蓬莱山」に見えちゃいました。
私、以前から“石の宝殿”が見たくって。
やっと行けたんです!
感動のほどは、明日香にある益田の岩船の方が大きかったかも???
でも、これも凄かったです。
古代の人は、何を作りたかったのでしょうか?
本当に不思議です。