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先日のブログ“雷丘”の話には後日談がある。
何年かして栖軽が死んだとき、天皇はその忠勤ぶりをしのんで、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した柱と立てさせた。雷は碑文を立てたのを恨み憎んで、碑文の柱を蹴飛ばし踏みつけた。ところが柱の裂け目に挟まれて、またもや捕らえられてしまった。天皇は雷を許してやり、新たに碑文の柱を立てさせた。碑文には、「生きている時ばかりでなく、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」と書かせた。これが、雷の丘と名付けられたいわれの起こりであると考えられているそうだ。
それから月日が流れ・・・
2005年11月22日の 新聞の記事に
『奈良文化研究所は、明日香村の雷丘に、五世紀後半の古墳があったとみられると発表した。日本霊異記に記された説話と何らかの関連があるかもしれない、としている。
同研究所は雷丘を初めて発掘し、埴輪の破片数百点を発見、古墳の墳丘や石室などは、十五世紀前半ごろの城を造る工事などで削られて残っていない。一辺十㍍程度の方墳ではないか、とみている。』 とあった。
後日談は今後どのようになっていくのだろうか・・・
何年かして栖軽が死んだとき、天皇はその忠勤ぶりをしのんで、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した柱と立てさせた。雷は碑文を立てたのを恨み憎んで、碑文の柱を蹴飛ばし踏みつけた。ところが柱の裂け目に挟まれて、またもや捕らえられてしまった。天皇は雷を許してやり、新たに碑文の柱を立てさせた。碑文には、「生きている時ばかりでなく、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」と書かせた。これが、雷の丘と名付けられたいわれの起こりであると考えられているそうだ。
それから月日が流れ・・・
2005年11月22日の 新聞の記事に
『奈良文化研究所は、明日香村の雷丘に、五世紀後半の古墳があったとみられると発表した。日本霊異記に記された説話と何らかの関連があるかもしれない、としている。
同研究所は雷丘を初めて発掘し、埴輪の破片数百点を発見、古墳の墳丘や石室などは、十五世紀前半ごろの城を造る工事などで削られて残っていない。一辺十㍍程度の方墳ではないか、とみている。』 とあった。
後日談は今後どのようになっていくのだろうか・・・
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