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先日,飛鳥時代の有力渡来系氏族東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる明日香村・檜隈寺跡(国史跡)へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/8a/ddcc536aad22b9e69ffcb642f907bc84.jpg)
檜隈寺跡(ひのくまでら あと)は、現在の於美阿志神社(おみあしじんじゃ)の境内とその周辺の田畑。
檜隈寺跡のある高松古墳の南一帯は、檜前(ひのくま)と呼ばれ、古代の飛鳥時代には朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多く住んでいた土地。
百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住したと伝えられ、於美阿志神社には阿智使主が祭神として祀られている。
檜隈寺は、阿智使主の末裔とされる渡来系の氏族「東漢氏」の氏寺であったと考えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/01/100972af8e7eb9d0630401dec5c85c45.jpg)
神社の境内には、講堂跡と塔跡と推定される建物跡が確認されており、発掘調査では7世紀末の瓦が出土している。
塔跡には、「於美阿志神社 石塔婆」の名称で国の重要文化財に指定されている平安時代に製作された十三重石塔(上層一部欠損)が建っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/f2/271fca650e69a0b4ad53efaf4c16ce35.jpg)
伽藍は、一塔一金堂一講堂で、西に中門があり、北に講堂、南に金堂があった。
中門からは回廊が伸び、講堂と金堂に繋がり、更に東側まで伸び伽藍を囲み、回廊で囲まれた区画の中に塔が建てられていた。
境内(鳥居を抜けて右手)には、「宣化天皇桧隈廬入野宮址」と記された石標柱がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/aa/1351582aa2abbf07f666efe37e0fbdca.jpg)
檜隈廬入野宮は「ひのくまのいおりののみや」と読み,檜隈に宣化天皇(せんかてんのう、第28代天皇、在位は536年から539年までの3年余り)の宮があったとの伝説により現在地の標柱が立てられた。
建立は1915年(大正4年11月)、建立者は奈良県教育委員会。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/0c/7a6c606e5db44825d9353dc7768d49e8.jpg)
@東漢氏
東漢氏は、5世紀の応神天皇の時代に日本に渡ってきたとされ、大陸の最新文化や技術力を背景に、飛鳥時代の権力者・蘇我氏と結びつき、外交や軍事面などで大きな影響力を誇った。
592年には蘇我馬子の命により崇峻天皇暗殺をするなど、蘇我氏の群臣として活躍。
大化改新(645年)によって関係の深かった蘇我氏が滅び、一時は存亡危機があったが、その技術が重要視されて滅亡を免れた。
大化改新に次ぐ危機は、677年に天武天皇から「七つの大罪を犯した」として叱責されたことだった。しかし、壬申の乱での戦功と、都を飛鳥に戻したため、飛鳥周辺一帯の東漢氏一族の勢力を侮れなかったためであろうか、ここでも許された。
平安時代には征夷大将軍、坂上田村麻呂(758~811年)も輩出した。
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檜隈寺跡(ひのくまでら あと)は、現在の於美阿志神社(おみあしじんじゃ)の境内とその周辺の田畑。
檜隈寺跡のある高松古墳の南一帯は、檜前(ひのくま)と呼ばれ、古代の飛鳥時代には朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多く住んでいた土地。
百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住したと伝えられ、於美阿志神社には阿智使主が祭神として祀られている。
檜隈寺は、阿智使主の末裔とされる渡来系の氏族「東漢氏」の氏寺であったと考えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/01/100972af8e7eb9d0630401dec5c85c45.jpg)
神社の境内には、講堂跡と塔跡と推定される建物跡が確認されており、発掘調査では7世紀末の瓦が出土している。
塔跡には、「於美阿志神社 石塔婆」の名称で国の重要文化財に指定されている平安時代に製作された十三重石塔(上層一部欠損)が建っている。
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伽藍は、一塔一金堂一講堂で、西に中門があり、北に講堂、南に金堂があった。
中門からは回廊が伸び、講堂と金堂に繋がり、更に東側まで伸び伽藍を囲み、回廊で囲まれた区画の中に塔が建てられていた。
境内(鳥居を抜けて右手)には、「宣化天皇桧隈廬入野宮址」と記された石標柱がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/aa/1351582aa2abbf07f666efe37e0fbdca.jpg)
檜隈廬入野宮は「ひのくまのいおりののみや」と読み,檜隈に宣化天皇(せんかてんのう、第28代天皇、在位は536年から539年までの3年余り)の宮があったとの伝説により現在地の標柱が立てられた。
建立は1915年(大正4年11月)、建立者は奈良県教育委員会。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/0c/7a6c606e5db44825d9353dc7768d49e8.jpg)
@東漢氏
東漢氏は、5世紀の応神天皇の時代に日本に渡ってきたとされ、大陸の最新文化や技術力を背景に、飛鳥時代の権力者・蘇我氏と結びつき、外交や軍事面などで大きな影響力を誇った。
592年には蘇我馬子の命により崇峻天皇暗殺をするなど、蘇我氏の群臣として活躍。
大化改新(645年)によって関係の深かった蘇我氏が滅び、一時は存亡危機があったが、その技術が重要視されて滅亡を免れた。
大化改新に次ぐ危機は、677年に天武天皇から「七つの大罪を犯した」として叱責されたことだった。しかし、壬申の乱での戦功と、都を飛鳥に戻したため、飛鳥周辺一帯の東漢氏一族の勢力を侮れなかったためであろうか、ここでも許された。
平安時代には征夷大将軍、坂上田村麻呂(758~811年)も輩出した。
この時代,どんなことが起こっていたのでしょうか?
興味が湧いてきました。
この金曜日,仕事の都合がつけば「京都水彩展」に伺おうかと思っております。
午後2~3時あたりかと思います。
展覧会における絵の鑑賞法や展示の方法等,いろいろ勉強になりました。
本日は本当に時間を都合していただき,有難うございました。
これからも宜しくお願いします!
それが・・・
今日,親父が野良仕事をしようとは云わないんです・・・
畑を起こしてジャガイモを植えなければいけないのに・・・