![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/76/14c0c6aec80a12b94fc9a86decaffc3f.jpg)
池波正太郎『食卓の情景』“柳生から上野へ”で,筆者は“金谷”でバター焼とすき焼を食べた。
そのあと“伊賀上野”の章で,「伊賀越の仇討ち」の現場「鍵屋ノ辻」へと出かけていた。
人間ドックでこの本を読みながら,私は無性に伊賀上野へ行きたくなった。
「鍵屋ノ辻」は車で何度も通っているが,ゆっくり停まって見学したことがない。
私はナビを「鍵屋ノ辻」に設定した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/49/28469ff103a3db5ed85f984fb4488ee8.jpg)
「鍵屋ノ辻」の北西の角に「文政十三年庚寅年(1830年)仲秋再建」、「みぎいせみち(右伊勢道)」、「ひだりならえ(左奈良へ)」と彫られた道標が建っていた。
「鍵屋ノ辻」の南西奥には「数馬茶屋」が建っていた。
ここは昔、京都、奈良方面から伊勢へ向う道筋「伊賀街道」で、また、奈良から江戸へ向う道筋「江戸街道」でもあった。
1634年(寛永11年)11月7日旧備前岡山藩士河合又五郎が、武芸の達人河合甚左衛門や桜井半兵衛奈良ら一行10人に護衛され、奈良から笠置を越え、伊賀国島ヶ原を通り、江戸へ下る途中、ここへやって来るのを待ち伏せ、兄渡辺源太夫17才を4年前河合又五郎19才に殺害された渡辺数馬が、松平郡山藩剣術指南役で姉婿の荒木又衛門ら3人の助太刀を受け、隠れていた茶屋です。河合又五郎ら一行11人が人目をはばかるようにして差し掛ると、荒木又衛門ら主従4人は彼らの前に立ち塞がり、仇討ちの主意を伝えて切りかかり、遂に大願を成就したという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/ad/6e0a3dadfc6b353155993d0b857006d4.jpg)
なお、「数馬茶屋」では、荒木又衛門が、仇討ちの朝、茶屋の主人に蕎麦と目刺の鰯を注文したが、緊張している渡辺数馬に「今日の首尾を祈って、傍(そば)でゆわす(又衛門の出身地伊賀の方言で成就する)は目出度いことだ」と語り、今でも「数馬茶屋」の定食「祝膳」には、蕎麦と鰯が付いているという。
そのあと“伊賀上野”の章で,「伊賀越の仇討ち」の現場「鍵屋ノ辻」へと出かけていた。
人間ドックでこの本を読みながら,私は無性に伊賀上野へ行きたくなった。
「鍵屋ノ辻」は車で何度も通っているが,ゆっくり停まって見学したことがない。
私はナビを「鍵屋ノ辻」に設定した。
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「鍵屋ノ辻」の北西の角に「文政十三年庚寅年(1830年)仲秋再建」、「みぎいせみち(右伊勢道)」、「ひだりならえ(左奈良へ)」と彫られた道標が建っていた。
「鍵屋ノ辻」の南西奥には「数馬茶屋」が建っていた。
ここは昔、京都、奈良方面から伊勢へ向う道筋「伊賀街道」で、また、奈良から江戸へ向う道筋「江戸街道」でもあった。
1634年(寛永11年)11月7日旧備前岡山藩士河合又五郎が、武芸の達人河合甚左衛門や桜井半兵衛奈良ら一行10人に護衛され、奈良から笠置を越え、伊賀国島ヶ原を通り、江戸へ下る途中、ここへやって来るのを待ち伏せ、兄渡辺源太夫17才を4年前河合又五郎19才に殺害された渡辺数馬が、松平郡山藩剣術指南役で姉婿の荒木又衛門ら3人の助太刀を受け、隠れていた茶屋です。河合又五郎ら一行11人が人目をはばかるようにして差し掛ると、荒木又衛門ら主従4人は彼らの前に立ち塞がり、仇討ちの主意を伝えて切りかかり、遂に大願を成就したという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/ad/6e0a3dadfc6b353155993d0b857006d4.jpg)
なお、「数馬茶屋」では、荒木又衛門が、仇討ちの朝、茶屋の主人に蕎麦と目刺の鰯を注文したが、緊張している渡辺数馬に「今日の首尾を祈って、傍(そば)でゆわす(又衛門の出身地伊賀の方言で成就する)は目出度いことだ」と語り、今でも「数馬茶屋」の定食「祝膳」には、蕎麦と鰯が付いているという。
この仇討ちは日本3仇討ちの1つと言われているそうですが,あとの2つは???
そうでした,そうでした。
曾我兄弟と赤穂浪士…
最近,すぐに出てこなくって・・・
九頭竜神社が祭ってあるのですが、
南朝と何か関係があるのかしら…?
んん~
東京にも数馬ですか???
南朝との関係???
それは,坂東三十三観音霊場巡りに行くまでの課題ということで・・・
退職後のことになりますが・・・