玉置神社からの帰り,本宮辻で平家一門供養塔を拝んだあと,
さらに瀞峡への細い山道を対向車が来ないことを祈って下り続けた。
運転しながら考えたこと,
それは,奥吉野には滅びゆくものに対する美があるんちがうやろか?ってこと。
本宮辻で見た「平家」。
丹生川上神社で見た「天誅組」。
天河弁財天で見た「南朝」・・・
せやけど,えらい山ん中やなぁ~
無事に家に帰れるんやろか?って心配が,1番やった。
◎丹生川上神社下社で見た天誅組の碑
文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失したという。
◎天河弁財天で見た黒木御所
南北朝時代は,京都(=北朝)と吉野(=南朝)の2箇所に都が置かれ、争乱が起こったことはよく知られている。
南朝が置かれた吉野だが、60年近い南北朝時代の3分の2は、桜でイメージされる吉野ではなく、奥吉野といわれる山村地域に南朝が置かれていた。
奥吉野の一角を占める天川村にも、天河弁財天に近いところに黒木御所が置かれたという。
「写真;①丹生川上神社下社で見た天誅組の碑
②天河弁財天で見た黒木御所」
さらに瀞峡への細い山道を対向車が来ないことを祈って下り続けた。
運転しながら考えたこと,
それは,奥吉野には滅びゆくものに対する美があるんちがうやろか?ってこと。
本宮辻で見た「平家」。
丹生川上神社で見た「天誅組」。
天河弁財天で見た「南朝」・・・
せやけど,えらい山ん中やなぁ~
無事に家に帰れるんやろか?って心配が,1番やった。
◎丹生川上神社下社で見た天誅組の碑
文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失したという。
◎天河弁財天で見た黒木御所
南北朝時代は,京都(=北朝)と吉野(=南朝)の2箇所に都が置かれ、争乱が起こったことはよく知られている。
南朝が置かれた吉野だが、60年近い南北朝時代の3分の2は、桜でイメージされる吉野ではなく、奥吉野といわれる山村地域に南朝が置かれていた。
奥吉野の一角を占める天川村にも、天河弁財天に近いところに黒木御所が置かれたという。
「写真;①丹生川上神社下社で見た天誅組の碑
②天河弁財天で見た黒木御所」
今回登場しませんでしたが,義経も吉野に来ましたよね。
そう,吉野も遠いですが,奥州も遠かったでしょうねぇ~
愚生なども
京都や奈良の美仏もさりながら
最近はこう破損仏とか
磨滅して崩れかけて行く石仏とか
これらは形あるものですが
精神性においても滅びゆくものというか
場合によっては滅ばざるを得ない
滅びの道を選ばざるを得ない
その人の営みそのものに対する
共感のようなものがその背景にあって
惹かれて行くのでしょうね
自分がそれなりの年齢になってきたからでしょうか,
滅び行くものにもの思うのです。
来年あたり,お供しますよ!
我が家のご先祖が勤務していた談山神社も
南朝方でした。
「春よ来い!」って入力したら
「張る横井」と変換なって驚きました。
牽牛塚古墳周辺には,まだまだ謎が多いようですね。