大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

瑞光寺の権現柿

2010年10月30日 | 趣味の園芸
今年は我が家の柿は不作。
猛暑の影響?
柿食べたいなぁ~
思い出すのは,東海道・関宿(三重県亀山市)のお寺で見かけた柿の木。
そのお寺・瑞光寺は,中世にこの地域を治めていた関氏ゆかりの寺。

境内には「権現柿」と呼ばれる柿の木が今なお残っており、これは天正年間に家康が上洛した際、ここ瑞光寺に幼なじみの和尚を訪ねて立ち寄り、庭先で柿を賞味したことから、後世この名で呼ばれることになったと伝えられる。
あの柿は無事実ったんやろかなぁ~

@神君伊賀越え
天正十年六月二日早暁、京都本能寺に宿泊していた織田信長は、その重臣明智光秀に襲われ四十九年の人生を終えた(本能寺の変)。これに先立って上方を遊覧していた徳川家康は、この日信長への御礼言上のため堺の松井友閑屋敷を発って京都へ向かっていたが、河内飯盛山付近でこの変報に接した。
この時点で家康に同行していた面々は、軍勢もなく平服ではあったが、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政、井伊万千代(直政)、天野康景、大久保忠佐・忠隣、高力清長、服部半蔵、渡辺半蔵、鳥居忠政、長田伝八郎(永井直勝)等という、錚々たるメンバーであった。これに、信長から案内役として付けられた長谷川秀一(竹丸)、家康に従ったばかりの駿河江尻城主穴山梅雪、京都から急ぎ変報を届けてきた茶屋四郎次郎清延がいた。
家康は報せを聞き驚愕、やがて「弔い合戦をしたくてもこの人数、土民の槍に掛かって果てるよりは京都知恩院に入ってそこで腹を切ろう」と一旦は死を決意するが、本多忠勝が一人反対して「信長公への報恩は、何としてでも本国へ戻り、軍勢を催して明智を誅伐すること」と力説、家康はじめ一同もこれに同意したと伝えられている。
さて帰還についての相談となったのだが、一丸となって行動するかと思いきや、穴山梅雪主従十二名は別行動を取った。そこで家康は梅雪に別れを告げ、一路三河へと急ぎに急いだのだが、この家康の三河までの苦難の道中のことを世に「神君伊賀越え」と呼ぶ。
家康一行はようやく難所を抜け、応安四(1371)年の創立とされる、関・木崎町の瑞光寺に到着した。この寺は,関安芸守盛信が菩提寺として天正年間にこの地に再興したもので、当時の和尚は三河宝飯郡の生まれで、家康と幼なじみであったという。
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6 コメント

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Unknown (kazuyoo60)
2010-10-30 09:45:32
権現柿って甘柿だったのでしょうね。この大きさでは種類は?、私は判別できません。ずいぶんと古い立て札です。墨以外の所が減ってますもの。
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Unknown (幽黙)
2010-10-30 11:28:27
柿そのもののお話ではないのですが
山本一力の「銀しゃり」はお勧めです
柿がとても重要な要素になります
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Unknown (瓜亀仙人)
2010-10-30 16:37:53
kazuyoo60さんへ
柿が登場する話では,石田三成を思い出します。
同じ時代を生きた人物としては,対照的でしたよね・・・
記事を書いた後から,このお寺が伊賀越えに登場するのに驚きました。
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Unknown (瓜亀仙人)
2010-10-30 16:42:58
幽黙さんへ
>山本一力の「銀しゃり」はお勧めです
分かりました。探してみます。
吉野山中の円空仏に逢いたくて,むずむずしているところです。
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Unknown (幽黙)
2010-10-30 19:48:49
吉野の円空というと
天川の栃尾観音堂が有名ですし
たしか桜本坊でしたっけ?にも
あったように思いますが
他にもあるんですか?
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Unknown (瓜亀仙人)
2010-11-01 18:12:40
幽黙さんへ
HDDに撮り溜めておいた番組を観ていたら,
NHK新日曜美術館・円空でした。
天川の栃尾観音堂が登場していました。
何度か観たことがあるはずなのですが,
観たいという気持ちがムクムクと・・・
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