“丹生川上神社下社”参拝の次は“天河大辨財天社”へ。
これではなかなか“レインボーガーネット”探しには進めない。
この天河大弁財天社(天河神社)は、金峰山信仰や大峯修験の隆盛とともに修験者が参籠修行する霊験所として栄え、平安末期から中世にかけて入峯者の多くはここを訪れたと考えられる。
南北朝時代には南朝帝の御所があったとされており、南朝の 吉野最奥の拠点になったであろうと想像されている。
室町時代にはここを訪れる修験者や弁天社の御師が民間にその霊験を唱導し、南都を中心に天川弁天詣が大流行した。
厳島、竹生島の弁才天とともに日本三大弁天の筆頭とされる“天河大弁財天社”。
天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器の五十鈴は、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられていることから芸能の神様としても有名だそうだ。
7世紀後半、皇位継承を巡る争いで窮地に立たされた大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々の故郷・吉野を訪れ、勝利を祈願して琴を奏でた。すると、その音色に誘われるかのように天女が現れ、勝利の祝福を示した。彼女は役行者が弥山山頂に祀ったとされる弥山大神だった。そのお言葉通り、皇子は壬申の乱に勝利をおさめ、即位して天武天皇になられた。天皇はこの天女の加護に報いるため、弥山の麓に、神殿“天の安河の宮”を建立、これがこの神社の始まりだとも言う。
弁財天様が弥山よりご降臨なされたとされる7月17日の“例大祭”を見てみたかった・・・
この神社に来ると何故か落ち着くなぁ~
ここでは“七夕祭”は8月19日、馬弓神事もあるんやなぁ~
これではなかなか“レインボーガーネット”探しには進めない。
この天河大弁財天社(天河神社)は、金峰山信仰や大峯修験の隆盛とともに修験者が参籠修行する霊験所として栄え、平安末期から中世にかけて入峯者の多くはここを訪れたと考えられる。
南北朝時代には南朝帝の御所があったとされており、南朝の 吉野最奥の拠点になったであろうと想像されている。
室町時代にはここを訪れる修験者や弁天社の御師が民間にその霊験を唱導し、南都を中心に天川弁天詣が大流行した。
厳島、竹生島の弁才天とともに日本三大弁天の筆頭とされる“天河大弁財天社”。
天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器の五十鈴は、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられていることから芸能の神様としても有名だそうだ。
7世紀後半、皇位継承を巡る争いで窮地に立たされた大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々の故郷・吉野を訪れ、勝利を祈願して琴を奏でた。すると、その音色に誘われるかのように天女が現れ、勝利の祝福を示した。彼女は役行者が弥山山頂に祀ったとされる弥山大神だった。そのお言葉通り、皇子は壬申の乱に勝利をおさめ、即位して天武天皇になられた。天皇はこの天女の加護に報いるため、弥山の麓に、神殿“天の安河の宮”を建立、これがこの神社の始まりだとも言う。
弁財天様が弥山よりご降臨なされたとされる7月17日の“例大祭”を見てみたかった・・・
この神社に来ると何故か落ち着くなぁ~
ここでは“七夕祭”は8月19日、馬弓神事もあるんやなぁ~
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます