大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

柳田国男生家へ

2012年09月12日 | 兵庫県
あの日、生野銀山の次に私が向かったのが“柳田国男生家”。
“柳田国男生家”は、兵庫県福崎町にある。
高速道路に乗るとすぐやった。

@“柳田国男生家”
文化勲章を受章した民俗学者柳田國男は福崎町名誉町民第1号でもあり、國男の生家である松岡家の兄弟(鼎、泰蔵、國男、静雄、輝夫)はそれぞれの道で大成し、共に顕彰するために記念館が作られました。

 生家は記念館の西隣に移設・保存されており、昭和47年に兵庫県指定民俗文化財となりました。柳田國男はこの生家を「日本一小さな家」といい、そこから民俗学への志も源を発したといってよいと著書『故郷七十年』の中に記しています。

松岡 鼎(まつおか かなえ)
 儒者松岡操(約斉)の長男。万延元年生れ。はじめ師範学校に入り、郷里の小学校長となったが後に帝国大学医科大学で学び、医師となり千葉県布佐に住む。千葉県議会議員、県医師会長、布佐町長等となり、地方自治に大きく貢献した。昭和9年75歳で没。

井上 通泰(いのうえ みちやす)
 松岡操の3男。慶応2年生れ。後に田原村吉田の医師井上碩平の養子となる。帝国大学医科大学に学び、眼科医となる。史学に造詣深く、歌人としても有名。宮中顧問官、貴族院議員、帝国芸術院会員、御歌所寄人等に任ぜられる。万葉集新考、播磨国風土記新考等著書多数。昭和16年76歳で没。

松岡 静雄(まつおか しずお)
 松岡操の7男。明治11年生れ。海軍兵学校を首席で卒業。日露、日独両戦役に従軍。海軍軍令部参謀、戦史編纂委員長、外国駐在武官等になったが、海軍大佐で退官。言語学・民族学を研究し、多くの業績を残した。著書に日本古語大辞典、蘭和辞典、太平洋民族誌等がある。昭和11年59歳で没。

松岡 映丘(まつおか えいきゅう)
 松岡操の8男(本名・輝夫)。明治14年生れ。東京美術学校卒業後に母校の教授となる。大和絵の研鑚と発展に生涯をかけ、新興大和絵会、国画院を結成、画壇に大きな影響を与えた。帝国芸術院会員。昭和13年58歳で没。


@柳田国男
6男の柳田國男は,明治8年兵庫県神東郡田原村辻川(現神崎郡福崎町西田原)の松岡家に生まれました。東京帝国大学を卒業後,農商務省に入り,法制局参事官を経て貴族院書記官長となりました。なお,明治34年,27歳のときに柳田家の養子となり柳田姓になりました。
 大正8年45歳で官を辞した後,民間にあって研究に専念し,庶民の生活のなかに生き続ける信仰,習慣,伝承,儀礼,行事をたずねて全国を歩き,「民間伝承」「郷土研究」などによって後進を指導し,日本民俗学を創始しました。
 多方面にわたる著作は100点を越え,その業績は海外でも高い評価を受けています。文化勲章を受け,福崎町名誉町民第1号,正三位勲一等旭日大綬章も授与しました。昭和37年88歳で没。
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2 コメント

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小さな家 (山口ももり)
2012-09-12 08:29:22
「日本一小さな家」・・・以前、見た乃木希典の生家もその小ささにビックリしました。昔の人って本当に質朴に育ち、我慢強く教育されたのでしょうね。でも・・・なんだか楽しそう。一筋で無いって云うのが楽しそうなんです。
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Unknown (瓜亀仙人)
2012-09-13 18:53:21
ももりさんへ
このお宅のご兄弟は皆さん凄いですよねぇ~
皆さんこの家で育たれたんですよ。
そんな思いで家を眺めていたら、いろいろ考えてしまいました。
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