大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

平城京羅城門跡で北浦定政

2011年06月22日 | 奈良市
昨日書いた“平城京羅城門跡”。
草が繁った公園の中に,万葉の歌碑が点在していた。

すべて“平城京”を詠ったもの。

しかも超有名!

そんな中に知らない歌と「北浦定政」という名前???
私がまだ知らない人???
歌碑の裏の文字を読んで興味津々。
さっそくネット検索。
こんな記事を見つけた。
彼はすごい人やった。

◇「皇都追究」救国のため
平城京が長岡京へと遷都されて以来、京域の大半は早々に水田が卓越する農村地帯となり、近代にいたるまでその景観は変わることはありませんでした。平安時代以降の土地関係の文書には、田畑の場所を表示するのに「添下郡右京一条二坊三坪内 南大路」といった記載が数多くあり、平城京条坊の呼称が土地表示として生き続けていたことは確かです。
江戸時代になると、旅日記や地誌に「超昇寺(ちょうしょうじ)村二条というところに方八町あり」(大和名所記・1681)などとあり、このころには平城宮跡の存在は普通に知られていたことがわかります。しかし、都全体つまり平城京について人々が留意した形跡はありません。
 平城京跡の実証的研究は、江戸時代の終わり近く、北浦定政(1817~1871)に始まります。定政は奈良古市(ふるいち)の人で、国学者の系列に連なります。大和盆地の水田地割である条里制や天皇陵墓の比定などの研究につとめ、わけても平城京の条坊地割を、広範囲におよぶ正確な測量を通じてみごとに実証しました。定政は若年の頃から学問に志し、なによりも好学の人であったのでしょう。しかし、ただそれだけの理由だったのでしょうか。
 定政の生きた江戸時代の後期という時期は、日本の歴史の中でも最も激動著しい時代でした。平城京研究の原典ともいうべき「平城宮大内裏跡坪割之図」を完成した1852年(嘉永5)に定政は36歳。その翌年にはアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、長い鎖国の眠りをさまします。
 日本に対する外国の執拗(しつよう)な干渉は、これより先すでに18世紀段階から始まっており、国防策をめぐって洋学、儒学、国学など政治家、知識人を巻き込んだ騒然とした世情にありました。定政20歳の年、大坂の町奉行所の与力であった陽明学者・大塩平八郎は、豪商や役人の横暴に苦しむ人々に同調し、民衆とともに蜂起しましたが、鎮圧されて自殺します。
 その前年、奈良では丹波市(たんばいち)近くの三昧田(さんまいでん)の農婦中山みきが神がかりして、天理教を開きました。その背景には忍び寄る社会不安の中で人々が苦難からの救済を求める世情がありました。
 定政のころの国学は、中世歌学に対する近世合理主義の反動という色彩が強かった江戸初期の段階を脱して、日本という国家の本源を問い直す思潮へと変わっていました。この背景には、欧米列強の武力侵略による植民地化や、それに対応すべき幕府権力の衰退への危機感があったことはいうまでもないでしょう。こうした不安な世の中で、それをかき消すような定政のひたむきさは、知識人としての一つの時代との交差の仕方であったのかもしれません。
 憂慮すべき国の現状を思うほどに、祖師にあたる本居宣長が唱えた、古代の天皇統治こそ「まことのなさけ」にもとづく調和社会を保証する政治であったとする「神の御国」を行く先に思い見つつ、自らに可能な限り、救国のために、国に尽くす行為として、古代天皇陵の考証や修復に努め、奈良朝七代の皇都の追究にみずからを駆りたてたのではなかったでしょうか。
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8 コメント

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国学・・・藤村の父も (山口ももり)
2011-06-22 08:35:18
実証的研究は、江戸時代の終わり近く、北浦定政・・・ですか。興味深い記事です。1817~1871といえば思い出したのが島崎藤村「夜明け前」の主人公、藤村の父親。同じ江戸から明治への時代に生き、国学に傾倒しています。当時、国学はとても最先端の学問だったようです。藤村「夜明け前」読んでほしいなあ!!!ももりはしばらくブログお休みします。
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Unknown (kazuyoo60)
2011-06-22 09:45:37
余りにも有名な歌ばかりです。北浦定政さん、私も初めてです。江戸時代の後期の方だったのですか。沢山のことをご存知ですね。
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-06-22 17:59:24
ももりさんへ
ここのとこ、司馬遼太郎『胡蝶の夢』二巻で止まったまま。
時代も江戸末期でとまったままです。
ますますこの時代に興味が湧いてきました!
>ブログお休みします。
またまた旅でしょうか?
いいなぁ~
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-06-22 18:01:28
kazuyoo60さんへ
>余りにも有名な歌ばかりです。
そんな歌碑の中に1つだけ知らない歌と知らない人の名???
ぶらぶらさ迷っていると、知らないことに出会えて嬉しいです!
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Unknown (miwako)
2011-06-22 21:59:59
瓜亀様==:お腹も満ちて今PCを開きました。。
朝は、桃源展の当番で京都まで行きますから難しいところは飛ばしまして・・
じっくりと、梅酒で惚けた頭で読ませて頂きました。
門下生には90歳のおば様がピュアな絵を描かれてますが、この仙人様の学習意欲に脱帽です!!
ももり師匠や仙人様、絵の先輩方の生き方素晴らしく思います^0^!

あーぁー一寸、コトラになってるみたい~♪
作品見てくださってありがとうございます。
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-06-23 18:31:03
miwakoさんへ
作品を拝見しました。
なかなか、最前列で観賞(観察)されたことがよくわかる絵でした。
私は絵のことは分かりませんが、
昔々、夏に行われる
春日大社「親子万葉写生会」で入選したことがあるのです!
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Unknown (miwako)
2011-06-23 22:13:01
仙人様~~☆

私は、絵のこともよく分かりませんねん。
ただただ、画用紙に色を塗りたくっているだけです。
お師匠はこの下手なとこがええねんで!!と言われますが。
一生懸命遣ってるだけに、誉められてんだかどうだかねぇ~~><
春日大社の、親子写生会毎年夏にありましたね。
入選ってすごいです!!。昼からはアワアワでほろ酔いと書かれてましたね。うふふ。
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-06-24 18:55:31
miwakoさんへ
>昼からはアワアワでほろ酔いと書かれてましたね。
午前中は鉛筆で下書き。
その後,昼食にアワアワ。
午後から色を塗りだすと,午前中の疲れとアワアワの影響で・・・
えらい絵になっていくのです!

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