今年は冬が寒く、桜の開花が遅れる様子。
大和郡山のお城まつりの桜は???
@大和郡山の桜
御殿桜は天正13年(1585年)大納言豊臣秀長が姫路から郡山へ入部、多武峰の談山神社を城北に遷座、その堂宇と供に多武峰にあった桜樹も城内に移したのがその始まりと伝えられています。
享保9年(1724年)柳澤吉里が甲府より郡山に国替えとなり、入城してから桜樹の補植があって、そのとき以来毎年春の開花期には、藩士や町民達の楽しみであったといわれています。
やがて明治となり城郭が全て取り払われたが、旧藩士達が明治13年(1880年)本丸に藩祖柳澤吉保を祀る柳沢神社を建てて、その周辺に旧藩邸の桜樹を移植し又更に数百株を補植しました。そして毎年、かがり火をたき春宵一刻を 楽しむようになりました。これが夜桜の始まりであり、その後明治44年(1911年)に至り、 樹齢も次第に老境に入り花の姿も衰えてきたので、当時の町長三木忠方は、町民に呼び掛け寄付金を募り桜樹3000本を新しく城址一円に植えるとともに、かがり火を電灯(ぼんぼり)に替え、大正10年(1921年)大軌電車(現在の近畿日本鉄道)の開通により遠く大阪方面からも見物客が訪れるようになりました。
大和郡山のお城まつりの桜は???
@大和郡山の桜
御殿桜は天正13年(1585年)大納言豊臣秀長が姫路から郡山へ入部、多武峰の談山神社を城北に遷座、その堂宇と供に多武峰にあった桜樹も城内に移したのがその始まりと伝えられています。
享保9年(1724年)柳澤吉里が甲府より郡山に国替えとなり、入城してから桜樹の補植があって、そのとき以来毎年春の開花期には、藩士や町民達の楽しみであったといわれています。
やがて明治となり城郭が全て取り払われたが、旧藩士達が明治13年(1880年)本丸に藩祖柳澤吉保を祀る柳沢神社を建てて、その周辺に旧藩邸の桜樹を移植し又更に数百株を補植しました。そして毎年、かがり火をたき春宵一刻を 楽しむようになりました。これが夜桜の始まりであり、その後明治44年(1911年)に至り、 樹齢も次第に老境に入り花の姿も衰えてきたので、当時の町長三木忠方は、町民に呼び掛け寄付金を募り桜樹3000本を新しく城址一円に植えるとともに、かがり火を電灯(ぼんぼり)に替え、大正10年(1921年)大軌電車(現在の近畿日本鉄道)の開通により遠く大阪方面からも見物客が訪れるようになりました。
いやいや、我が家の周囲では、2週間ほど遅れているようです。
入学式には咲いて欲しいと思います。
きっと入学式の頃が満開でしょう。
最近は、卒業の歌がサクラなので???
やっぱり温暖化なんでしょうかね?
写真手前の線路は近鉄京都線。
電車に乗って、この線路を右の方にまっすぐ行くと、終点は京都ですよね。
京都、行ってみたいなぁ~