【令和の米騒動】 何人たりともオラの米は渡さねぇ byシオカラ米穀店
ここでいう不整脈は直接命を奪うわけではないが、
発作でメッチャ苦しかったり、人生の楽しみが色々制限されたり
精神的なダメージまでも含めたQOL(人生の質)を下げる御三家を言う。
それ即ち、心房細動、上室性頻拍、上室性期外収縮の3つの不整脈を指している。
心室性のなにがしや、その他モロモロについては管轄外なのでそっと退出なされよ。
不整脈から完全におさらばするためには医学・医術に頼らないと無理なモノが多い。
まあ筆者の根治までの格闘や根治術の体験談、その経過などについては
当ブログでも紹介しているので、そちらを見てもらうとして、
不整脈の怖さは、その病態とか症状だけでなく精神をも蝕む特性にある。
※心房細動は脳梗塞につながるので放置してはいけません
もし脳梗塞で体に障害が残った場合、家族に迷惑をかけるからです
例えば心房細動や上室性頻拍が出始めの頃は、
あまりの苦しさや恐怖心で予期不安によるパニック症を患った。
一時は人としての生活に支障が出るんじゃないかくらいに追い込まれたり、
その後も健常人とは同じように生きれないという苦渋も味わった。
このパニック症を克服するまでざっくり10年の歳月を要したが、
不整脈を知り己を知ったあとは発作中でも平気で眠れるようになった。
苦しいのは著しく血流(=血圧)が変化するとか血流が滞るものであって、
心拍数が160近くても血圧が大きく変化しないモノは
恐怖心さえ感じなくなれば共生できる。(これが良くない場合もあるが)
同じ不整脈に襲われていても、恐怖におののくか?平気で寝られるか?の差は
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」にある。
老若男女問わず、今どきの人は情報過多な上に情報が即時入手できる弊害で
とにかく頭に知識やデータを蓄積しない。
また、タイパ(タイムパフォーマンス)とか言われる通り、
すぐに答え(あるいは成果)だけを求めたがり地道な活動を嫌う。
まあ勝手にやってろなのであるが、
自分の不整脈はどんな不整脈で、どういう時に襲ってきて、どういう時に収まって、
肉体的・精神的にどのようなダメージをもたらすか?。
数年以上という長いスパンで真摯に向き合うことである。
(それが嫌なら医者がまだ早いと言っても医者に捻じ込んで根治術をしてもらえ)
さて、ここで直接的な答えを期待した方は甘いなぁ~。
ここの住人の症状や対処法が誰かに合うとは限らない。
ということで撮影体験に例えて考え方をご紹介する。
撮影体験に例えられたら読解できない人は、まあそれまでの人。
苦しんでくれ。(逃れたければ覚悟を決めて足掻け、学べ、戦え)
筆者は腎臓の劣化防止・負荷軽減のため塩分制限や内臓脂肪の削減が必要で、
食事に気を遣ったり(まあ、あんまりしていないが)、毎日散歩をしなければならない。
始めは良かったが、散歩だけでは苦でしかないので撮影を楽しみながら歩くことにした。
歩くことを主眼にしたときは1時間に7200歩、2時間で14400歩ほど歩く。
歩数の計測や歩く距離を出すのにスマホやスマートウォッチは必要ない。
時計があれば事足りる。
さて、時計がなくなったら?。
太陽が出ていれば時間は測れる。
太陽は1時間で15°東から西に動く。
おおよその真南(別に東西南北どこでもよいが)がわかれば日時計で時間は測れる。
はっ そんなことわかんなくてもスマホあればそれでいいじゃん。
でた!。
スマホや電気がいつでもあるというお気楽な前提で考えてる。
たかがこの程度の事でも知っていると知らないとでは違いはできる。
人間支障なく生きていくためには、まあいっぱい色々あるわけだ。
こんな感じで生きることの全てで一事が万事、人間力の差が広がっていく。
(スマホなくなったら生きていけない人、わんさかいるんじゃね?)
さて、自分が歩ける範囲(半径2キロ程度か)に縦横無尽に走る道路や歩道や土手。
ここをコース・つながりは固定せず、春夏秋冬・朝昼晩、晴れ/曇り/雨/雪/嵐、
とにかく歩き回って景色の変化や自然界に何が起きているかを見て記憶にとどめながら、
撮って撮って撮りまくる。
ちなみに人の目で見るだけではダメだ。
また、スマホやカメラの液晶でもダメ。
周囲の情報から隔絶され、自分が見た世界を強く意識できるファインダーで見る。
ここが重要である(視界を絞りより深く深く見る必要がある)。
これを地道に丹念に繰り返していくと見えてくるものが沢山ある。
まるっきり関係がないように見えることでも、
理由があって密接につながっているのがわかり
なぜそうなっているかが見えてくる。
不整脈とも同じように付き合えばよい。
春夏秋冬・朝昼晩。
発作が出た時、出る前、出た後。
いつ・どこで・何をしていたとき。
その時の肉体の状態、精神の状態。
心電図(5分心電図だと自律神経状態を解析してくれるものもある)、血圧計。
発作の持続時間、活発度。
気温、気圧。
薬効くのか効かないのか、どの薬が効くような気がするか。
あらゆることに耳をすまし、目を凝らせば(もちろん記録も)、
あるいは一人ひとり特有の何らかの繋がりとかパターンとか、
解決とまでは行かなくても、軽減する方法とかが見えてくるかも。
努力をしてもしてもどうにもならなければまな板の上の鯉になる(手術台に上がる)。
その決心がつけば、それはそれで良きである。
不整脈との戦いにあたっては
感度を上げ、知識を上げ、分析力を上げ、想像力を上げ、
五現(原)主義に基づいて行動することをお勧めする。(現場・現物・現実・原理・原則)
総合的な人間力が上げれば持ち主に意地悪をする心臓も白旗をあげるかも知れない。
自分の撮った写真を売ろう。
撮り貯めた数々の作品をフォトストック(写真販売サイト)に登録し始めた。
ブログにしてもYouTubeにしても時間を使う割にお小遣いにもならない。
どうせ時間を使うのであれば一文にもならないことに時間を浪費するより、
少しでも収入につながるかもね的なことに時間を使おう。
まあ、そういうことである。
しかし売れないのはわかっている。
理由は簡単だ。
すでに1億点近い作品が登録されており、クリエーターの数も40万人超え。
ガチガチのレッドオーシャンであり、ぽっと出の後発組が入り込める隙間はほとんどない。
検索に引っかかるのも一苦労であろう。
だが、売れない原因はそれだけではない。
そもそも人様に評価されるような身の程ではない。
それが売れない最大の要因である。
人様に評価されない身の程とは?
★人様に評価されるのが大嫌い
他人に評価されるなんてまっぴらごめんだ。
おまんまを食うために欠かすことのできない会社で評価されるだけでお腹いっぱい。
他人に評価されるのが心底嫌な男が人様に評価されて作品を買ってもらえる道理がない。
★流行りを追うことは断固拒否
流行りのヒト・モノ・コトには全く興味がない。
流行りに乗らなければ人様が欲しがる作品を出せるはずもない。
★一生懸命とか必死とか努力するなんて考えられない
何の努力もせずに中の上辺りにいれたらいいなぁ~というクズ。
努力しても成功するとは限らないが成功した者は皆すべからく努力している。
努力が嫌なヤツが成功するはずがない。
★権威に媚びるなんて死んでもイヤ
この世でのし上がるには「寄らば権威の影」が手っ取り早い。
親の七光り・虎の威を借る狐の言葉通りで
実力があるヤツだと錯覚させる着ぐるみを着れば無能がバレることはない。
被写体の威を借りれば写真が下手くそでも評価される。
権威の威を借りれば実力如何にかかわらず評価される可能性が高くなるのは事実。
ヒト・モノ・コトを利用しないヤツの作品が売れることはないだろう。
★性根が腐りきっている
いじわる・あまのじゃく・口も性格も悪い・狡賢い。
出世欲のあるヤツが狡賢いのは出世につながるが
出世欲のない私のようなヤツが狡賢いのは救いようがない。
性根がねじ曲がっている者の撮るものが人の心を打つことは、まあないだろう。
★出不精でめんどくさがり屋
いい写真が撮れるかどうかは、まず下手な鉄砲の数を撃たねば話にならない。
出不精でめんどくさがり屋はそれだけで機会を失っている。
マメに通うものが売れるとは限らないがマメに通わないものが売れることはない。
★持病持ち
腎臓保護の薬で頻尿・多尿のためトイレがない場所では活動ができない。
身体的制限・ハンデのある者は相当の覚悟がないと健常人と同じ過程を踏むことは難しい。
いける場所、やれること、これに縛りがある時点で健常人相手は相当厳しいだろう。
人は経験を積むと価値観が変わることがあり己の身の程が改善されたり改悪されることがある。
だが自分の本質の部分はどんな経験をしようが変えられない変わらない。
どんなに意欲を持とうが身の程にも超えられるものと超えられないものがあるのだ。
さて、そんな超えられない身の程で写真が売れない哀れな身ではあるが、
実は狙いも大博打である。
即ち、
★需要はあるがリッチなジャンルの熾烈な競争の世界で勝負するか?。
★需要ゼロかもしれないがニーズがあれば確率大のニッチなジャンルで勝負するか?。
需要はないかもしれないが競争も少ないニッチなジャンルで勝負することにした。
まあ、あまり下調べをすると絶望感しか残らないかもしれないので、
私が思ったジャンルがニッチなのかは知らんけど。
知らぬが仏という言葉もある。
期待せず、粛々と売れないであろう作品の数を増やしていきますか🤣
モンキチョウ
ボッチ。
ここでいうボッチとは?。
コミケ力はあるが好き好んで独りになりたがるヤツ。
コミケ力はあるが集団の中に居ると疲れるので結果的に独りになるヤツ。
また、日常のほとんどのことは自己完結できる能力のあるヤツのことを指す。
無能者や変質者のように周囲から拒絶されるヤツらや、
親のすねをかじって引きこもって一人という輩はボッチではないので注意されたし。
あと、ここはビョウキブログデスカ?。
という疑問が湧くかもしれないが、
病いという足かせが外れると病のことをぼやく必要がなくなり、
病以外のことが考えられるようになるので自由闊達になれる。
そのように解釈していただければ幸いである。
ボッチは強い。
災害に遭って周りに誰もいないとき、無人島に一人でほっぽり出されたとき、
生き残れるのはスマホという外部記憶装置ではない、
己の脳みそに豊富な知識と経験を蓄えたボッチである。
ボッチは弱い。
社会生活を集団で過ごさなければならなくなったとき。
皮をかぶり続けるのに疲れるのでやがて自分勝手に動き出し、
いずれは集団から脱落してボッチに戻る。
もし集団生活から逃げることができなくなったらボッチは実質的に死んだも同じだ。
集団の和をかき乱すやっかみ者か孤立して後ろ指をさされる爪弾き者となる。
呂布は一騎当千と言われたが、たとえ烏合の衆であっても1万人いたら呂布でも勝てない。
数は力、人の和は足し算、人の縁は掛け算である。
最近、ボッチ好きのワタクシに会いたいと
遠方からわざわざ会津に来てくださった方がいる。
この方、腰が低く自身は低能であると事あるごとに言ってくるのだが、
こういう方は要注意である。
今回の来訪は、とあるイベントの下見も兼ねていたのだが、
イベント時の宿泊先に挨拶がてらお土産を渡し、
条件が合わず宿泊予定をキャンセルした宿泊先にもお土産と謝罪の挨拶をし
今宵の宿泊先にもお土産を持参し、お世話になりますと渡す。
私も過大なほどのお土産をいただいた。
イベントで夜間複数人で撮影をやることになるわけだが、
イベント会場近くの道路わきの待避所や、国立公園の展望所などの使用許可を取るのである。
あ~いうのって使用許可とれるんだ
(もちろん誰もいない夜だから約束事を守れば使ってもいいよ的な意味である)。
さらにドローンを飛ばせるか否か?、飛行許可の必要性有無の確認まで、
ありとあらゆることをテキパキとこなしていく。
聞けば市町村や県や国の機関に電話しまくって管轄権者を探し交渉するのだそう。
自分は何でも自己完結させようとするボッチである。
この方は人の和と人の縁を巧みに使う集団型の人であると推測されるが、
行動力・実行力の差でボッチ力でも大きく負けている。
自分ボッチは人の和、人の縁をほとんど使えないので人間力では大差がつく。
身の程という言葉がある。
あまりいい意味で使われない言葉だが、実は大切な言葉だ。
これは己の価値感やこだわり、好き嫌い、持って生まれた行動力(行動範囲)、
体力や持久力、持病による制限、財力、
仕事や家族によって自由に使える時間の多い少ないなどを足し合わせたものが、
己の身の程となる。
人の和を図り、
人の縁を構築し、
それを巧みに使いこなす方にボッチオンリーの人間は勝てない。
世の中に自分よりすごい人間は五万といるが、まあこういう理屈故である。
ボッチは強いのか?弱いのか?
食うに困らない能力や自主自立性を持ち、
己の狭い世界に閉じこもっても一人で生きていけるボッチであれば強い。
周囲からの影響を受けず独自路線を歩めるからね。
ただ、行き過ぎると深い闇に堕ちて、
自死を図ったり、無敵の人になって他人様に迷惑をかける恐れが大きくなる。
あまり個に深く沈みすぎず、適度に集団と付き合いながら生きるのが吉である。
そして人間が大嫌いになります。
もちろん大半の人は普通、
いい人も大勢いるけど、
あまりにもクソな人間が多すぎて帳消し。
命に係わるかどうか別にして、
病気の世界にもマウントってあるんですかね
カメラの世界では金額や性能でマウントとる人いますけど
軽い病気だと、その程度の病気で騒ぐな・・・みたいな
痛みや苦しみで死というものを意識すると、
健康のありがたみや普通に生きれることがとても貴重なのだと感じれるようになる。
孫娘が生まれて本当の愛情というものを知ったということもありますが、
最近は特に小さな世界の命の儚さが愛おしく思えるようになりました。
1cmに満たない生き物にも命があり、
人間よりはるかに生きることに真剣です。
(適当に生きてたら死んじゃうからね)
写真のクモは、どちらもハエトリグモという種で、
目がとてもよく、頭がよく動くので仕草がとてもかわいい。
しかし、一瞬の油断が命取り。
自然は多くの命を育みますが、同時に命に対してとても厳しい。
健康のために歩き回り、自然をくまなく見て回ると
自然の儚さがわかって自然に優しくなれます。
好き勝手わがまま放題に生きてエネルギーの無駄遣いをし、
そのしっぺ返しで災害で家を失ったり命を失ったり。
それでも自分には関係ねぇ~と、どんどん我儘ぶりが増長しまくり。
もう少し地球に対して謙虚に生きませんか?。
言ってもわからんか・・・。
せめて病に苦しんだ人には、そこに気づいてほしいけどねぇ~。
【カタバミ】葉がレッドタイプ
ただの雑草/そこら中に普通に見られる/ヤマトシジミ(蝶)の幼虫の食草/
花は小さいが可憐で綺麗/種は手りゅう弾のように弾け飛ぶ/
カタバミは葉が青いタイプと赤いタイプがあるのは知っていたが、
花に微妙な違いがあるところまでは見てなかった。
葉が赤いタイプは花弁内側に鮮やかなレッドリングがある。
生物の進化とは実に不思議なものだ。
赤と青に分かれた理由はなんだろう?。
自然は実に奥深い。
昨今、AI(人工知能)が目覚ましい発展を遂げている。
ここで主導権を握れば莫大な富が得られる。
例によって欲の亡者(=人間)は恐ろしい勢いで開発を進めている。
AIが人を滅ぼすか否か?。
滅びるをどう定義するかによって見方は変わるだろう。
例えば、人が生きているか死んでいるかの定義。
筆者は人間らしい活動ができなくなった時点で人の死と定義している。
人間らしい活動とは?。
自分の意志で何かを成せること。
それができなくなる、あるいは大きな制限によって多大な労力を必要とする時点で、
人の死と考える。(つまり、自分はそのような状況下で生きるのはまっぴらごめんということ)
カメラで話を進めよう。
現時点の最新の高性能機は、
被写体の高精度な自動認識機能
高精度なAF機能
高精度な被写体の追尾能力
プリキャプチャ機能(シャッターを押す前から記録を開始している)
著しい連写・記録機能
それを可能とする処理能力を有している。
SNSを見ればわかるが、かつてはプロ、あるいはハイアマチュアの領域だった
カワセミの飛び込みなども、高性能機さえ持っていれば
にわか野鳥カメラマンでさえ撮れるようになった。(必ず撮れるとは言ってないよ)
ここで問題です。
人がシャッターを押す前から裏では記録されている。
人が到底制御できないスピードで連写し記録している。
ピントを合わせるモノ、ピントを合わせる位置を人が制御していない。
この状態を人が撮っていると定義できるか?
カワセミの飛び込みをこのような高性能機で撮る場合、
人が介在している撮影プロセスは何か?と考えると、
その場にいた。
必要な設定をカメラに施した。
カワセミを追ってカメラを向けた。
シャッターは押した。
せいぜいこのくらいである。
人間が写真を撮っているか否かを筆者基準でいえば、
「まあギリギリ人が撮っていると言えなくもない」である。
撮るプロセス、どう撮られたかを写真の価値とみなす筆者にとって、
こういう撮り方をされたものは、もはや写真として見る価値はない。
ちなみに商売としてなら話は別だ。
これはあくまで撮ることが趣味でぇ~すと言ってる輩が、
自分が撮ってるか否かを主張していいか悪いかの話です。
ここで一気に話を進めよう。
生成AIが著しく進化した未来。
人間がせっせとSNSなどに投稿した画像やEXIF情報、日時や位置情報から、
パソコンの前で撮影位置・方角・時間帯・気象条件などを指定してやれば、
生成AIは、まるで人が撮ったかのような素晴らしい画像を生成するだろう。
その頃の人間は多くのことを自動実行されるタスクとしてAIに実行させているだろう。
その頃にSNSが存在意義を持ち続けているか、甚だ疑問ではあるが、
AIは承認欲求を満たし続けたい依頼主の要求に応え、せっせと画像投稿をし続ける。
あるいは画像だけでなく、依頼主の特徴をLLM(大規模言語学習モデル)によって掴んだAIは
まるで、その人間が書いたかのようなキャプションやコメントを書き続けるに違いない。
もちろん返信も!である。
そして、それはその人間がある日突然死んだとしても続けられることになる。
(銀行口座、アカウント、本人が死んでも存在し続けている現在を見れば改善される見込み薄だ)
これは実に恐ろしい話だ。
これが100人1000人なら、まだいいが、
実在する人間の数を大きく侵食することになったら?。
私たちは人が発信していない画像や情報に日々晒され続けることになる。
で、睡眠欲と食欲以外のタスクをAIに任せて暇を持てました人間は何するか?
まあ、自堕落した生活を送るんでしょうねぇ。
ちなみに、国・企業などが、この手の問題の解決策を打ち出すのでは?とお考え?。
まあ、メタの詐欺広告に対する対応を見ればわかるだろう?
金になるのであれば何でもやるのが企業である。
だって~、自らの存在価値をなくす方向に人類自らせっせと舵を切っているんだもの。
バカとしか言いようがないよねぇ。
ちなみに筆者はAIが人類にもたらす恩恵も重々理解している。
だが、私、あるいはあなた個人に存在価値がある未来かというと、
まあ、ゴミ・クズ・カスみたいなもんだろうね、個人としての人の価値なんて。
ただ、自分が死んでも自分に成り済ましたAIが
せっせと自分らしい発信を続けてくれるんだから、
承認欲求厨にとっては自分が存在しなくても本望と言える未来なのかもしれない。
ちなみに、今現在も人の欲が絡んでいる情報は一切信じていない。
(動画やキャプション付きの画像も含めて)
なるほど、だから人を遠ざけ自然と向き合うことに走るのか俺は。
【カタバミ】ただの雑草/そこら中に普通に見られる/ヤマトシジミ(蝶)の幼虫の食草/
花は小さいが可憐で綺麗/種は手りゅう弾のように弾け飛ぶ/
Nikon Z 7ⅱ+TTArtisan 100m T/S 2×Macro
死ぬまで人工透析にならないように塩分制限や適度な運動(減量)が必要になった我が人生。
病気にならなければ自宅周辺に限らず、あちこち歩き回ることはなかっただろう。
(退職してジジイになったら暇を持て余して歩いたかもしれないが)
自宅に閉じこもって1日中パソコンの前に座ってポテチをほおばりながらペプシゼロを飲む。
出かけるときは車でピュ~~ッ。
世界のほとんどが見えず、何も知らない人間で終わったであろう。
(ちなみに自転車でもダメ、歩くのに比べて圧倒的に触れる情報量は少なくなる)
ただし、距離を稼ぐために歩くことがメインになると視界は大幅に狭まる。
道端の草、雑草の花など、あらゆるものをじっくり見ながら歩こう。
病気にならなかったら決して見ることのなかった世界が見えるだろう。
自然をじっくり見て歩くのも悪くはない。
追伸
ただし、病気にならずに酒池肉林で人生を終えられた方が個人的には良かったがね(-_-)
病気ブログなのに病気の話がない?。
痛ぇ~ 肩が痛ぇ~よ~。
五十肩も立派な病気です(マジで寝れね~し)。
【まずはじめに】
どこのどなたが何を写真と呼ぼうが、写真をどう利用しようが個人の好き好きである。
ただ、もしあなたが物事の本質を理解できる人だったら?。
私が言いたいことはわかるハズである。
桜の季節になると桜の名所は人の群れに埋もれ、
桜を見に来てるのか?人混みに揉まれに来てるのかわからなくなる。
さらに世は似たような桜の画像で溢れ、うんざりさせられる。
ある食べ物がバズると、そのお店には人が溢れ、世は同じような食べ物の写真で埋まる。
毎日名所を巡り、
毎日名物を漁り、
毎日SNSに投稿し、
毎日かなりの時間を他人へのいいねに費やし、
お互い様のフォロワーの数や、
お互い様のいいねを増やすことに必死になる。
欲に群がる醜い人間。
痛い! 痛すぎる!。
病気だ。(病気ブログに登録しなさい)
さて、まあほとんどの人間が侵されてるSNS病。
なんでこんなことになってるのかというと、
人は認めてもらうことに飢えてるんだなこれが。
よく考えてみて欲しい。
家を建てるために銀行にお金を借りる時、銀行があなたにお金を貸してくれるのは?。
少なくともあなたが納税の義務を果たし、
社会的信用のおける企業かなんかに属しているからである。
その手の後ろ盾のないプータローだったら絶対にお金は借りられない。
同様に住民登録をして住所が定まってないと、
これまた普通に受けられる権利を甘受することもできない。
ただの一般人が他人に認めてもらえる(ような錯覚を得られる)。
昔は納税の義務を果たし立派に会社勤め(つまり社会的信用というバックがあった)
をしていたとしても、不特定多数の他人に対しては認められるなんて機会すらなかった。
しかし、SNSは実現しちゃったんだなぁ~。
どんな馬鹿でもアホウでも、とりあえず日本語の上っ面が読めて(真意が読めないアホが多いが)
キーボードなりスマホの液晶で日本語らしきものをポチポチできれば、
社会的信用がないオポンツク野郎だとして一丁前の口が利けるようになった。
カメラや撮影の専門知識がなくても、馬鹿でもチョンでもボタン一押しで
それなりの写真(あるいは動画)も撮れるようになった。
で、ボタン一つでSNSに上げられ、どこの馬の骨とわからないやつでも
人から認められる(ような錯覚を得られる)ようになった。
で、カマッテチャンや認めてチャンがワラワラ湧いて出たのが現代なのである。
にしてもだ、少なくとも家族や自分の会社(これは生きるためのお給金に直結するからね)
に認められていればそれで十分だと思うんだか、
上っ面だけでも認めてもらうことが現代人にはとても重要らしい。
しかも、
名
場所
モノ
の威を借るナントカ
そういうバック(自分をアゲアゲしてくれるヒト・モノ・カネ・肩書など)
に頼らないと認めてもらえないので、まあ、必死!必死!。
最初はいい写真撮るなぁ~と思ってフォローした人も、
本性を垣間見ると、まあ、承認欲求中毒者ばかり。
真摯に撮影に向き合ってる人って絶滅したようです。
もっともSNSには出没していないだけなんだろうね、
SNSなんて得られるものは空虚しかないし。
(小銭稼ぎの手段にしているのはもっと醜い)
TTArtisan 100mm T/S ×2 Macro(Nikon Z 7Ⅱ)
さて、今回の写真は【春】である。
※この春の真の意味が分かるあなたは助平です
名もなく(あるかもしれんが調べるのがメンドクサイのでパス)
バックがあるわけでもなく
バズる要素もなく
ただただ平凡な被写体に対して
極薄の被写界深度と
絞りと
露出と
シャッタースピードと
ピント位置の
せめぎあいの苦闘をしたただの記録である。
(それを春で表現しようとしたワタクシの深慮遠謀を理解してくれる人は素晴らしい人です)
虎の威を借るSNS民には理解できないであろうが、
名もなき映えないこの被写体の
この撮り応えはわかる人にしかわからない、
撮影の真髄がそこにある(なんつってね)。
私の住んでいる福島県は3つの地域に分けられている。
西の会津地方、東の浜通り地方、間に挟まれる中通り地方である。
クマ騒動で人間界が大混乱に陥る中、ある脳内花畑的都市伝説がある。
クマ(ツキノワグマ)は浜通りには居ない。
言うまでもなく地方の境に明確な何かがあるわけではない。
より上位の県境ですら、ただの地図上の線である。
つまり中通りと浜通りは地続き、林続き、森続きなわけだ。
クマが人間界に多数出没するようになった真因は個体数の増加である。
で、縄張りを持てなかったクマの中では弱いクマが山を追い出され
人の住む里山や市街地に出たという風に言われている。
であれば、境にいるクマが地続きのすぐ隣にある中通りから浜通りに行かない理由
説明してもらえます?。
(このくだらない話は千葉にもツキノワグマはいないというヨタ話にも繋がる)
脳内花畑的思考の2番目は
クマの習性や本能といった名称でまかり通る固定観念である。
コレに見えるのは奢り高ぶった人間の醜い姿だ。
まず、ハッキリ言って本気で生きないと生きていけないのがクマなどの野生生物である。
ふざけ半分でものうのうと生きていける人間、
引き籠ってゲームをやっていても生きていける甘ったれな人間とは違ってね。
つまり彼らは生きるためには、いかなる労力も惜しまないし手段は選ばないということだ。
クマは自分のものだと認識したものに執着する?
というくだらない報道をマスゴミが垂れ流しているが、
たかがラーメンを喰うのに行列し、承認欲求を満たすためにスマホが手放せない
ふざけ半分でも生きていけるクセに執着心の塊のお前ら人間が言うかぁ!
脳内花畑全開!
おバカ人間最強である!
(ばかばかしくて笑いが止まらんわ)
次にクマにも個性がある。
その二つを融合させると、クマは人を恐れるとか、
これまで言われてる固定観念と言う人間が勝手に決めた常識が、
如何にくだらないものかがわかるだろう。
知っておかなければならないのは、自分の近くに居るクマが
どの様な状況に陥っているのか?
(主に飢えているのか否か)
そのクマの性格は?
などによってクマの行動には無限のバリエーションがあるということだ。
人の存在を知らせれば逃げるクマもいるだろう。
人の存在を知れば積極的に襲ってくるクマもいるだろう(食害クマ)。
人がエサをくれたものと思っているクマであれば人に寄ってくるだろう。
クマは人が思ったようには動いてくれませんよ
かつて、クマが人を恐れたのは人に狩られたからである。
人が発する音、火薬の破裂音(銃の発砲音)が有効なのも、
人がクマを狩る存在だったからである。
今は環境が変わり(ハンターが減った)、
人に狩られる経験をしていないクマも多い。
なので、クマが人を恐れる道理がない。
(もし893が庶民に一切に危害を加えない保証があったら?893怖い?)
クマは環境に合わせて本気で生きているだけである。
クマはあ~だこ~だと勝手に決めつけて
勝手に騒いでいるのは愚かな人間だけなのだ。
ちなみに、クマ対策に有効なのは
化学物質による生体の防御反応に作用する熊スプレーだけである。
だが、これも確実に身を守れる保証はない。
有効な距離で噴射を浴びせたとしても、
自転車よりも早く近づいてくるクマが一撃加えていく可能性はゼロではない。
アサリを漁るあの熊手で人間が本気で殴ってきただけでも、
頭蓋に穴が開き、肉はそぎ落とされる。
人間の数倍の力のあるクマなら?。
これが想像できないのはバカだけである。
火薬の破裂音も、皆がそれをバンバン使えばクマは慣れてくる。
クマは火薬の破裂音が怖いのではない。
危害を加えてくるのが鉄砲だから火薬の破裂音を恐れるのだ。
火薬の破裂音がしてもクマに何ら危害を与えないことが繰り返されれば?
火薬の破裂音にも慣れ、怖がらなくなるのは自明の理だ。
もし、人がクマの被害を受けないようにしたいのであれば?。
人間の固定観念の範疇でしか動かないクマだけにするしかない。
それはつまり、山中で生きていけるクマのみにするということだ。
それを成すためには人の固定観念の範疇を外れるクマは徹底的に駆除し、
個体数をコントロールするしかない。
人間がお花畑の脳みそであり続けるためには、
お花畑の脳みその人間に危害を加えるクマは徹底的に駆除するしかない。
脳内お花畑の人間が作った今の状況に、
脳内お花畑の人間が痛い目に遭っているという皮肉には
笑うしかない。
体調1cmくらいのハナアブくん
(銘匠光学 TTArtisan T&S 100mm f/2.8 MACRO 2X ティルト・シフトレンズ)
オラオラ族のオラオラとは?。
金欲、あるいは承認欲求を満たすために、
権威の威を借りて自分を大きく見せ、
自分を垂れ流してあらゆるプラットフォームを汚染し
際限なく場の破壊を繰り返す、
いい加減ウンザリさせられる人間とその行為の総称。
SNSが承認欲求厨の巣窟である。
ある程度予想はしていたが、まだ自分は甘かったようだ。
YouTubeはまだマシだ。
動画は1枚静止画を撮ればオラオラできるコンテンツではないので、
容易くオラオラ族がオラオラできる場ではない。
また、視聴する側になっても登録チャンネルとホームのオススメと言う形で、
AIによる選別が入るし、フィルター機能もまあまあ使えるので、
オラオラ族のオラオラまみれにウンザリすることはある程度回避できる。
だが、X(旧Twitter)とInstagramはひどいもんだ。
ポンと拾った拾い絵だろうが、AI作画だろうが、1枚画像があれば簡単にオラオラできる。
特に性質の悪いのは、一見すると名所・名物のPRをやっているかと見せかけて、
私を見てぇ
私を構ってぇ
私ってすごいでしょ~
フォローしてぇ
いっぱい「いいね」してぇ
そしたら有名になって、お金も稼げるかもぉ~。
何より気持ちいいのよねぇ。
自分を見てもらったり、知ってもらえるってぇ。
名所・名物の威に乗っかりながらオラオラするオラオラ族だ
私はカメラで撮ることに真摯に向き合ってる人を探す目的でSNSを利用しているが、
ちょっといい写真を撮ってるなとフォローをした連中(オラオラ族)の
オラオラオラオラァ~~~がズラ~ッと数件、いや数十件、あるいは数百件、
もしかすると底なしで場を埋め尽くされ、オラオラ族でない人に出会う場を奪う。
じゃぁ 辞めればいいじゃん。
おっしゃる通りだが、たまに同じ価値観を持ってるかもしれない人と、
DMでやり取りをして、それがいい出会いになることもあるので、
その道を閉ざすのはちゃうかなと。
だいたいの凡人をフォローしてくれるフォロワーは
闇バイトの入り口
国際ロマンス詐欺の入り口
相互フォロー目的
であり、超々凡人で承認欲求のない、ボッチで変態の私の場合は、
その手の手アカのついてないフォロワーさんは多分数人である。
せいぜい1日1回かな、許容できるのは。
それ以上に場を埋め尽くすオラオラ族はフォローを解除していって、
純粋に撮影を楽しんでる人を見つけられるようにしよう。
今はありとあらゆる場に承認欲求を満たすためのネタ集めの一環として、
山のようにオラオラ族が押し寄せ、場を荒らしまわっている。
こういう連中は、オラオラを達成するためにルールやマナー、
地元民の迷惑などを全く顧みないコトが多いので、ウザイことをこの上ない。
ネタ集めの場を荒らし、ネタ披露の場も荒らす。
自分を認めてもらうことに心血を注ぐ寂しい人間に溢れてるんだね。
まあ、しゃ~ないか。
今ってあらゆるものが消費される時代。
それは人間も然り。
消費されてうんこにならないために、
一生懸命自己の存在をアピールし続けなければならない。
かわいそうに。
小人閑居して不善をなす、至らざる所なし。
(暇でくだらない人間ほど、匿名だと、ろくでもないことしかしない)
※訳は現代風にアレンジ
紀元前500年くらい前の大学という書にこの一節があるらしいが、
人間はこの頃より全く進歩していない。
いや、というよりは、よりひどく退化する一方である。
自給自足に近い方の生活パターンを見ていると、
人が持てる時間のほとんどが食べることのために費やされることが見て取れる。
つまりこの頃に、この書で書かれているようなろくでもないことしかしない人間は、
まあ、いわゆるそう一生懸命働かなくても食っていける暇人だったということだ。
翻って現代を見てみよう。
テクノロジーの進化により、まあほとんどの人が暇を持て余している。
また、自由主義の旗のもと個人がやたらに尊重され人が皆俺様何様化している。
そしてSNS(苦情の電話も)は匿名で悪事が働ける。
かつてのTwitterはバカッター(バカ発見器)と言われたが、さもありなん。
今は愚か者ほど大活躍できる(と愚か者が思い込める)素晴らしい時代である。
自分が生きるために全く関わってない地域に起きているクマ駆除に対する苦情。
羽生結弦さんが離婚に至った経緯。
枚挙すればいとまがないが、
当事者でもないお前が裁判官のようにこ~しろあ~しろと、
批判・誹謗・中傷を浴びせる
一体お前ら何様?
うるせ~よ
黙ってろ!
こういうやつに限って、立場が変わると言うこと180度変えるし、
現実社会では何もできない、何もしていないクズのことが多い。
他人の縄張りにズカズカと入り込んで己の価値観を押し付ける俺様何様。
金のためにあえて炎上するようなことをやる金の亡者。
己の憂さを晴らすために人を傷つけて悦に入る愚か者。
暇な俺様何様が人類社会には溢れかえっている。
まあ、いっぺん滅んだ方がいいよ人間は。
昨今の人の命を平気で奪う人間の愚かな所業(各地の戦乱など)を見ていると、
80年前にバカ騒ぎ(とてつもない量の血を流して)をしてした反省をすっかり忘れている。
遠からず大きな事変が起きて人類自らが人減らしを行う羽目になるだろう。
こんなことを言ってると、
お前も暇を持て余して好き勝手言ってる俺様何様だろ!。
と思う方もいるだろう。
まあ、そういう方は思慮が浅く想像力に欠け思考停止に陥っている、
小人閑居して不善をなすタイプの愚か者である。
ここは私の縄張りで他人が見る見ないの自由は保障されている。
価値観は披露しているが上記の理由により押し付けてはいない。
一方、他人の縄張りに要らぬコメントをしたり
他人の縄張りで他人に自分の価値観を押し付けたり
自分が自分の縄張りで他人に誹謗中傷されたりすることは
被害者は避けようがない(余計な手間をかけずにと言う意味で)
自分が自分の縄張りで自己主張することと、
自分が他人の縄張りで自己主張すること、
その罪深さの差がわからないからこそ、
愚か者が愚か者のままでいられるわけだ。
周りから見れば、痛すぎる不幸で可哀想な奴だが、
本人はいたって幸せなので、もはや救いようがない。
しかも、かなり以前からこの手の思慮が浅く想像力に欠け、
本能だけで生きているケダモノのような愚か者が社会に増え続け、
今は道を歩けば愚か者に当たる時代になった。
おかげさまで私は変態かつ危険人物と理解していただけることが多いようで、
あまり他人に絡まれることは少ないが、
ごく稀に食いついてきたり噛みついてくる輩がいる。
バカッターでもYouTubeでもそうだが、
こういうやつはアカウントを持っていても自分のコンテンツは持っていない。
つまり、見るだけ勇者、言うだけ勇者の暇人で俺様何様なのだ。
どんな小さなことであっても、
何かに打ち込んで何かを成すというのは存外手間がかかる。
また、何かを成せる人間は、常に振り返り、より高みを目指す。
見るだけ勇者、言うだけ勇者の暇人で何様俺様とは違い
他人の縄張りに入って他人を荒らす暇がないのだ。
小人閑居して不善をなす、至らざる所なし。
(暇でくだらない人間ほど、匿名だと、ろくでもないことしかしない)
これが紀元前から全く進歩していない人間の愚かな本質である。