初めて頻脈発作に襲われた日、私は死を覚悟した
そこからトラウマになり、パニック症を発症し
ありとあらゆる感覚が研ぎ澄まされた
心臓の鼓動のみならず、血液の流れる音まで聞こえた
パトカーや救急車のサイレン、電話、地震
時には家の前を車が通っただけで
頻脈と呼吸困難に襲われた
食器のガチャ音、ドアの閉まる音
寒暖の差などのありとあらゆる刺激が
頻脈と呼吸困難につながった
逃げられない時間、空間などはもってのほかであった
どちらかというと、鈍な方の私が
なぜこうも急変してしまったのか?
以前、病院で不整脈で救急車で運び込まれた女性が
私死ぬんですか?と看護師や先生に
泣きながら掴みかかりパニックになる様子を見て
冷静に悟った
その根底には死への恐怖があるのだということを
また、事件・事故など平穏や安全を脅かすものを
恐れる心も不安と恐怖を煽った
数十回と頻脈に襲われて、ひとつ気づいたことがある
頻脈は、必ず苦しくなるわけではないということである
最近は、頻脈発作の9割は苦しくないものである
心電図を見ても、大きな違いは見受けられない
(オシッコが近くなるのはよろしくない発作の証拠です)
では何が恐怖心や苦しさを呼ぶのか?
やはり、それは
未知なる安全を脅かすものへの恐れ
である
数をこなすことによって
死ぬ可能性は低い不整脈だとわかり
いつかは収まるという経験則を手に入れ
予防や起きてからの抑え方もわかってくるようになり
自身の頻脈が
未知なるもの、死へつながるものでないと知った時
そしてそれと向き合えるようになった時
頻脈は必ずしも苦しいものではなくなった
この可愛い可愛い天使が私の元に舞い降りてからは
死は滅び
と考えなくなったことも大きいだろう
己が死すより、愛するものを失う悲しみの方が耐え難い
愛するものより先に死ぬ方が幸せなのだ
妻、結愛、結愛のパパ・ママ
私よりも長く生きるべき人が先に死ぬのを見たくはない
(もちろん、この娘の成長を見ずして死ぬつもりはないが)
確かに、死んでしまえば
今までやれていたことは一切できなくなる
愛する人にも会えない
何十億人と死んできて
死後の世界があるという確証は、科学的に得られていない
心が脳の中にあるとすれば、脳が死んだ時点で
心も失われる
そう考えると、やはり死は滅びなのかも知れない
ただ、科学では説明できないことも
ごく稀ではあっても皆無ではない
俺は死んだら星になって結愛を守る
この娘に降りかかろうとする災いを振り払い
幸せを届ける守り神になるのだ
不整脈の大半は
己の心の持ちようで軽く済ませられる
病は気から
もちろん、気の持ちようだけでは
どうにもならないのもあるけどね
苦しい不整脈は恐ろしい
だが、その苦しさだけが恐ろしいのではない
もっとひどくなるのではという恐怖
いつ終わるかわからない恐怖
それらの恐怖は、いともたやすく人の心を壊す
今、遠く離れたかの地で、彼女はいつ止むともしれない
苦しさと恐怖に苛まれ、心が壊れようとしている
だが、遠く離れた私には、彼女を助ける力はない
頼れるものがなくなったとき、人は簡単に壊れる
言葉は力にはならない
不整脈だけは、頑張ってもどうにもならない
あらゆる工夫も、我慢も簡単に押しつぶしてしまう
それが不整脈の真の恐ろしさなのだ
私にできることは
わかってあげることと見守ることしかないのだろうか