京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

口下手で排他的で寂しがり屋で

2025年02月05日 | 日々の暮らしの中で

今朝なんのひょうしにだったか「2月5日」という日付けを目にして、今日が西村賢太さんの祥月命日であったことに気づきました。
氏の芥川受賞作品『苦役列車』を読んだとき、その内容はともかく「この文体好きだ」と感じた思いは、後に読んだ『誰もいない文学館』でも同じように感じたものです。

肉声を聞いてこなかった私は、時折人生に、文学をのなかで語る氏の言葉に耳を傾けることがあり、こちらのNHK ETV特集「魂を継ぐもの〜破滅の無頼派・西村賢太〜」からも、氏の心象に想像を巡らせていたのです。

決して熱心なファンではないし、読んだ作品は2作のみ。それでも何か引かれてきた。どうしてこう引かれるのか。稀有な方だ。
ことばの使い方、作家としての姿勢、文学観、他人との関わり方…、にこだわりの強さを感じ、ときにはその言葉の激しさ、汚さには偏見さえ感じたが、同時に同じ思いをそこに見いだす自分がいたりもする。


1月上旬に三条駅ビル内のブックオフで目にして即買いした『雨滴は続く』。
2016年から「文學界」に連載してきたものが、連載最終回の執筆途中に著者が急逝、未完の遺作となった。2022年2月5日、54歳で亡くなり、3回忌を前に早くも文庫化されている。

【2004年の暮れ、北町貫多は同人雑誌「煉炭」に発表した小説が〈同人雑誌優秀作〉に選出され、純文学雑誌「文豪界」に転載された。これは誰からも
認められることがなかった37年の貫多の人生において、味わったことのない昂揚だった。
次いで、購談社の編集者から30枚の小説を依頼される。貫多にとって純文学雑誌に小説を発表することは、29歳のときから私淑してきた不遇の私小説作家・藤澤清造の“歿後弟子”たる資格を得るために必要なことであった。
しかし、年が明けても小説に手を付ける気にはなれなかった。貫多に沸き起こった、恋人を得たいとの欲求が、それどころではない気持ちにさせるのだ。
1月29日、恒例の「清造忌」を挙行すべく能登を訪れた貫多は、取材に来た若い新聞記者・葛山久子の、余りにも好みの容姿に一目ぼれをしてしまう。・・・】
小説は、貫多の作品が芥川賞候補になるところで終わっている(らしい)。

巻末にヒロイン葛山久子さんによる特別原稿が収められている。
葛山さんが書かれていた。
「・・・取材のお礼として、後日いただいたお手紙が、あまりにも繊細で、きれいな文体だったため、『この文章にもっと触れたい』と思い、お返事を書きました。それから細々と続けた文通は、もう17年になります」
「自分に自信のないところ、それを必死に隠そうとしているところ、口下手なところ、排他的なくせに寂しがり屋なところは、私ととても良く似ているような気がします。出会うべくして出会ったような気もします」

投げ出そうかという気持ちも半分生じかけていたが、読み切ろうと改めて思った。
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吉祥の花

2025年02月04日 | 日々の暮らしの中で
立春を迎えた新しき春の日に手を伸ばしたのは、澤田ふじ子さんの『花暦 花にかかわる十二の短編』だった。
冒頭の「寒椿」のヒロインは、大垣藩の家中では微禄に属する武家の娘で24歳のふき。
17歳のときに母を亡くし、天守閣修理工事中に怪我を負った父の世話をしながら幼い弟を母親代わりに育てていた。

ふきは賃縫いに精を出し、呉服商からは上物をまかせられるほどの信頼を得るまでになった。
母からの秘伝の草木染めで染めあげた、深い青磁色の布を男物の胴裏に用いることがあった。そしてその染め色に心ひかれる女性がいた。

ふきは、圓通寺の道端で落ち椿を拾い集めた。
律宗の寺院では仏前供花に椿の花を用いていて、長寿、結縁をあらわす吉祥の花として喜ばれている。


「これ彦十郎、椿の木をゆすり、もっと花を落としなされ…」
ふきの人生にも花どきが訪れるだろうと余韻もあたたかい。しっとりとしたふじ子ワールドから好きな1編を読み返したのだった。

ふきは、婚期を逃すも自分の今後に深い覚悟をつけた。
それは、私に残された短いような長い時間を何を支えに、どう生きようとしているのかを問いかけても来る。

  寒椿力を入れて赤を咲く 
花粉の運び役が少ない寒中、鳥を甘いみつで誘う。そのためにも、遠くからでも目立つ赤い花を咲かせる。ー自らを知る者の強さ。
と子規の句に添え、コラムが綴られていたことがあった。


♪ “愛が一つ芽生えそうな・・・”、 椿の花 ぽとりぽとり。

雪でも呼ぶのかな、風が窓ガラスをたたく音がする。
陽気に温かさを増すころが待ち遠しいと身を縮めている。
                            ー椿の写真は過去のもの
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ぎょうさんの齢いただく

2025年02月02日 | こんなところ訪ねて
【「鬼の目にも涙や流す節分の 窓の柊に行きあたりつつ」
浅井了意の「出来斎京土産(できさいきょうみやげ)」が狂歌に詠んだ五条天神社の節分祭。
平安遷都に際し大和から勧請した古社。五条大路にあり、五条天神宮とも称した。

祭神少彦名命(すくなひこなのみこと)は医薬の祖神。近世、節分に朮(おけら)を受け家でくすべ悪鬼を払う習いがあった。日本最古という宝船図の授与は今も有名で、神朮(しんじゅつ)の風習を訪ね求める参詣者もある。】


と記された坂井輝久氏の『京近江 名所句巡り』に導かれ、初めて五条天神社を訪ねてみた。
烏丸四条から西へ、西洞院通を南に松原通まで下がると右手に鳥居が目に入る。




近隣の氏子さん?か、顔見知りらしい人が多かった。


宝船と聞いてうかぶ七福神のイメージとは大きく異なって、船には一束の稲穂が乗っているだけ。
日本最古という宝船図には関心もあったが、こうして見本が貼り出されていて、それをこともあろうか?写真に収めてすます。
そんな人間でも、この一年の息災の祈りは医薬の祖神にとどくものかしら…。


※「出来斎京土産」というのはネットで検索してみたところ、出来斎という主人公が洛中洛外の名所を遍歴して狂歌を詠む趣向の名所案内記と説明されたものがあった。作者の浅井了意は、江戸前期の仮名草紙作者で、浄土真宗の僧となったという。


  
  ぎょうさんの齢いただく年の豆  桂信子

ああ、豆ばらに…。

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親バカばんざ~い

2025年02月01日 | HALL家の話
つい先日1月28日から新年度を迎えた孫T&L。兄のTは8年生(中2)、Lは小学校3年生です。それとともに、クラブでのスポーツも始まりました。


一昨日、母親からこの写真が送られてきたあと間もなくすると、父親からも同じ写真が送られてきました。その心中を思いながら、親バカばんざ~い。

ちょっと“入団会見”ふう?…。
ブリスベン市のアカデミーのサッカークラブに属している孫のLulasです。昨年度末、このクラブで1年間無料で指導を受けられる(別枠での)チャンスを得るためのトライアルがなされました。
Lは前もってオファーをいただいていたのですが、合格者向けに初めてのプレゼンテーションがあったのだとか。
そして入会のサインをするのに、今年度はこの晴れがましいようなセッティング付き。

両脇に、アカデミーのオーナーとコーチ。このコーチへの信頼が厚いようです。
マスコミの関係者がいるわけではありませんが、カメラマンは大勢いるのです。娘もその一人です。心憎い場面設定です。
そうしたことがとても上手い指導者たち。この国での教育場面で気づかされることの一つに、一人ひとりを引き立てる子供への賛辞の多さがあります。
父親もI'm proud of you.なんて言いながら息子を抱きしめているのかもしれない。

そして、親バカばんざ~い!の話。
江戸時代、京都二条の高倉に住んでいた町人・脇坂義堂が家庭教育書『撫育草』を記した。それを小児科医の故松田道雄さんが、『おやじ対こども』と題して読み解いた。
その文中に〈親バカというのは子供の将来についての徹底した楽観論で、…親バカ精神は教育の基本だ〉といった記述があるというのです。

いつだったか一度書いた覚えがありますので、またまた親バカばんざ~~~いです。
じじバカも、ばばバカもばんざ~いです。
褒めて褒めて育てるのがいい。父親のコーチングも子供たちはちゃんと受け止めてそれぞれのスポーツで練習に励んでいる。素直な心にもばんざ~い、を。


   

兄はといえば、金曜日学校帰りに親友のJ君と魚釣り。
小さなバッタすらキャーキャー言っていた子が手づかみにしています。J君のお父さんに連れられた何度かの釣り体験が彼を育てたのです、きっと。
やっぱりばんざ~いです。

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角隠し

2025年01月30日 | 日々の暮らしの中で
真宗門徒の女性がお寺参りのときに用いたかぶりものが、「婚礼のときに花嫁がかぶる頭飾り」に変化していったという「角隠し」。あえて角を隠すことで、「私にも怒ると角を向け、人を傷つけることがある」ということを告白しているのです。


【「念仏には無義をもって義とす」(歎異抄)
親鸞聖人は「義」を「はからい」と訓読しています。「はからい」とは、自分の勝手な解釈で思い計ることです。義に正しさをもってくると「正義」になります。相手の人生を外から観察し分析してもわかるものではありません。
他人が食べている食事を覗いて「そんなもの食べて美味しいか?」と言っているみたいなものです。
個人の心の状態は自分の思い計らいでは理解できないのです。…… ……

親鸞聖人の教えを受けた蓮如上人は「独覚心」の怖さを悲しみました。自分が過去の経験から覚ることができたことを、相手に押し付けることはできない。時には「正しさ」を伝えることも大事でしょう。しかし、正しさは必ずしも人間を活かすとは言えないのです。

親鸞聖人は「正しさを伝える前にお念仏申しましょう」とお教えくださいました。合掌することで心が柔軟になり、相手の心に寄り添うことしかできないのです。…… 】



真宗大谷派僧侶・川村妙慶さんが地元紙に寄せられたコラムの中の一編。繰り返し読み返していた。人に角を向けてはいけない。いけない!
『人生の収穫』といっても小さな幸を拾い集めてきたほどの微々たるものだが、曽野さんの言葉を心に宿せていたようだ。
ー 自分の内心がどのようであっても、平静と礼儀を失わないように取り繕え! 心からでなくても、理性だけでもいいから愛を実行せよ…。

ものの考え方が大きく違っているとしても、ちゃんと自分の世界を持っている人がいる。わからなくても、表層の下に隠されたものにひそかに耳を澄ませてみるのもよいのではないか。
大切なものは目に見えないんだよ。


私にも角があります。


今日は午後1時の約束をした来客を待って、待って待って待って。
これだってかなりの説経ものだけど…。
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名を求めず、利を求めず、万民のために

2025年01月28日 | 映画・観劇
天保8年(1837)― 福井藩領内でも天然痘が流行していた。
天然痘は治療法がなく、死病として恐れられていた。
そこに幕府が出した治療法は、「牛の糞を黒焼きにし、それを粉末にして服用すべし。その糞は、白、黒、茶の体毛を持った牛のものが適している」と記したもの。
それで治ったという者など一人もいなかった。

江戸に出て漢方を学んだ町医者・笠原良策。
ある日、大竹了玄という金沢の医者と出会い蘭方を知ることになる。
そして京都の東洞院蛸薬師下ルに、蘭方医の大家・日野鼑哉(ていさい)を訪ね入門した。

種痘という予防法が異国から伝わったことを知り、疱瘡にかかった牛(牛痘)の苗を身体に植え付け、出た膿(うみ)をまた次の子に接種するといったリレー式で患者を減らしていこうとする。が、庶民の恐怖心は安全性への理解を妨げ、藩医や漢方医の妨害もあるなど接種はなかなか広まらない。

今の暦で1850年1月。良策は京都から福井へ、滋賀県長浜市と福井県の県境にある栃ノ木峠を越えて天然痘のワクチンを届けようとした。豪雪地である。
吉村昭さんの『雪の花』に詳しい。


原作を基に映画化された「雪の花 ともにありて」を観てきた。
友人は見終わるや、「思っていたのとちごうて感動の映画に仕上がっていた」と口にした。

「名を求めず、利を求めず。万民のために命を運ぶ」
命を賭して天然痘と戦った一町医者の姿に、映画はきれいに収まっていたとはいっても、やはり感動する。

かつて宮本輝氏の『命の器』を読んだとき、「どんな人と出会うかは、その人の命の器次第なのだ」という言葉に出会った。
〈人間という核を成すものを共有している人としか結びついていかない。…「出会い」が、一人の人間の転機となり得ることがそれを示す。偶然ではないのだ〉とあった。

感動はこの言葉を思い起こすものだった。志を抱き、多くの苦難を乗り越える過程、過程に良き師がいて、友がいて、理解者がいた、良策の生涯に感動していたのかも。原作を読み、映画の中ででも…。


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話して聞いて、分け持って

2025年01月26日 | 日々の暮らしの中で
スヌーピーで有名なアメリカの漫画『ピーナッツ』を訳されている谷川俊太郎さん。
あの中には「ショー・アンド・テル」という時間がよく出てくるんですと、語っていた。

「子どもたちが何でも好きなものを一つ持ってきて、それについてみんなの前でお話をするという時間です。」


孫娘はオーストラリアでプレップ(入学前)に通うときから、この時間を体験している。

彼らの家に滞在していた2011年10月。まっ白な犬のぬいぐるみを両の掌に乗せて、愛おし気に見つめてから通学のリュックにしまうのを偶然に見かけ、母親に訊ねたことがあった。
何か話したいことがあったのだろうと、そっけない返事。その時に「Show and Tell」を知ったのだった。


6つ違いの弟が生まれるのを前にして、枕元に縫いぐるみを並べ始めた。赤ちゃんを寝かしつける練習をすると言って、毎晩かわりばんこに抱っこして寝ていたらしい。その一つの白い犬。
飛び入りOKとか、気づけば何かしらを持って登校していた。話したあとで質問を受け、それに答える。そんな時間は小学校に入学すると「Show and Share」と変わって、3年生まで続くようだった。


「日本人が一般的にいって話し下手なのは、小学校のころから人にどうやって自分の考えていること、感じていることを、正確に、簡潔に伝えるかという訓練をしていないからじゃないかと思うことがあるんです」
と谷川さんの言葉は続いている(『声の力』収 -「語る技術」とした小文内で)。

先日、不登校の子どもたちのカウンセラーとして長く現役でいる知人のもとで集う機会があって、同席することになった。
TellからShareへ。話す力、聞く力。そんなことへの思いを、私も言葉にしてみたけれど…。
昔むかし、学級担任で過ごしていた時代の失敗も含めた体験のあれこれも自ずと思い出された。

身の回りの小さなことをすくい上げ、言葉を紡ぐ。互いを知る、他人を知ることは、自らの成長につながる。
そんな大真面目が、少しずつ人の心に沁むといいなと期待する。

〈「われ」の視点を強調し過ぎは下品だ〉
紙上で目に留まった言葉だけど、近代短歌以前の和文脈でのことだけだろうか。

それにしても「聞く力」って要るなあとつくづく…。
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鳥、虫、木々、草や花、風、雨、光…に言葉がある

2025年01月23日 | 日々の暮らしの中で
夜中に目が覚め、眠れずにいるとどうしてもあれこれの考えごとが始まる。それなら本の続きを読んでいた方がずいがまし。その間は余計なことを考えずに済むからだが、睡眠時間が削られる。これが良くないことはわかっている。
ではどうする? と思いつつやっぱり本を開く。

先日建仁寺に行った帰り、京阪三条駅ビルにあるブックオフに立ち寄ったところ、『あん』(ドリアン助川)が書架に並んでいた。
かつてブログを通じて教えていただいた作品だった。出会いがなく読まずにきていたが、今になって縁がまわってきた。きっと〈読みどき〉というものがあるのだ。
昨年末にはハンセン病を患った塔和子さんの歌や詩に触れる機会を得たこともあり、登場人物の吉井徳江と重ね合わせてしまいがちな部分もあった。


塀の中で数年を過ごしたあと、どら焼き店々長として休みなく働く千太郎。求人広告を見て、手の不自由な70代半ばの女性が応じてくる。彼女もまた隔離された生活を余儀なくされてきた人だった。
徳江が作る絶品のあん。「お互いがお互いを想いあい慈しみあう」交流が深く心に染みた。

ハンセン病の療養所「天生園に遊びに来る鳥たち、虫、木々。草や花。風、雨、光。お月様。すべてに言葉があると私は信じています。それを聞いているだけで、一日はもう目一杯です」と徳江さん。
「聞きなさい」「耳を澄ませなさい」「想像してごらん」はトクちゃんの口癖だったと園での親友が言った。
それは - 現実だけ見ていると死にたくなる。囲いを越えるためには囲いを越えた心で生きていくしかない - 生きるすべだった。徳江さんの言葉の奥に潜む思いを千太郎も私も知る。

今年もオニグルミの冬芽を見に出た。徳江さんを思いだし、背筋が伸びるようだった。
 〈真直ぐに行けと冬芽の挙(こぞ)りけり〉  金箱戈止夫


 
歩けば汗ばむほどのお散歩日和に。       
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漫画だけど

2025年01月22日 | 日々の暮らしの中で

〈ゲットした本を、部屋中にそびえたつ「積読タワー」の頂上に積〉む。それは〈膨大な未読の本〉の重なりなのだ。
新着本が読まれるのはかなり先になる。せっかく迎え入れたのに、積み上げとたんしばしの別れがやってくる。
わびしい、のか…、ちょっとこっけい…。

著者を、大石トロンボさんを知らない。
まあ私が知らなくたって驚くことでもない。漫画を読んだのは『オフサイド』最後に全くない。もう何十年前になるの? 書店で立ち読みして面白かったので、当時サッカーをしていた息子にと数冊買って帰ったのが始まりで、全巻読み続けたことがあった。それっきりだ。

どんな話かと検索してみると…。


孤高の古本戦士・真吾は、今日も新古書店「ブックエフ」の均一棚で目当ての本を探す。 長年探した本を100円棚で見つけて喜び、新古書店で仕入れた本を転売し利幅で儲ける「せどり」と攻防し、数分の間に目をつけていた本が買われて絶望し……新古書店でのライトな古本探しの楽しさと可笑しさを描く「古本あるある」バトル漫画、いよいよ開幕!! 著者の古本探しの日々を綴ったエッセイや、夏葉社・島田潤一郎さんの特別寄稿「友人のような本」も掲載。

「せどり屋」という言葉を知ったのは三浦しをんさんの『月魚』でだった。2023年の誕生日を迎える数日前、夏の宵に読み終えた。

【古本屋で十把一絡げで売っている本の中から、少しでも価値のありそうなものを買い、その分野を専門で扱う別の古本屋に売り飛ばす。また、廃棄場に忍び込み、まだ店頭に並べられるような本を掘り起こして、何食わぬ顔をして古本屋に売りに行く。その微々たる上がりで生活する。
クズ本の山から辛うじて息をしている本を抜き出す。
ゴミを漁り、後ろ暗い経路で手に入れた本を売る輩、と業界でいい顔はされなかった。】

『新古書ファイター真吾』の試し読みをしてみた。
(マンガだ!)わかってることなのに漫画だなあ…という思い。発売日を見ると2023年5月9日とある。ブックオフにあるかしら、アマゾンになるかな?? 
漫画って図書館にある?ないと思うのだ。

私にも積読本はあるが大した嵩ではない。
ただ一向に出番がやってこない本はあるのよね…。それなのに、欲しくなる本は出てきてしまう。『新古書ファイター真吾』にちょっぴり気持ちが動く。
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俳人×ロック絵師の涅槃図

2025年01月20日 | 催しごと
京の冬の旅」で非公開文化財が特別公開されている(1/10~3/18)。仁和寺の経蔵と椿が咲き始めたら椿寺を拝観したいと思っている。
今朝は地元紙で、この特別公開に合わせて建仁寺の塔頭西来院で公開されている「俳句涅槃図」が大きく取り上げられていた。縦2m、横3mだそうな。


2020年に父親を亡くされた黛まどかさん。喪失感の中’23年に本法寺で涅槃図 - 長谷川等伯が息子久蔵の7回忌追善供養に描いたもの - を見て、自分も涅槃図で菩提を供養したいと思ったという。
そこで旧知の絵師、Ki-Yan(キーヤン)の愛称で知られる木村英輝さんを訪ね、俳句と絵画で描く涅槃図の共同制作を依頼した。


ただ、2025年を生きる我々が涅槃図を前にして、お釈迦様のお弟子さんが書かれていてもわからない。セオリーは守りつつ、命を明るく讃える作品にしたい。涅槃図に描かれている釋迦入滅と万物の命。その命を黛さんが四季それぞれの俳句に託す。木村さんは「ニュートラルにポップな感じにしたかった」と。

ふーん、へえ~といった思いくらいで記事を読んでいた朝。
「。。。読んだ? 行かへん?」 行くだろうとすでに思ってるに違いない。
お互い目新しさに反応しやすいものを持っているのか、どことなく波長が合う友人の誘い水に即「行ってみよう」と待ち合わせることにした。
葉室さんではないけれど、「幕が下りるその前に見ておくべきものは、やはり見たいのだ」という思いも私にはある。

木村氏の青の色遣いが鮮やかだ。氏の特徴だとボランティアガイド氏が教えてくれた。
清少納言だけは黛さんのリクエストだそうな。
中空に浮かぶ満月には「春の月まどかに白砂輝かす」とあり、製作者二人の名前が詠み込まれている。
その左手に、亡き父の句「朴の木に朴の花泛(う)く月夜かな」を添え、黛さんは「現世を抽(ぬき)んでて咲く朴ひとつ」と並べ、涅槃の父に捧げている。
「今頃は四条を急ぐかたつむり」がどこにあるのか、探した。左上から反時計回りで春夏秋冬が紡がれている。


「発想が素晴らしい現代の『涅槃図』」と住職談。
見知った顔顔顔がしっくり馴染まないけれど、〈斬新〉という言葉が包みこんでしまう。


花見小路を北へ。四条通りに面した西利の二階で遅いお昼をいただく。
楽しい時間だった。
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本人のカイショ(甲斐性)

2025年01月19日 | こんな本も読んでみた

大学入学共通テストを迎え、また高校受験を控えて中・高生は欠席となるので本堂脇の玄関座敷に場所を移し、いつも通りに寺子屋エッセイサロンは開かれた。お隣さんがすぐ近くという近距離で、何かいつもより真剣な?深い合評会になり得た気がする。
今朝新聞に掲載された問題に目を通してみたが、問題文を読むにも根気が要る。解答してみようという気にもならない。それでもいくつか解いてみた。
努力を重ねてきたことを心の軸にして、がんばったことだろう。

入試に通ろうと落ちようが(大学進学に限らずだが)、与えられた環境をどう生かすかは、数学者・森毅さんの言葉を借りるなら「すべては本人のカイショの問題」ということになる。
一生懸命に〈ゆとり〉をもって、と森さん、何かに書かれていた。



西鶴の盲目の娘の視点から描く西鶴一代記。
「大阪では、氏素性も手蔓もない者が知恵と胆力だけでのしていける時代が始まっていた。道頓堀に芝居小屋が立ち並び、新町に廓ができた。分限者となった町人は暇に飽かせて俳諧に近づいた」

西鶴は早くから貞門派に学び、西山宗因に入門して談林俳諧の世界に身を置き、やがて浮世草子作家として名を成していく。
9つで母を亡くした娘おあいが生きるこの世の〈音と匂いと手触り〉の優れた描写。心の動きに、おあいならではの感覚が丁寧に紡ぎ出され、西鶴の人間像に迫る。
出版文化の隆盛に乗っかって制作は相次ぎ、版元との駆け引きも面白いし、同時代を生きた芭蕉、近松門左衛門、歌舞伎役者も絡んでいる。

嫁ぐことなく、おあいは25歳になった。
胃の腑がひどく疼く。「やせてきたなあ」と娘を気遣う父。
「おおきに。さようなら。」最後はこう言ったのかな、言えたのかな…。

「巧みな嘘の中にこそ、真実があるのや」
読み応えある作品でした。
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「鹿の國」 神前に鹿を捧げる

2025年01月17日 | 映画・観劇

神前に鹿を捧げる古代の神事を今に伝える信州の古社・諏訪大社。
諏訪大社の一年を記録し、幻だった「御室(みむろ)神事」の芸能を〈再現〉し、諏訪の古代信仰の世界を描いたドキュメンタリー映画『鹿の国』を観てきた。

厳冬の3ヵ月間、神域の穴倉に籠められた、大祝(おおほうり)の代理であるオコウさま(神使 -少年)の前で芸能が繰り広げられ、祈りを捧げたりする。
そして春4月になると、化粧を施されて大祝が出現し、鹿の首を捧げる御頭祭(おんとうさい)が行なわれる。

大祝(おおほうり)とは、「くまん……の、この諏訪の地のあらゆる神、生命、精霊をも含めた集合体(?)」、確か、「9万7千〇びゃく〇〇」と聞き取ったはずが、忘れてしまった。
室町頃までは75頭の生首が捧げられたというが、今は本物の鹿であっても剥製を捧げている。


物の種をまき命を育み、田植えをして収穫を喜び合い、自分たちの生活圏近くに住む獣を狩猟し、その肉をいただくなど、生命の循環に感謝と祈りを捧げ、人間の四季の営みが繰り返される。
過去から現在、そして未来への祭りの継承の場面に、「鹿なくてハ御神事ハすべからず」だった。鹿は、海のない諏訪の里の産土神かしら。

「鹿の國」と聞かされてもさっぱりで、事前に監督の弘 理子(ひろ りこ)さんへのインタビュー記事を拝見しておいた。
諏訪信仰って…。ちょっと調べてみようか。




かつて観た死と再生の物語、映画「チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ 白川善次郎エカシの伝承による」を思い出している。
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始末にも美意識を

2025年01月15日 | 日々の暮らしの中で
滋賀県の山間部の民家に、戦中まで使われていたと思われる大量の仕事着が残っていたという。
多くが藍色で、藍の無地は男性用らしく、裏側から継が当てられていて、更に全体に刺し子されている。
山仕事に行くときの上着で、「山行きポッコ」と呼ばれるものだそうな。「ポッコ」とは、継当てや継当てをした服をいうのだと。


表の布は擦れてなくなっているところもあり、肩や胸、背中の擦り切れが多いのは山仕事のせいだ。
部分的には9重にも継が重ねられたものがあり、そのどれも布の縦方向に当てて、縦方向に縫い、表からは継を当てない。
山行きポッコには女たちの美意識が感じられる、と書かれてあった。

つつましく浪費せずに暮らす。
「始末」「始末」と義母も口にしていた。始末とは、始めから終わりまで、最後まで使い果たすということと捉えれば、言うわりにはぞんざいにそこらに物が放り置かれたままになった日常だったけど…。

始末が良い暮らし。
そのとき大切になるのは、暮らし方の知恵や技、工夫、価値観といったものか。どこにも売っていない。人から人へ伝えられるもので、お金を出して手に入るものではないのだ。
始末の中にも美がのぞける。心したいと思うことだ。

昨夕、孫娘がLINEで尋ねてきたことがある。
スカートのウエストが大きいので取り敢えずサイズを詰めたいという話に、現物を見せてきた。「これじゃあ…」
夏場で薄着で、確かにこれじゃあ…だと、彼女の言い分ごもっともだと思って笑う。
母親は、外側からつまんで縫い止めていたのだ。だからつまんだところが外に飛び出す。見目も悪い。

「キャー!!」
裏側からしなくちゃ。わかりそうなものをなあ…。きちんと教えておかなかったのがまずかったかな。

孫娘Jessieは4時半起きで友人とシドニーへと発ちました。あの手直ししたスカートも持って。
無事に着いていて、4泊でエンジョイして帰るようです。
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冥福を祈るとは

2025年01月13日 | 日々の暮らしの中で
年が改まり、神社もどこか晴れやかな明るさがあるのがいい。

混雑はないが、参拝者でにぎわう上賀茂神社だった。



今朝、作家の童門冬二さんの訃報記事を目にしていた。
思わず読み返してしまったが、「昨年1月に東京の病院で死去していたことが12日、分かった」とある。96歳。1年も前になるなんて。
都庁にお勤めだったことは知っていたし、美濃部さんを支えた懐刀だったことも作品を読むにつれて知ったことだった。
米沢藩主の上杉鷹山が窮乏した藩を改革していく姿を描いた『小説上杉鷹山』は、バブル崩壊の社会で支持を集めベストセラーになった。


読んだのはこの7冊に尽きるけれど、これらは次から次と手にしたもので、はまったように読んだ時期があった。
穏やかな冬の日差しを受けながらの道々、氏の作品に流れていったきっかけは何だったのだろうと、思い起こす努力はしてみるがはっきりしない。
「読み返す。冥福を祈るとはそういうこと」なら、一冊『銭屋五平と冒険者たち』を開くだろう。


海の向こうでは新年度を前にして、もうしばらく学校の休みが続く。
昨年の7月に、彼らの夏が来たら出そうと買っておいた3枚のカード。昼からそれぞれにしたため始めた。
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歓よ。父は今、35歳の冬を…

2025年01月10日 | こんな本も読んでみた

早朝に雪はなかったが、8時頃からか1時間もしないあいだにうっすらと雪がおりていた。
これといって外出の用もなく、寒さに体を丸めて家ごもり。

図書館への返却日まで残り少なになって、『かもめ来るころ』(松下竜一)を、特にⅡ章の〈かもめ来るころ〉に収められた作品の数々が好きで、読み返していた。未刊行の著作集ということだが、〈かもめ来るころ〉は熊本日日新聞に1972年11月14日から1カ月間連載されたという30篇になる。

氏が書く随筆を「貧乏くさくしみったれている」と評してきた人がいたそうだ。
氏は決して声高なもの言いをしない。「その評や、まさに正鵠を射て、私はしょんぼりするのである」
ある晩のことを書いた後、「貧乏くさくしみったれた我が家の愚にもつかぬ一夜の景だけれど、このような一夜一夜のなつかしさを塗りこめてこそ、なにやら人生というものが見えてくる気がするのである」と終っている。

仁保事件無罪判決要請という支援活動に関わり、家にやって来た友とその話をしていたとき、下の息子の歓クンが突然〈オトウサン、カンハ、ヨーセイシッテルヨ」といって、本棚に駆け寄り絵本を一冊抱えてきた。小さな指が指すのは、樫木の妖精だった。
「要請」と「妖精」。2歳の幼子のたわいない勘違い。
このことは「ヨ―セイ」と題して書かれていて、その文中、何にだかわからないけれど愛おしさで胸いっぱいにさせてくれる、こんな箇所があった。

 「歓よ。父は今日のお前のこんな愛らしい勘違いをしっかり書きとめておこう。ほんとうにたわいない些事なのだが、しかしこんな些事をもこまやかに記録していくことで、父である私の今の生き方を、のちの日のお前や健一にいきいきとなつかしく伝えうるだろうと信ずるのだ。

 そして歓よ。私が日々のこんな些事まで記録してお前たちに伝えたいのは、父としての自信なのだ。今の私の行動が、十五年後、二十年後の成人したお前たちの視点から裁かれても、なお父として恥じないものと信ずればこそ、どんな切り口を見せてもいいほどに、日々の些事をすら大切に記録し伝えたいのだ。とうてい財産など築けぬ父であってみれば、伝えうるのはそれだけしかない。父の〈生き方〉を丸ごと伝えて、しかもその中に、きらきらとお前たちの想い出をちりばめておいてやるつもりだ。

 歓よ。お前が二歳の日、要請と妖精を勘違いした小さな出来事は、しかし二十年もの時を経て読む日、それこそきらきらと光を放つ思い出となるのだ。そして、その思い出の核に、仁保事件という人権裁判支援に行動した父の姿をも見るだろう。お前たちが、必ず何かを受け継いでくれるのだと、私は信じる。
 歓よ。父は今、三十五歳の冬を溢れる情熱で生きている。
(そうだ、はさみを使えるようになったお前が、切り裂いてしまわないうちに、その妖精の絵本を仕舞い込んで、遠い先の日の思い出の証に保存しておいてあげようかねえ)


なんかですねえ…、人生についての見方をすごく豊かにしてくれる、深めてくれる、そんな気がするのです。

 

この写真は1968年、31歳のときに生まれた長男健一君が映る(『豆腐屋の四季』収)。この2年後、次男の歓君が誕生。1970年に豆腐屋を廃業されている。
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