京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

数え日

2024年12月29日 | 日々の暮らしの中で
「賽銭箱に100円玉投げたら
つり銭出てくる人生がいいと」

・・・ラジオで突然耳にして、この始まりの歌詞はすぐに記憶した。
誰が歌うなんて言う歌??
ラジオからは曲だけしか流れなかった。

長渕剛さんのRUNだと知った。
メロディも覚えやすい。金曜の夜からいったい何回聴いたかしら。
聴きながら、「賽銭箱に100円玉投げたら つり銭出てくる人生」ってどんな人生かと考えるんだけど…。


「賽銭箱に100円玉投げたら
つり銭出てくる人生がいいと
両手を合わせ願えば願うほど
バチにけっつまづき膝をすりむいた
……

♬「賽銭箱に100円玉投げたら つり銭出てくる人生がいいと」
って口ずさみながら、堂内のお飾りをしつらえ、お花も立て終えた。
火の気のない場所で、いくら体を動かしていれば温まるとはいえ本音はかなり寒くて辛い。
でも終えられた今日の日は、再びとは巡って来ない尊い一日。
あとは鏡餅をお飾りする。ストーブと座布団と…、うん、まだちょこちょことはあるけれど、
明日は境内を、熊手でジャリジャリか竹ぼうきでシャッシャッと落ち葉を集めてきれいに整えましょう。


病のないのは第一の利
足るを知るのは第一の富
信頼のあるのは第一の親しみ
悟りは第一の楽しみ 

だとか。さて…。

♬賽銭箱に 100円玉投げたら
つり銭出てくる人生がいいと~
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一年の無事を思いながら

2024年12月26日 | 日々の暮らしの中で
澤田康彦氏が地元紙朝刊の連載コラム「新 暮らし歳時記」を書かれていたとき、クリスマス映画の最高傑作として「素晴らしき哉、人生!」を挙げられた 。

 ただ、私が孫たちに贈った「ポーラー エクスプレス」もなかなかのものだと自負している。娘家族は、クリスマスには毎年このDVDをみていると言う。

世間のクリスマスイベントのにぎわいは頭の上を素通りといった感じで二日間が過ぎた。
私は昨日、東本願寺にお参りし、一年間の無事を感謝し手を合わせた。


寺域の南側の堀に枯蓮をのぞいてみた。
「茎折れの水にうつぶす枯葉の葉裏」を見ていると、時折ゆらゆら頭の帽子が揺れている。美しく花をつけるあの時季の光景を思えば、確かにわびしくも、すさんでも見えるけれど、やはり自然の成り行く変貌であって、このわびしさこそ案外好きだなと思ってみている。

阿弥陀堂では少し前方に坐した男性が、合掌後もじっと阿弥陀さまと向き合い続けていたが、その背筋の伸びた姿勢の美しさに見ほれていた。
背中に重いものを背負って丸く縮こまっているのなら、時には意識して背筋を伸ばそう。無理なく。辛抱ばかりでは人は生きる気力が失せてしまう…と言われたのはどなただったか。

新鮮な空気を吸い込んで、残るわずかな日々をもうひとふんばり。


        
姉からお揃いの帽子をプレゼントされたのだとか
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大忙しのサンタさん

2024年12月24日 | 日々の暮らしの中で
今夜はサンタさんのためにミルクとクッキーを、トナカイには人参を
用意して眠るといいみたい。
 

 朝起きたら、人参にはかじったあとがあり、クッキーのこぼれかすがテーブルに散見…。
 幼い弟たちが寝たあとで、姉のJessieが演出したのでした。

世界にはクリスマスを悲しい思いの中で迎える子供たちがたくさんいるようです。
どうぞ、どうぞたくさんの子どもたちのところにサンタさんが訪れますように。
 




原作は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』ながら、新たに絵本のために影絵と文は藤城清治で再構成された『銀河鉄道の夜』。
何気なく開いた最後のページに、このメッセージがありました。





小さな子がいない我が家では普段とちっとも変りありません。
昼間、26日に誕生日を迎える息子に心ばかりのものを贈って、夜は先ほどまで娘とLINEでお喋り。
子どもたちはもう眠ったかな?

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おかげさまでどうぞこうぞ

2024年12月22日 | 日々の暮らしの中で
日差しがある中でも時雨れる寒い一日だった。
こう寒いと何もしたくない。
なんか身体が動かない。根が生えちゃったみたいよ、と言いながら座り続ける。


家うちのこと、本堂のこと、除夜の鐘、新年を迎えてのこと…、あれこれが頭を巡る。今日は今日なりに、やること考えてこなしていく。
もうそんなにシャカリキには動けない。「ファイトがないようなった」、のかな。
このセリフ、義母がよく口にしていた。
その日暮らしのようだけど、そこはちゃんと逆算しながらこなして間に合わせるのだわ。

目の前のことを、とにかくこなす。
「ひとつひとつのことを、いちいち丁寧にやっていくことが大切です」
永平寺の僧が言われたのを憶えている。


この手で
日々を
かきわけているようなれど
気がつけば
仏の手のままに             (榎本栄一)


本だけは読む。ろくに仕事もしないのに?…だけど、
寝る前に。

 所轄の鎌倉警察署に帳場がたった。
          戒名は「七里ガ浜貸別荘会社役員殺人事件」

甘い蜜で虫をおびき寄せ、中に落ちた虫を食いながら生きるウツボカズラのように生きる女。
こういう小説を読んだのはいつ以来か。読み終えた。
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おどろくような話じゃあ、ないんだよ

2024年12月19日 | 日々の暮らしの中で
  僧とケーキ (12月23日)   
あれは、何年前のことか。正確な年代は、もう覚えていない。だが、日付けは脳裏に刻まれている。12月24日。クリスマスイブの午後であった。ケーキ屋の前に、クリスマスケーキを買う行列が、できている。その中に、私は見たのである。袈裟姿の僧侶が、並んでいる光景を。日本人はキリスト教をうけいれなかった。これが、宗教学の常識である。しかし、その風俗は受容した。私がその点で、確信をいただけた一瞬である。

  本堂にイブ (12月24日)    
クリスマスケーキを僧侶が買っていた。私はその光景に、軽いショックをうけている。多くの人に、そのことをふいちょうした。浄土真宗で得度をした宗教学者にも、つげている。やや、うろたえ気味の私を、くだんの学者は、こうさとしてくれた。うちの家は、西本願寺系の寺でね。毎年、クリスマスイブには、本堂でいわっていた。そりゃあ、そんなものなんだ。おどろくような話じゃあ、ないんだよ、と。

  4月8日も降誕祭 (12月25日)  
クリスマスイブは、デートのクライマックスをむかえる日にほかならない。あなたこそ、自分にとっての本命である。そのことをたしかめあう日に、今の日本ではなっている。若い僧侶にとっても、その点はかわらない。キリストの生誕前夜際に、お坊さんたちも、いちばんたいせつな異性をえらんでいる。たとえ、祇園祭の日には、ほかの人とデートしていても。もちろん、シャカの降誕日など、4月8日らしいが、誰も気にしていない。


地元紙の朝刊コラムで一年間(’17.4.1~'18.3.31)、井上章一氏が「現代洛中洛外もよう」と題して書かれたことがあった。
専用のノートにスクラップする年もあるが、なぜかこの年は気ままに残し、今手元にあるのはクリスマスに関連した話題など年末の6日分しか残っていない。
クリスマスをどう過ごしているのか、よその寺に聞いたことがなかったので、これを読んで(へえ、本堂で!?)と驚いたり、(そうなんだ)と言う思いで気づかされた感じだった。我が家でも子供たちにプレゼントを用意もしたしケーキもいただいた。ただそれだけだったけれど、別にこっそり楽しむなんてことではなかった。

  親心からのミッション (12月28日)
私は二十世紀末に、神戸女学院大学で教鞭をとった。プロテスタント系のミッション校である。いつも授業を受けに来たのは、30人ぐらい。なかに、お寺のお嬢さんがいて、おどろいた。この学校へかようことに、ご両親は反対しなかったの。そんな私の質問に、彼女はこたえてくれた。親はいい学校に入れたと、よろこんでいる。ここを自分にすすめたのは、両親だ、と。お寺さんは、しばしば子供をミッション校にいれたがるらしい。


そうなの? もっとも、甥っ子は実力以上の公立高校を目指して失敗し、ミッション系の高校に進学した。寺の跡継ぎだった。相当にへこんで暴れていたらしいが、今では立派に跡を継いでいる。

夏のクリスマスを迎える娘家族にカードを贈ろうと思ったものの時機を逸したような…。しかたがない。ごめんしてもらおう。
言っていたケアンズからのAustralian Mango が届いた。

 
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ほほえむ花あり

2024年12月17日 | 日々の暮らしの中で

白川通りで信号待ちしたとき、左手はスーパーだった。
たぶん、一輪。
細く白い紙に巻かれたものを手にして自転車を出そうとしている若い外国人男性が目に入った。道路に出るやそれを口にくわえ、去っていく。その後姿を見ていた。

偶然見かけただけなのに、なんだか見る者の気持ちをあたたかく、軽やかにもしてくれた。
一人で暮らす部屋に飾られるのだろうか。
誰か待っている人がいるのだろうか。



楽しく暮らしていると思うけど、悲しいことがあって花を買ったんじゃなければいいのにな。
彼の部屋の、花のある暮らしにちょっとばかり想像を積み重ねた。
暮らし上手。そんなことにまで思いをはせる。
花はほほえむことだろう…。





一季奉公人として、一年限りの武家屋敷勤めをしていた“俺”。
ずっと定まらず、江戸に染まらなかった人間が、40も過ぎて人を好きになり、人の死を悲しみ、「家族」を感じるまでになる。
“俺”の生きる意味も変化する。

江戸末期の社会不安のなかで自分が望んでいる暮らしを問い、きっとこれまで以上の知恵を働かせて生きていくだろう。よいラストだった。
辛抱が心棒を作った。
“俺”は、最初思った以上に人の心をよく察するし、何より自分自身を見つめる人間だった。
楽しく読んだ。

いつの世も、ちょっとした暮らし上手の心づかいが豊かさをもたらしてくれそうだ。

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わがまま者が今日も許されて

2024年12月15日 | こんな本も読んでみた
もうあと半月…。あれこれの算段で頭の中がぐるぐる回ってしまうこの頃なのだけど、反面(もうしばし!)とその思いを押しやっている。
この時期は私に中途半端なゆとりを持たせてくれていて、ましてや今日は日曜日。
いつだって時間は持ち合わせているようでいて、それでも「今日はほんとうの日曜日」なのだ、特別感ありの。だから一日家に居て、何かをしようというのでもなく過ごした。

一年の終りも近くなって思う。わがままものが今日も許されて生きている、と。


読んだ本の記録をノートに残した。
ここには「こんな本も読んでみた」と残しておこう。

 

吉村昭の『雪の花』を原作とした映画が公開されるのを知った。
日本に初めて天然痘が入ったのは聖武天皇の天平7年(735)だと言われている。治療法がなく、死病として恐れられていた。
4年前の夏、息も詰まる思いで『火定』(澤田瞳子)を読んだことを思い出す。そのあと『雪の花』を知ったのだが、漢方を学んだ福井藩の町医・笠原良作の天然痘との闘いの生涯が描かれている。再読し終えたところで、「種痘伝来記」が収められた同氏の『歴史の影絵』を手に入れたのだった。三条にあるブで。

 

立花隆さん。「ひたすらよりよく知ることだけを求めて人生の大半を過ごしてきた」と訃報後の記事に書かれていた。
「知の巨人」の膨大な蔵書をどうされたのだろうと、NHKのドキュメンタリー番組をみていたのだけれど、どうやら後半居眠りしてしまったようで、気づいたら終わっていた。

若いときは本当に面白いと思って文学書に熱中していたが、今は文学書を読んでも面白いと感じることがほとんどない、と書いている。
出版界では読者離れをおこしているが、読者が離れていったというよりは、むしろ今の人たちをとらえるような作品を現代文学が生んでいないということが一番根本的な原因であると思います、と。(そうかしらねぇ、文学を読まないなんて人は…と言いたくもなるが)
あちこちのページを拾って未だ読みつつあるところ。

「老人」という言葉をタイトルに付けるのが気に入らないけれど、妻・音羽信子さんを亡くされて一人になった夜、書棚から手当たり次第に本を抜き出す。
88歳を襲うすさまじい孤独から救い出してくれるのが、一冊の本だったそうだ。新しい本もいい。古い本には生きた時代がよみがえる、と。
それぞれにそれぞれの文学があるのだ。そして、読み浸った時間がそこにある。

「底惚れ」(青山文平)も読み終えている。


葉のぎざぎざも年数が経って丸くなると読んだことがあったが、真偽のほどは知らない。
これは冬の木、「柊」の花だろう。
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日常

2024年12月13日 | 日々の暮らしの中で
厳しくなってきた寒さの中で色を凝らしているけれど、近づいてみれば葉先は色褪せが始まっている。
それでも、「日おもてにあればはなやかな冬紅葉」(日野草城)。


この秋は紅葉の観光名所を訪ねることは一度もなかったけれど、何度か大津方面へと国道1号線で逢坂越えをしたので、沿道の人の手が入らない木々が目の醒めるような色づきを見せてくれるのを楽しんだ。

感動的だった。車の流れもあって止まって写真を撮るなんてことができるはずもなく、だがそれがいいのかもしれない。脳裏に、まなうらによみがえる。

その1号線沿いに、もとは橋本関雪の別荘だったと聞くが、「走井 月心寺」と記した軒行灯が下がった庵のような小さな構えの門がある。
中の様子はうかがい知れなく、苔むした瓦屋根がのぞけ、うっそうとした木立、高みに積もった落ち葉に無住なのかと思うのだが、それらの樹々の紅葉もまたすばらしいものだった。
NHK朝の連続ドラマとの縁があるらしい月心寺。

何度か通うたびに色づきの変化があり、秋から冬への移行を感じてきた。
人の一生もどこか似通うものがある。

今日はかつての文章仲間6人が集えて会食の機会を得た。琵琶湖を見下ろし、鈴鹿の山並みを遠望したりするロケーションに、寛いだひとときを過ごした。
作品に触れるたびに向田邦子原作のドラマを彷彿させた大先輩がいたが、施設で亡くなられたのを知った。
どたばたと賑やかな取り込みごと多発の日常を、人間関係の葛藤も含めてよく書かれていた。

日常は書き残しておかないと消えてしまうものだとよく思ったものだった。
写真もよそ行きの写真よりも、ごちゃごちゃした日常の写真が断然面白いと永田紅さんが書いていた。時間がたった後に、懐かしく愛おしく価値を持つのは日常のこまごまの何でもない情景だと…。

これからは文章を通じてその姿を偲ぶしかない。
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なぜ?の答えはふと

2024年12月11日 | 日々の暮らしの中で
「貞応3年(1223)12月11日 運慶没す」

『荒仏師 運慶』(梓澤要)の最後の一行はこう終わっていたので、手持ちの歳時記にメモを残しておいた(旧暦では1月3日にあたるという)。
それが目に留まったというわけだが、東大寺南大門の仁王像、阿形像と吽形像の配置が向かい合う形になっていることが読後ずっと引っ掛かりを残していた。
何か特別な理由があるのだろうか。


重源上人は運慶の言葉を聞いて目を剝いて怒鳴り散らした。
「なに? 仁王像を向かい合わせるだと? そのために、門を造り直せだと?
痴れ者め! いまさら何を言うか。そんなことができると思うてか」


運慶はいつになく強引に上人の手を引いて外へ連れ出して言う。
 ー ご覧ください。参道を進んでくると、仁王像はいやでも目に入ります。最初は遠く、徐々に近くなって、門の前まで来て見上げる。これでは見る人は衝撃を感じませぬ。間近に来て不思議な像だと驚くより先に、目が慣れてしまいます。

前方の壁をふさいで見えぬようにしておいて、門をくぐる際にはじめて、
「向かい合った阿形と吽形が両側から睨み下ろしている。いやでも驚きます。巨大さにあっと声を上げ、奇怪な姿に圧倒されるでしょう」

 

(向かって左側に阿形像、右側に吽形像)

門は侵入せんとする魔や邪悪なるものを阻止する装置であり、仁王は戦士である。同時に、われら人間の心の煩悩や穢れもうち払う。そのためにはぎりぎりまで引き寄せておいて、一気に出現し、一瞬にして打ち倒す。その方が効果的だ。

じっと門をにらんで黙りこくっていた上人、
「あいわかった。すぐに門を造り直させる」と宣言した。
そのあと、運慶は吽形像の眼球の視線をより下向きに修正した。

といった具合で描かれていた。
大河ドラマでも時代考証をなさっている倉本和宏氏は、日文研退官記念講演で力説された。
「歴史を語るのに、歴史文学を根拠にしてはならない」と、資料の扱いの大切さを説かれた。
そうですよね。ただ、小説とわかっていながらそうかもしれない、なるほどなるほどと共感してしまう。とは言っても、本当はどうなんだろうと疑問は抱いている。思うだけなのだが。

「なぜ?をいっぱい持っておくと、答えはふといつかやって来るものだ」。ある講座を受講の折にアドバイスをいただいている。
来るまで待とう…。
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デんしゃに乗って

2024年12月09日 | 日々の暮らしの中で
京阪電車で中之島へ向かい、その帰りには三条京阪で降りた。

11月のいつだったか地元紙のコラムに、「関西の人は『〇〇電車』という言い方をよくする」と書かれていたことがあった。
考えたこともなかったので、確かにそうだなあと気づかされた。
京阪電車 ー「ケいはん」と「ケ」にアクセントが置かれ、阪急電車 ー有川浩に同名の小説があり、そうそう、近鉄電車もある。
いちいち「電車」までは言わないことが多いだろうか。京福電車もある、叡山電車を忘れてた。大阪へ行けば阪神電車ってのもあるけど、乗ったことあったかしら? 
なぜ『〇〇電車』というのかは知らない。そしてコラムの内容も覚えていない。



三条通りに面した北側から地上に出ると、通りを挟んで向かい(南側)に、京都御所に向かって土下座をする高山彦九郎の銅像がある。


彼については尊王論者という理解しかしていなかった。
ところが、尊王思想を守り続けたことは、幕府を倒すための大義名分であり、幕府に対して徹底的に抵抗した運動家、論客であったというのだ。孤独な戦いであったようだ。やがては絶望して自刃する。



自説を世に広めるため全国を遊説したという足跡がすごい。
房総半島を一周し、水戸、白河、仙台、盛岡、久慈、青森を経て津軽海峡沿岸に達し、秋田、山形、米沢の地も踏む。もちろん東海道、北陸の富山、金沢、福井、松江にも行き、山陽道から九州へ、福岡、佐賀、長崎、熊本、中津、宮崎、鹿児島へ。



『高山彦九郎日記』という膨大な日記が残されていて、それを読んだ吉村昭氏は、考え方を改めたと「反権論者高山彦九郎」で記していた(『歴史の影絵』収)。
ここ駅ビル上にある中古書店「ブ」に立ち寄り、買って帰った一冊。めっけもの!

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ささやかに十分楽しく

2024年12月07日 | 日々の暮らしの中で
紅葉真っ盛りの雑木の森が夕日を正面に受けて美しく輝いていた。その上の空高く高くに、おおきな弧をゆうゆうと描く一羽のトンビ。
空を見上げながら、私の一日の終りです。


今日は寺子屋エッセイサロン一年の収めの日として寄り合いました。
内容はなんでもありの400字文章で、それぞれが思いを披露することを試みました。

学期末の試験を終えたばかりの中高生には、400字と言えど負担かもしれません。書いている暇などなかったでしょう。けれども文章の巧拙ではなく、誠実で思いがこもっていれば聞いてる側の心に届きます。聞く側も思いを汲めるのです。
私には600字という枠で書いていた時期がありましたが、それよりも短く400字。これはもう、小さなことをふっくらとですね。



    

江戸に居て江戸染まぬ、“俺”。
どんな人間が交錯し、もつれ、展開していくのか、などはやはり小説を読む上でのたのしみの頂点です。 
読み始めたところ。




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心よき笑い

2024年12月05日 | 日々の暮らしの中で
まっすぐ進んで右に曲がると、赤い山茶花が咲く高い塀のような植え込みがある。
その小道を通り抜けて左へ曲がって道路を渡れば、田圃が広がる間の道をまっすぐまっすぐ。
山すその墓地への道。


少しばかり斜面を登って、線香をくゆらせ父や母にも手を合わせた。


柿の木の葉が庭に散って、風に吹かれてあちらこちらに飛ばされている。鳥があちこち歩きまわるのに似ているから、「かきどり」と言ったらどうだろうか   ーと明恵上人は冗談を言われた(『あかあかや明恵』)。
かきどりは「柿鳥」のこと。

路上の街路樹の落ち葉が風にあおられて一斉に同じ方向に吹き飛ばされるや、軽やかに跳ね上がり転がりながら四方に散ってゆくのは、「葉鳥」と呼んでしまおうか。

信号待ちをしていると、横断歩道の真ん中あたりで高齢女性が転んだのが目に入った。
起き上がれない。少しの間があって後ろから駆け寄った女性が手を貸すが無理で、前方からもう一人、さらにもう一人、女性が三人がかりで抱き起して渡り終えた。
一人、二人、三人の仏を見た。人間ってすばらしいものだと心をぬくめた。
停止線から2台目の車の中から何もせずに見ていた私だけど…。


そのまま大津の友人のお宅に伺って二時間あまり楽しくお喋りをしてきた。
かつて共に学んだ文章仲間で、最近入手したという吉川宏志の『読みと他者』や青木桐花の句集『あるがまま』を得意そうに見せてくれた。
疎くて知らずにいたが、吉川氏が書かれたものを地元紙で拝見することはある。
彼女の前では言いにくいが、道浦母都子さんの『挽歌の華』を気に入っていて、しばしば開くことを話した。

興味関心の分野が異なるものを持つ友との交流に目が覚める思いは有難い。
心よき笑いに、ここのところの気持ちの疲れが晴れた気がする。  
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親しさの膝を寄せあう

2024年12月02日 | 日々の暮らしの中で
「小春の空の晴れつゞき。」
と書き出される荷風の「小春」という詩(『偏奇館吟草』収)のように、日曜日からぽかぽか陽気に恵まれて(おそらく明日も)、土・日と勤めた報恩講を無事終えました。

お参りのなかったご門徒宅へ、午前中に“おけそさん”(お華足さん - 積み重ねて供えた丸い小餅)をお届けにあがり、後日の会計報告を待つばかりに。
後片付けはボチボチと。

初日は昼から、二日目は朝から晩まで、当番組の方々と共に過ごし、お参りには本堂に寄り合い、法話も共にいただき、もうまさに
〈親しさの膝を寄せあう親鸞忌〉でした。
段取りを確認し合いつつ、何かを一緒にすることで親しさや信頼度が増すのは、老いも若きも変わりないことですね。


ただ、私は膝に特別な故障を抱えてはおらず平素から正座も可能なのですが、立ったり座ったりが響いたのか、今日は歩行中に関節の芯?に鋭い痛みが走りあわてました。




寛喜4年(1232)正月19日の朝、明恵上人が亡くなりました。
8歳のときから上人のおそばにいたイサが、日々を振り返る視点で物語は語られる。
華厳教学を説く師に、最後まで出家せず従者として仕えたイサ。
死に別れれば二度と師に巡り合えない。

死後の世界を思ってイサは、阿弥陀仏の慈悲を信じ、念仏を唱えさえすれば、誰もが阿弥陀仏の西方浄土に生まれ変われるという浄土教の教えを知りたいと、初めて思い始めるのです(ここ、興味深い)。
ここ高山寺にいて自分で学び、俗体のまま寺男のまま、命尽きるまで亡き師にお仕えするのだ、と。
末3行。
  あるべきようわ ー 。
  「おまえはおまえのあるべき様を考えて生きよ」
  明恵さまのお声が聴こえる。

と読み終わりました、『あかあかや明恵』(梓澤要)。
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8歳に

2024年11月29日 | 日々の暮らしの中で
娘家族が大阪の地に住まいを移したのが2016年5月でした。孫娘は小学校5年生に編入。弟は幼稚園年少組に。
その年の11月29日、第3子Lukasが誕生しました。
日本を離れることになった2021年6月まで、生まれておよそ4年半を暮らしたというのに、今では日本語がおぼつかない。なんてさびしいこと。
コロナ禍で閑散とした関空から、「オートスラリア」なんて言いながら父と姉の待つAUSへと飛行機に乗り込んだのでした。


1歳過ぎた冬の朝。
カラスが「カー、カー」と鳴く声を耳にしたとき、空を見上げて「あー、あー」とLukas.
「るーちゃん、あーちがうよ。かーだよ」
するとまた「あー、あー」とLukas。
(よけいなことを言ったものです)

まもなく3歳になろうという秋の夕暮れどき。
「みて! くも!」
夕飯の支度に精出していたときLukasが驚いたように窓際に私を誘います。
建物と建物の間の空が真っ赤に染まっていました。
「かじ、かじ」

「夕焼け」という言葉を教えたときでした。

家を出て少しのところに西を遠望できる場所があります。山並みの向こうに太陽が沈んでいくのが見える場所。
どうして真っ赤な空を見あげに外へ連れ出さなかったのか。
ボクシングジムに通っていた兄のTylerがお腹を空かしてもうすぐ帰ってくるだろう時刻で、夕飯の支度を優先してしまったのです。
あとになって悔いを感じたのでした。

たくさんの想い出をしまっています。

今日8歳の誕生日を迎えました。幸いなことに前日にカードは届きました。今朝は、母親に作ってもらったクラスメートぶんのカップケーキを持って登校でした。

 

2か月にわたるトーナメントの決勝戦が先日の日曜日に行われ、惜しくもの2位。


市のアカデミーのクラブに属していて、サッカー漬けですが、楽しそうです。
(ベンキョー〈も〉ちゃんとしてるかな? 言いたいけど言わずにおこう)

一日一日を全力で過ごしているのです。親に叱られたり、きょうだい喧嘩をしたりしながらも、誰かに見守られていることをしっかり感じられることで、安らぎも自信も持てるようになるようです。
「家族ってそういうあたたかいものなんです」
ある日突然Tylerの口から飛び出した言葉が思い出されます。

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一枚の写真の奥に…

2024年11月27日 | 日々の暮らしの中で
11月30日から12月29日まで、京都新聞ビル地下1階の印刷工場跡で「世界報道写真展」が開かれるそうです。
世界各国のフォトジャーナリストの作品を展示し、紛争や気候変動などの問題を伝える写真展。


記事によると・・・、
世界報道写真財団が主催する世界最大規模の報道写真コンテストで、今年は130の国と地域から約6万点の応募があり、「今年の写真」にはイスラエルによるガザ攻撃を取材するモハメド・サレム氏の「めいの遺体を抱きしめるパレスチナ女性」が選ばれた。

横2m、縦1.3mのパネルに印刷された入選作品32点を6地域ごとに並べ、日本語と英語の説明文が添えられるそうです。

入賞作は80都市以上を巡回しているそうですが、日本では2021年を最後に途絶え、3年ぶりの復活です。
会場は15年まで毎日ニュースを印刷していた場所。
ムリョー、無料です。
が、作品の輸入や会場制作に費用が必要でクラウドファンディングへの協力を求めています。
(市営地下鉄の今出川駅⑦番出口から南へ、近いですよ。)


「写真には時間的、空間的な距離を飛び越えて、見る側を想像の世界へと強く誘う力があるのだ」と竹内万里子さんが昔、むかし書いておられた。
異なる状況に置かれた人々に対して想像力を働かす。
「一枚の写真の前で、遠く離れた他者への想像を膨らませることを学ぶ意義は大いにあるだろう」。自然環境についても同様でしょうか。

一枚の写真の奥に、自分は何を見るか。

私も行ってみるつもりでいます。誰か誘おうかな…、いや、ひとりがいいかも。

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