おはようございます。
先日まで東博で、はにわ展が開催されていたが、同時期に竹橋の東近美では、”ハニワと土偶の近代”展が開かれていた。こちらの方は埴輪・土偶をモチーフにした近現代の作家による作品展だが、両方、見ないと片手落ちになると、12月の初めに覗いてきた。
うれしいことに、こちらも写真撮影が許可されていたので、たくさん撮ってきた。以下、ほぼ展示順に記録しておこうと思う。前田青邨、岡本太郎、イサム・ノグチら著名な作家のほか、はじめて知る作家さんも多いが、個性的なはにわ・土偶を楽しんできた。以下、各章ごとに、あまり説明はつけず、並べてみましたので、ご鑑賞下さい。
序章 好古と考古 ―愛好か、学問か
蓑虫山人 《陸奥全国古陶之図》 1882-1887年頃 ミノムシのように生活用具一式をかついで全国を放浪し、遺物を自ら発掘、蒐集していた蓑虫山人。土器や土偶を中国の文人画風に茶道具や植物とともにレイアウトした図が、「好古」の愉しみを伝える。
その一幅。埴輪が描かれている。
河鍋暁斎 野見宿禰図 1884 野見宿禰は日本書紀にも出てくる埴輪つくりの祖。
第1章 「日本」を掘りおこす ―神話と戦争と
都路華香 《埴輪》 1916年 明治天皇の伏見桃山陵造営は、近代の人々が初めて経験した復古的大事業でした。「ハニワ製作中」の場面は、遠い古を描きつつ、つい先日の出来事と重ねて見ることができる時事的な主題でもあった。
前田青邨 大久米命 1907 木村武山 英姿 1935 埴輪を参照している。
第2章 「伝統」を掘りおこす ―「縄文」か「弥生」か
岡本太郎《犬の植木鉢》1954年 縄文の「発見」者、岡本太郎。ただし彼のもたらしたインパクトは、遺物そのものへの着目よりも、「縄文か弥生か」という対立概念の提案にこそあった。
斎藤清 《土偶(B)》1958年 ハニワ派でもあり、土偶派でもある斎藤清のモダンな木版画。
イサム・ノグチ《かぶと》1952年 戦前の来日時、京都の博物館で見て以来、ハニワ好きを公言していたイサム•ノグチ。「かぶとをぬぐ」(降参する)という慣用句があるが、これは「脱ぎ捨てられたかぶと」か。
長谷川三郎 無題(石器時代土偶による)
高山良策 矛盾の橋 1954 戦後の広島を描いたもので、右上は丹下健三の平和記念館。 左下の鉄骨は原爆ドーム。 都市復興の一方で遅れる被爆者救済を表している。
芥川沙織 古事記より 1957 ろうけつ染めによる怪物だらけの大作
第3章 ほりだしにもどる ―となりの遺物
タイガー立石 富士のDNA 1992 作者の若いころの自画像を取り囲むのはかっての自作の数々。逆さの富士と土偶。縄文人の末裔という意味か。
NHK「おーい!はに丸」1983-1989年放送(右)と、ひんべえ(左)1983年 劇団カッパ座
最後に公式サイトの本展の趣旨を。
古(いにしえ)の地層から出土するハニワや土偶のイメージは日本中に浸透し、いまや押しも押されもせぬキャラクターと化しているといっていいでしょう。出土遺物は、美術に限らず、工芸、建築、写真、映画、演劇、文学、伝統芸能、思想、さらにはテレビ番組にいたるまで、幅広い領域で文化現象を巻き起こしてきました。戦後、岡本太郎やイサム・ノグチによって、それまで考古学の資料として扱われていた出土遺物の美的な価値が「発見」されたというエピソードはもはや伝説化しています。なぜ、出土遺物は一時期に集中して注目を浴びたのか、その評価はいかに広まったのか、作家たちが「遺物」の掘りおこしに熱中したのはなぜか――本展は美術を中心に、文化史の舞台に躍り出た「出土モチーフ」の系譜を、明治時代から現代にかけて追いかけつつ、ハニワや土器、土偶に向けられた視線の変遷を探ります。
今朝の空と富士と紅葉と昨夕の月
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!