この舞台を見て早一ヶ月近く。
とにかく書けないのだ。感想が。
なぜか?
-困惑してるから。
何に?
-勘九郎のお岩に。
良い意味で?
-もちろん、悪い意味で!
というわけで、多くの人を敵に回して語ってみよう、今回の「四谷怪談」。
念のために断っておくと、この舞台を見た友人たちは一様に絶賛しているし、ほぼ同じメンバーで平成12年にやった「四谷怪談」は、当時私も感動した。演出的にもほとんど変わってないし、今回もいい舞台だとは思う。
しかしだ。昔の私には言えなかったが、今なら言える事がある。それは、
「四谷怪談ってこういう話なんだろうか?鶴屋南北物ってホントにこんな感じなの?」っていう事。
鶴屋南北(四世)という人は、大器晩成型の人で22歳で芝居の世界に入り、初めての大当たりを取ったのは50歳近くになってのこと。有名になってからも「棺桶作者」とか「無学」などと言われた人で、あえて単純に言い切ってしまえば、人生の辛酸をなめてきた人、<屈折した人>なのだ。
で、今回の四谷怪談、実に健康だ。確かに顔は崩れ、亡霊となって姿を現す。しかし、それは所詮演出上のギミックであって、われわれが日々恐怖している<何か>に近づいたであろうか?<何か>とは、他ならぬ人間そのものである。<人間の心の闇>と言い換えても良いが、われわれが日々怖いと思っているのは、幽霊をも作り出す人間自身の心の闇であって、それは今尚ストーカーなんかも作り出している。そもそも四谷怪談自体が忠臣蔵の裏話、闇の部分として書かれたものであることを思い出してほしい。英雄物語としての忠臣蔵の、裏側にある血腥い話。つまり二面性を語っているのだ。
少し具体的な芝居に即していうと、序幕、華やかな浅草寺額堂の楊枝屋で働くお岩の妹お袖、お袖にちょっかいを出す悪党直助。ここまではなんてことのない風景なのだが、次の瞬間暗転する。許婚がいるというお袖に文字通り袖にされ、帰りかけた直助に言い寄る老婆、人生の裏も表も知り尽くした態の老婆が直助に耳打ちするのは、お袖が実は地獄宿で夜な夜な春を売っているという事実なのだ。これほど見事に描かれた昼日中に現出する闇の入り口があるだろうか。このあと、直助は地獄宿に導かれ、挙句の果てに近親相姦という闇に落とし込まれるのである。ここに私は南北の真骨頂をみる。こんな老婆は今でも、歌舞伎町あたりにいるかもしれないし、そんな人間臭さを表現できる中村小山三は凄い役者だ。(因みにこのひとはインタビューも面白い。)こうした南北の人間観の後継者は、意外にもロマンポルノで「天使のはらわた」シリーズの脚本を書いた石井隆なのではないかというのが私の持論なのだが、少し話が横道に逸れた。
「勘九郎のお岩」である。勘九郎という人はおそらく(勝手な推測だが)歌舞伎界随一の運動神経の持ち主で、その運動神経とマッチした芝居(例えば、鏡獅子や野田秀樹脚本作)には驚くべき芝居を見せる。だが今回の(今回も!)アクロバテックな面ばかりが強調される勘九郎のお岩に正直なところ辟易させられた。こうした演出の功罪は猿之助あたりに求められるんだろうが(そういえば、猿之助の「四谷怪談忠臣蔵」なんていうのもあったな。)、結果として芝居に鬼気迫るものが足りず、伊右衛門が赤ん坊の蚊帳を持って行こうとするのを止める場面で、客席から笑いが漏れたりした。髪梳きの場のお歯黒を塗るために口を漱ぐところなんかは、病人らしからぬきびきびとした感じで、案外元気で余力のありそうなお岩だ。
参考に、歌右衛門の四谷怪談のビデオ(編集版なので完全通し上演ではないのが悔しい!)を観直してみた。例によって、独特の手振りとくねくねした身のこなしは、情念籠もる怪演でやっぱり恐い。正に病人である。(もっとも成駒屋は素で隣に座っていてもおっかなそうだが。)また伊右衛門役の團十郎(当時、海老蔵)の若いときの容姿はどこか人工的な美とでも言うべきものがあって、亡霊をも恐れない、言ってみれば生きながらの怪物・伊右衛門の妖しさを湛えている。(最近失われてしまったなあ、そういうところ。)それに比べると、橋之助の伊右衛門は威勢はいいが、この人の真面目な感じが災いしてか、どこか一本調子で怪物的な人物にはとても見えない。
もっともこの辺の背景には、近年の、大袈裟な音響効果と美術の作り物のこけおどしで安易にごまかしている、日本のホラー映画の影響もあるのかもしれない。
かくして、佐藤春夫の「小説の極意は怪談なり」という言葉もあった、奥深い日本文化は遠く消え去り、鈍感な恐ろしい感性の観客ばかりが増えていくんだろうか?
いま一度、人間の中に潜む怪物を現出させてくれるような四谷怪談が見れるとすれば、お岩役は①秀太郎②玉三郎③萬次郎(ちょっとダークホースかな)あたりでだろうな…。
最後に勘九郎のおじいさんに当たる、六代目菊五郎の名言。
病気になって瘠せた弟子が、菊五郎に挨拶に来た。
「早くよくなって、東京に戻っておいで」と菊五郎。
「ありがとうございます」と涙ぐむ弟子に
「魂で来ちゃいやだぜ」
魂だけで来かねない人間って本当に恐いよ。
とにかく書けないのだ。感想が。
なぜか?
-困惑してるから。
何に?
-勘九郎のお岩に。
良い意味で?
-もちろん、悪い意味で!
というわけで、多くの人を敵に回して語ってみよう、今回の「四谷怪談」。
念のために断っておくと、この舞台を見た友人たちは一様に絶賛しているし、ほぼ同じメンバーで平成12年にやった「四谷怪談」は、当時私も感動した。演出的にもほとんど変わってないし、今回もいい舞台だとは思う。
しかしだ。昔の私には言えなかったが、今なら言える事がある。それは、
「四谷怪談ってこういう話なんだろうか?鶴屋南北物ってホントにこんな感じなの?」っていう事。
鶴屋南北(四世)という人は、大器晩成型の人で22歳で芝居の世界に入り、初めての大当たりを取ったのは50歳近くになってのこと。有名になってからも「棺桶作者」とか「無学」などと言われた人で、あえて単純に言い切ってしまえば、人生の辛酸をなめてきた人、<屈折した人>なのだ。
で、今回の四谷怪談、実に健康だ。確かに顔は崩れ、亡霊となって姿を現す。しかし、それは所詮演出上のギミックであって、われわれが日々恐怖している<何か>に近づいたであろうか?<何か>とは、他ならぬ人間そのものである。<人間の心の闇>と言い換えても良いが、われわれが日々怖いと思っているのは、幽霊をも作り出す人間自身の心の闇であって、それは今尚ストーカーなんかも作り出している。そもそも四谷怪談自体が忠臣蔵の裏話、闇の部分として書かれたものであることを思い出してほしい。英雄物語としての忠臣蔵の、裏側にある血腥い話。つまり二面性を語っているのだ。
少し具体的な芝居に即していうと、序幕、華やかな浅草寺額堂の楊枝屋で働くお岩の妹お袖、お袖にちょっかいを出す悪党直助。ここまではなんてことのない風景なのだが、次の瞬間暗転する。許婚がいるというお袖に文字通り袖にされ、帰りかけた直助に言い寄る老婆、人生の裏も表も知り尽くした態の老婆が直助に耳打ちするのは、お袖が実は地獄宿で夜な夜な春を売っているという事実なのだ。これほど見事に描かれた昼日中に現出する闇の入り口があるだろうか。このあと、直助は地獄宿に導かれ、挙句の果てに近親相姦という闇に落とし込まれるのである。ここに私は南北の真骨頂をみる。こんな老婆は今でも、歌舞伎町あたりにいるかもしれないし、そんな人間臭さを表現できる中村小山三は凄い役者だ。(因みにこのひとはインタビューも面白い。)こうした南北の人間観の後継者は、意外にもロマンポルノで「天使のはらわた」シリーズの脚本を書いた石井隆なのではないかというのが私の持論なのだが、少し話が横道に逸れた。
「勘九郎のお岩」である。勘九郎という人はおそらく(勝手な推測だが)歌舞伎界随一の運動神経の持ち主で、その運動神経とマッチした芝居(例えば、鏡獅子や野田秀樹脚本作)には驚くべき芝居を見せる。だが今回の(今回も!)アクロバテックな面ばかりが強調される勘九郎のお岩に正直なところ辟易させられた。こうした演出の功罪は猿之助あたりに求められるんだろうが(そういえば、猿之助の「四谷怪談忠臣蔵」なんていうのもあったな。)、結果として芝居に鬼気迫るものが足りず、伊右衛門が赤ん坊の蚊帳を持って行こうとするのを止める場面で、客席から笑いが漏れたりした。髪梳きの場のお歯黒を塗るために口を漱ぐところなんかは、病人らしからぬきびきびとした感じで、案外元気で余力のありそうなお岩だ。
参考に、歌右衛門の四谷怪談のビデオ(編集版なので完全通し上演ではないのが悔しい!)を観直してみた。例によって、独特の手振りとくねくねした身のこなしは、情念籠もる怪演でやっぱり恐い。正に病人である。(もっとも成駒屋は素で隣に座っていてもおっかなそうだが。)また伊右衛門役の團十郎(当時、海老蔵)の若いときの容姿はどこか人工的な美とでも言うべきものがあって、亡霊をも恐れない、言ってみれば生きながらの怪物・伊右衛門の妖しさを湛えている。(最近失われてしまったなあ、そういうところ。)それに比べると、橋之助の伊右衛門は威勢はいいが、この人の真面目な感じが災いしてか、どこか一本調子で怪物的な人物にはとても見えない。
もっともこの辺の背景には、近年の、大袈裟な音響効果と美術の作り物のこけおどしで安易にごまかしている、日本のホラー映画の影響もあるのかもしれない。
かくして、佐藤春夫の「小説の極意は怪談なり」という言葉もあった、奥深い日本文化は遠く消え去り、鈍感な恐ろしい感性の観客ばかりが増えていくんだろうか?
いま一度、人間の中に潜む怪物を現出させてくれるような四谷怪談が見れるとすれば、お岩役は①秀太郎②玉三郎③萬次郎(ちょっとダークホースかな)あたりでだろうな…。
最後に勘九郎のおじいさんに当たる、六代目菊五郎の名言。
病気になって瘠せた弟子が、菊五郎に挨拶に来た。
「早くよくなって、東京に戻っておいで」と菊五郎。
「ありがとうございます」と涙ぐむ弟子に
「魂で来ちゃいやだぜ」
魂だけで来かねない人間って本当に恐いよ。
観に行ってません。
ですが、なんとなく感じは伝わります。
こういった風に書くのは度胸がおありですが、はっきりしてるし率直で良いと思います。
十月公演は「井伊大老」に関心ですが、何がお薦めですか?
今後も言いたい放題言っていきます。2ちゃんねるあたりで半端に言い放しって言うのは私の生に合わないんですよね。
十月公演では、月並みだけど「直侍」かな。花道のせりふ、「そばでも一杯(いっぺえ)食っていくかあ。」っていうのが気持ちいいんですよね。特に今回は江戸っ子らしい菊五郎さんですから。そばが食べたくなりそうだな。
それと、10月は国立劇場の「伊賀越道中双六」もいいですよ。ちょっと地味だけど。
玉三郎さんのHPはゲストも凄いし、随分率直な発言もしていて充実してますね。
http://www.tamasaburo.co.jp/