切られお富!

歌舞伎から時事ネタまで、世知辛い世の中に毒を撒き散らす!

六月大歌舞伎 夜の部 (歌舞伎座)

2006-06-15 00:52:16 | かぶき讃(劇評)
久々に書いたって感じがするのは情けないな~(笑)。とりあえあず、感想です!!

①暗闇の丑松

長谷川伸の芝居というと、「瞼の母」なんかに代表される、<お涙ちょうだい物>っていうイメージがあるのかもしれないけれど、構成の巧みさや舞台設定のうまさに特徴があって、「この人って、じつは映画もしくは舞台美術に関心を持っていた人なのでは?」って思うこともしばしば。

今月の配役は、ニンに合わない二人、幸四郎と福助の主演なので、長谷川伸の原作の巧妙さを軸に感想を書いてみようと思う。

序幕の二階家。隣家のひそひそ話で設定を伝え、階段の上がり口の戸を開けた時に入る光で階下を表現するあたり、とにかく情緒があってうまい。「一本刀土俵入り」でも二階家と階下をつなぐ巧妙な芝居を書いているし、横長舞台の歌舞伎座で、高低をうまく使うセンスってなかなかのもの。案外こういう舞台外の風情を表現できる劇作家っていなくて、じつをいうと三島由紀夫なんかもこの手の仕掛けがうまい。(たとえば、「鹿鳴館」。)

序幕の影の主人公は物音であり、戸を叩く存在としての主人公・暗闇の丑松が、舞台に登場するや、今度は階下や隣家の話し声が丑松とお米というカップルを脅かす。照明の月明かりに導かれて、二人が屋根伝いに逃げるくだりなど、登場シーンの上がり口の光と対になっていて、やっぱり舞台効果を知り尽くした芝居だなとわたしは再認識した。

二幕目の宿屋だと、外の嵐のSEが印象的で、序幕の風、二幕目の大雨、三幕目の蝉の声と自然をうまく舞台に表現しているわけだけど、おそらく六代目菊五郎が考えたであろう、舞台中央の階段というのが芝居のいいアクセントになっていて、こういうところはむしろ映画的。宿屋の門口から、またしても二階の部屋に場所を移すわけだけど、映画なら、二階と一階で照明配置が違うから、ちょっとした見所になるところ。男女の再会、下に下りる女。階下の騒ぎで、場面は門口に戻る。

三幕目は一転して、夏の一軒屋。蝉の泣く暑い日に、またしても!階段から階下にアダっぽい中年夫婦が降りてくる。庭の植木。そして、暑さから風呂屋へ。

そして、最後は風呂屋の釜場(面白い舞台美術!)での殺人、逃走。

これだけ読むと何の芝居だかわからないでしょうが(笑)、話を端折っていうと、薄幸の女・お米と板前・丑松のカップル。ふとしたことから人を殺した丑松がお米と逃避行(序幕)。兄貴分を頼って、丑松ひとり遠くに逃げるが、お米は兄貴分に騙され、売られ、丑松と再会。真実を信じない丑松にお米は自殺(二幕)。丑松は仇をとるために兄貴分の家に行き、兄貴分の女を殺害、風呂屋へ兄貴分を追い、殺害して終わりという、長々書いてて、じつに救いのないストーリーなんですよね。おそらく、初演当時の昭和初期の暗い世相を反映してるってことなんでしょう。

さて、ここでようやく役者について書くんですが、まず主人公・丑松の幸四郎。この役ではなんといっても初世辰之助の触ると切れるような丑松がカッコよかったし、板前で一本気ないい男ってイメージが本来のこの役だとわたしは思う。猿之助の丑松は泥臭くて、土方のオヤジみたいだったけど、このときだって一本気な雰囲気ではあった。でも、今回の幸四郎は随分泣き虫な丑松だとわたしは思った。こんな役だっけ?というのがわたしの印象だし、真面目で硬くて弱虫な男というイメージしか受けなかった。どうも、幸四郎自身この役を掴みきれてないように思えたし、従来と別の造形にするにしたって、まったく魅力が感じられない。辛うじてよかったのは最後の引っ込みの切迫感で、ここだけ、二世鴈治郎の「曽根崎心中」の引っ込みのリアルさをちょっとだけ思い出した。

そして、お米の福助。この薄幸な堅気の女役にしては、福助の芝居は艶っぽいし、わざとらしかった。とりわけ、死を決意したあたりの小声の芝居などわざとらしさの極みで、なんだか嫌になってしまったほど。この役に関しては、かつて笑也がやったのが傑作で、なんとも儚く、猿之助が舞台に立てない今、段治郎とやって欲しいという気がしているけど、どうなんですかね?因みに、辰之助のときは菊五郎がやっていて、若いときの菊五郎ならピッタリではあった。いまだと、宗之助なんか似合いかもしれないな。

二幕目に登場する料理人祐次の染五郎は、なんとも硬い感じで遊びがない印象。この役はおっちょこちょいで愛嬌のある役。それが、なんとも余裕がなくて、全然笑えなかった。

この芝居でよかったのは、丑松を裏切る兄貴分・四郎兵衛夫婦を演じた、段四郎・秀太郎の両ベテラン。もちろん、この二人の実力からしたら平凡な出来かもしれないのだけど、三幕目だけ妙に古風ないい芝居に見えて、それまでの中途半端な心理主義めいた芝居が吹っ飛んだ爽快感があった。特に、丑松を誘惑する秀太郎の芝居なんかドキッとしたなあ~。ただし、段四郎の四郎兵衛はあえて言うなら憎憎しさが少し足らない感じもしなくない。というのも、このひとのパーソナリティ自身が、そもそも「善」という感じなので、善人の老け役だと深みのある役になるのに、悪役だと深みのない悪のペルソナという枠をはみ出ない印象がある(このあたり、パーソナリティに「悪」を持っている、團蔵や左團次とはやっぱり違う)。でも、たとえペルソナに過ぎないとしても、大時代で立派な「悪」に見えてしまうから、段四郎って好きではあるんだけど。

そんなわけで、「暗闇の丑松」という芝居、もしくは長谷川伸の芝居という意味では消化不良の舞台だったけど、作品自体はあらためてよく出来ていると感心しました。

ただ、長谷川伸という作家は、その映像的な感覚から、舞台より映画の方で語り継がれるような気がしています。嘘だと思ったら、次にあげる映画を観てください!中村獅童も叔父錦之助にはかなわないなって思うはずですよ!(ところで、映画監督・加藤泰と評論家の荻昌弘が映画「瞼の母」をめぐって論争したなんてこともありましたね。)

因みに、ちくま文庫の「沓掛時次郎・瞼の母」も古本か図書館で探して読むと結構感動します。

沓掛時次郎 遊侠一匹

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関の弥太っぺ

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瞼の母・沓掛時次郎

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②身替座禅

この演目自体に関しては過去の記事でわたしの考えは述べているので、舞台の雑感のみを書いておきます。

<過去の記事>
・身替座禅(勘三郎・三津五郎)
・身替座禅(吉右衛門・歌昇)

今回わたしはたまたま花道脇で観劇していたのだけど、花道から舞台に向かう菊五郎の右京が印象的でした。

吉右衛門の右京は楽しく酔った右京で、菊五郎は酔って惚気た右京っていうのがわたしのイメージ。

このあたりが、菊五郎の俗っぽい芸風と繋がっていて賛否両論なんだろうけど、そもそもこの演目自体が俗っぽい話ではあるので…。

仁左衛門の妻・玉の井はけしてうまくない女形だけど、仁左衛門だからいいかって思わせる何かがある。わたしの感じだと、仁左衛門という役者は、役よって人格が変わるというより、何をやっても仁左衛門がやってると思わせるタイプの役者。おそらく、戦前の十五代目市村羽左衛門がこういうタイプだったんだろうけど、細かいことをいうのが野暮に見えてしまうってとこですかね。(もちろん、褒めてます!念のため。)

個人的な好みでいうと、この芝居では、冒頭の千枝小枝だの舞がわたしは妙に好きで、今回の梅枝・松也コンビも可愛らしかった。

③二人夕霧

この芝居は困ったな。個人的には楽しんだんだけど、歌舞伎に詳しくない観客はさぞや困ったことでしょう。しかし「夕霧名残の正月」を一月にやったからって、説明なさ過ぎっていう構成ではあるんですよね。

だいたい、「廓文章」の世界のパロディだってことが分かってないと、大夫が米を洗ったり、高下駄で買い物に行く面白さが分からないし…。(着物の下に紙衣をきている伊左衛門という設定も。)

伊左衛門役の梅玉は三味線を持って佇むところがなんとも雰囲気があって、わたしはよかった。魁春襲名の「十種香」の勝頼が刀を持って佇んでるところも、梅玉は絶品だったし、わたしはウットリしてました。

後の夕霧の時蔵もちょっと軽薄な感じがこの役にあってたし、先の夕霧の魁春はちょっと地味でこの役の貫禄には物足りないけれど、要所要所は貫禄以外の何か(儚さかな?)があって悪くなかった。

この芝居、途中からほとんど役者の台詞がなく、義太夫で内容を説明しているので、歌舞伎になれていない人にはかなりきつい、わからないものだったと思う。でも、なれている人なら、竹本葵太夫の声に鶴澤正一郎の三味線が心地よかったんじゃないかな。(さすが、歌舞伎座はよく響くなって感じで。)

なお、夕霧伊左衛門って?という方は以下のマンガをどうぞ!
・『難波鉦異本(なにわどらいほん)』①、② もりもと崇 著

というわけで、久々の感想、調子でなかったな…。わたしのせいばかりでもないとは思うんだけど…。
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