久々の芝居の感想なんですが、憎まれっ子世にはばかるというか…。中村屋のご贔屓はご遠慮して頂いた方が良いかと…。でも、全面否定ではないのですが…。
まず、基本的に好きな芝居ではないし、好きな役者が揃っているわけでもない串田和美演出の「法界坊」。ただ、平成中村座も観に行かなかったしなあ…、ということで、一応観に行ってみた。しかし、案の定、大喜利を観るまでは、わたしの評価はマイナス120点くらいだったんですよね…。
「法界坊」という芝居は好色な生臭坊主「法界坊」を主人公にした芝居で、前半の喜劇調、後半のグロテスク怪談風と、ちょっと分裂した面があるような気がする。
今現在、録画しておいた先代勘三郎の「法界坊」のビデオが見当たらないので、断言はできないのだけど、先代の「法界坊」は長唄の聞こえてきそうな風情の法界坊、今の勘三郎の方は、タップダンスのリズムの法界坊だなというのがわたしの印象。もちろん、どちらがよいと思うかは見る側の判断なんだろうけど…。
正直言って辟易させられたのは、この芝居の底流にあるらしい人間観。「変態じみた姿が人間の本性だ」みたいな、歌舞伎以外の、笑いを取ろうとする芝居にはありがちな、いつもの品のないアレ。テレビのお笑いも概ねそういうパターンだけど、テレビや歌舞伎以外の芝居と同じつもりで来ている客には大ウケでも、日本には落語なんかの笑いの流れもありますからね・・・。いったい、なんで勘三郎ほどの実力の役者が、たけしや志村けんのコントみたいな安っぽい芝居をやりたがるのか?さっぱり、わからない…。
というようなわけで、半分さじを投げた格好ながら、わざわざ立ち見でこの芝居をみていたわたしですが、最後の最後、大喜利ではっと息を呑んだ。
第二幕の暗い陰惨な舞台から一転して、舞台は明るい墨田川のほとり。そこに勘三郎演じるいわくありげな女。この女、じつは前の幕で死んだ法界坊と野分姫の合体した怨霊なのだけど、何の気なく、でもただものではない佇まいで現れる。声だけは前の幕まで野分姫を演じた七之助が、後見姿で出しているという趣向もいいのだけど、どこか鬼気迫る雰囲気がぞくっとする。ちょっと褒めすぎだけど、歌右衛門がやった「茨木」の伯母・真柴のおっかなさがあった。
考えてみれば、溝口健二の映画『雨月物語』でも、京マチ子演じる女の亡霊は真っ昼間の明るすぎる露天の光景で登場していたし、明るすぎる昼間っていうのは、半端な暗闇よりずっと怖い。
舞台では一種の舞踊劇のような形になるので、後見は途中からベテランの中村小山三に変わっていたけど、わたしが勘三郎でも手放しに褒める踊りの気持ちよさと小山三との息のあった動き、そして常磐津と義太夫の掛け合い(竹本清太夫!)が、これぞ歌舞伎!っていう充実感に満ちていて、個人的には時間が短く感じたほど。(でも、周りの客にはここは長く感じたんだろうなあ?)
繰り返すようだけど、これのできる人がなんで、安っぽいコントみたいな芝居をやるのか本当にわからない。最後はわたしの好きでない歌舞伎座のスタンディングオベイションになったのだけど、珍しくわたしも拍手を送る気になった。(因みに幕が引いたあとも、拍手が鳴り止まず、もう一回役者一同が登場しました。すぐ帰っちゃったひとは残念だったね!)
とにかく、わたしの結論としては、今回の木戸銭は大喜利のみに払いました。いっちゃあ悪いが、他の幕の演出は宙乗りも含めてわたしの趣味じゃない。勘三郎クラスの役者なら、芝居好きがどんどん引き込まれるような魔力のある踊りを、初心者にも受けいられるように見せていくべきじゃないのかって、心底思った。だって、ここは渋谷のコクーンではなくて、銀座の歌舞伎座なんだから!
PS:というわけで、中村屋贔屓を敵に回しちゃったな!去年の納涼歌舞伎もぼろくそに書いちゃったし…。
まず、基本的に好きな芝居ではないし、好きな役者が揃っているわけでもない串田和美演出の「法界坊」。ただ、平成中村座も観に行かなかったしなあ…、ということで、一応観に行ってみた。しかし、案の定、大喜利を観るまでは、わたしの評価はマイナス120点くらいだったんですよね…。
「法界坊」という芝居は好色な生臭坊主「法界坊」を主人公にした芝居で、前半の喜劇調、後半のグロテスク怪談風と、ちょっと分裂した面があるような気がする。
今現在、録画しておいた先代勘三郎の「法界坊」のビデオが見当たらないので、断言はできないのだけど、先代の「法界坊」は長唄の聞こえてきそうな風情の法界坊、今の勘三郎の方は、タップダンスのリズムの法界坊だなというのがわたしの印象。もちろん、どちらがよいと思うかは見る側の判断なんだろうけど…。
正直言って辟易させられたのは、この芝居の底流にあるらしい人間観。「変態じみた姿が人間の本性だ」みたいな、歌舞伎以外の、笑いを取ろうとする芝居にはありがちな、いつもの品のないアレ。テレビのお笑いも概ねそういうパターンだけど、テレビや歌舞伎以外の芝居と同じつもりで来ている客には大ウケでも、日本には落語なんかの笑いの流れもありますからね・・・。いったい、なんで勘三郎ほどの実力の役者が、たけしや志村けんのコントみたいな安っぽい芝居をやりたがるのか?さっぱり、わからない…。
というようなわけで、半分さじを投げた格好ながら、わざわざ立ち見でこの芝居をみていたわたしですが、最後の最後、大喜利ではっと息を呑んだ。
第二幕の暗い陰惨な舞台から一転して、舞台は明るい墨田川のほとり。そこに勘三郎演じるいわくありげな女。この女、じつは前の幕で死んだ法界坊と野分姫の合体した怨霊なのだけど、何の気なく、でもただものではない佇まいで現れる。声だけは前の幕まで野分姫を演じた七之助が、後見姿で出しているという趣向もいいのだけど、どこか鬼気迫る雰囲気がぞくっとする。ちょっと褒めすぎだけど、歌右衛門がやった「茨木」の伯母・真柴のおっかなさがあった。
考えてみれば、溝口健二の映画『雨月物語』でも、京マチ子演じる女の亡霊は真っ昼間の明るすぎる露天の光景で登場していたし、明るすぎる昼間っていうのは、半端な暗闇よりずっと怖い。
舞台では一種の舞踊劇のような形になるので、後見は途中からベテランの中村小山三に変わっていたけど、わたしが勘三郎でも手放しに褒める踊りの気持ちよさと小山三との息のあった動き、そして常磐津と義太夫の掛け合い(竹本清太夫!)が、これぞ歌舞伎!っていう充実感に満ちていて、個人的には時間が短く感じたほど。(でも、周りの客にはここは長く感じたんだろうなあ?)
繰り返すようだけど、これのできる人がなんで、安っぽいコントみたいな芝居をやるのか本当にわからない。最後はわたしの好きでない歌舞伎座のスタンディングオベイションになったのだけど、珍しくわたしも拍手を送る気になった。(因みに幕が引いたあとも、拍手が鳴り止まず、もう一回役者一同が登場しました。すぐ帰っちゃったひとは残念だったね!)
とにかく、わたしの結論としては、今回の木戸銭は大喜利のみに払いました。いっちゃあ悪いが、他の幕の演出は宙乗りも含めてわたしの趣味じゃない。勘三郎クラスの役者なら、芝居好きがどんどん引き込まれるような魔力のある踊りを、初心者にも受けいられるように見せていくべきじゃないのかって、心底思った。だって、ここは渋谷のコクーンではなくて、銀座の歌舞伎座なんだから!
PS:というわけで、中村屋贔屓を敵に回しちゃったな!去年の納涼歌舞伎もぼろくそに書いちゃったし…。
昔から、「役者,殺すには刃物はいらぬ」と言うではないですか。