
歴史の醍醐味は「年代暗記」だとかねてから主張し続けてきたわたし。このことについては以前も記事にしたことがあるので詳しくは書かないけれど、空間を越えた同時代性ってモノに触れるには、「年代暗記」って面白いんですよ。さて、映画や演劇について時代のコンテクストと絡めた形で考えるべきときが来ているとわたしは思っていて、歌舞伎の劇評でも何度か試しているんだけど、こういうテーマ性について格好な本がでていて、ここのところチラチラ覗きながら楽しんでいます。それが、この本!(長い前置き!!)
歌舞伎の歴史を最近の百年に限って、一年毎に解説しているのがこの本、『歌舞伎百年百話』。
この本を読むと、如何に近代歌舞伎や歌舞伎座という劇場(「芝居小屋」ではない!)が政治絡みだったかがよくわかる。(そういえば、天覧歌舞伎120周年ですしね、今年は。)
わたしの関心事でいうと、歌舞伎初の海外公演先がなんとソ連で、この公演を見た映画監督エイゼンシュタインが歌舞伎の演出に影響を受けて『イワン雷帝』(音楽はもちろんプロコフィエフ!)を撮ったというのは有名な話。
この歌舞伎初の海外公演があったのが昭和3年(1928年)の冬で、座長は二代目市川左團次、因みにこの公演の中心に松竹の若き重役・城戸四郎がいたって話はこの本には出てきません!(でも、日本の映画・演劇史を考えるには重要ではありませんか?)
まあ、わたしがいいたいのは、そろそろ蓮實重彦あたりのポストモダン系の、表象文化論的批評にも飽き飽きしてませんかって話なんですよね。
(「表象文化論的批評」っていうのは、要するに、歴史的コンテクストから離れて、ひたすらテキストから批評を展開していこうというスタイル。映画でやたらに流行って、映画界にはまったく寄与してない批評形式なんだよね!)
ところで、前年の昭和2年に芥川龍之介が「ぼんやりした不安」ということばを残して自殺しているんだけど、プロレタリア文学の脅威を感じていたという説と翌年の歌舞伎ソ連公演って、なんだか妙な符牒って感じもしてきますね~。
そんなわけで、歴史好きな人にもオススメです。
<以前の記事>
・1910年ごろ。(わたしの年代暗記論)
・五月 大歌舞伎 昼の部 (歌舞伎座)(ちょっとだけ歴史絡みの劇評)
歌舞伎の歴史を最近の百年に限って、一年毎に解説しているのがこの本、『歌舞伎百年百話』。
この本を読むと、如何に近代歌舞伎や歌舞伎座という劇場(「芝居小屋」ではない!)が政治絡みだったかがよくわかる。(そういえば、天覧歌舞伎120周年ですしね、今年は。)
わたしの関心事でいうと、歌舞伎初の海外公演先がなんとソ連で、この公演を見た映画監督エイゼンシュタインが歌舞伎の演出に影響を受けて『イワン雷帝』(音楽はもちろんプロコフィエフ!)を撮ったというのは有名な話。
この歌舞伎初の海外公演があったのが昭和3年(1928年)の冬で、座長は二代目市川左團次、因みにこの公演の中心に松竹の若き重役・城戸四郎がいたって話はこの本には出てきません!(でも、日本の映画・演劇史を考えるには重要ではありませんか?)
まあ、わたしがいいたいのは、そろそろ蓮實重彦あたりのポストモダン系の、表象文化論的批評にも飽き飽きしてませんかって話なんですよね。
(「表象文化論的批評」っていうのは、要するに、歴史的コンテクストから離れて、ひたすらテキストから批評を展開していこうというスタイル。映画でやたらに流行って、映画界にはまったく寄与してない批評形式なんだよね!)
ところで、前年の昭和2年に芥川龍之介が「ぼんやりした不安」ということばを残して自殺しているんだけど、プロレタリア文学の脅威を感じていたという説と翌年の歌舞伎ソ連公演って、なんだか妙な符牒って感じもしてきますね~。
そんなわけで、歴史好きな人にもオススメです。
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・1910年ごろ。(わたしの年代暗記論)
・五月 大歌舞伎 昼の部 (歌舞伎座)(ちょっとだけ歴史絡みの劇評)
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