去年見逃していた、『野田版鼠小僧』をCSで観ましたので、雑感を述べます。
☆
しかし、現代の芝居とはあんなにセリフをしゃべり続けないと成立しないんだろうか?というのが率直な感想。
戦前の新歌舞伎が実に一面的な人間像でまったく現代からは同意できないモノなのと対照的に、自分の本音、大衆の本音、すました人の本音を、かくもけたたましく捲し立てないと表現できない<現代>とか<現代人>って何なんだろうか。
勘九郎の汗一杯の熱演は流石とは思うが、結局若干高級な俳優祭といった感じが私の印象。深刻ぶらず又おちゃらけにならない中間のところで演じられる新歌舞伎というのは出来ないもんだろうか?新橋演舞場あたりの出し物の、ちょっと説教くさい時代劇も考え物だが…。
ただ、感心したのは、役者のアクションと廻り舞台の動きを重ね合わせるような手法で、こういうものは猿之助一座あたりが案外使わない手法だ。
(というか、野田秀樹演出歌舞伎に最近の猿之助歌舞伎はお株を取られている感もあるなあ。)
最後に子供を使ってくる当り、結局『荒川の佐吉』なんかと変わらないじゃないかというところが、<おばさん向け大衆演劇>と思われている今の歌舞伎の(倫理観の)限界なのかと思われて、野田秀樹をしてこれかという思い。
でも、考えてみれば、昼ドラ『牡丹と薔薇』が人気になるように、本当のおばさんはもっと血なまぐさいもの好みだと思うのだが…。(私はおばさんではありません。)
それに、鶴屋南北の<死>や<肉体の破壊>というテーマや、河竹黙阿弥の描く裏社会に較べるとほんとにぬるいぬるい。<まじめVSふまじめ>のいう対立の80年代的な古くささすら野田秀樹の美意識に感じてしまう。
結論としては、この芝居はエンターテイメントとしては二重マルで多くの観客は喜ぶだろうが、はっきり言えるのは私の求める歌舞伎はこれじゃないということ。
これが襲名披露狂言候補になるようでは、新勘三郎は私の趣味から遠い役者といわざるを得ない。
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しかし、現代の芝居とはあんなにセリフをしゃべり続けないと成立しないんだろうか?というのが率直な感想。
戦前の新歌舞伎が実に一面的な人間像でまったく現代からは同意できないモノなのと対照的に、自分の本音、大衆の本音、すました人の本音を、かくもけたたましく捲し立てないと表現できない<現代>とか<現代人>って何なんだろうか。
勘九郎の汗一杯の熱演は流石とは思うが、結局若干高級な俳優祭といった感じが私の印象。深刻ぶらず又おちゃらけにならない中間のところで演じられる新歌舞伎というのは出来ないもんだろうか?新橋演舞場あたりの出し物の、ちょっと説教くさい時代劇も考え物だが…。
ただ、感心したのは、役者のアクションと廻り舞台の動きを重ね合わせるような手法で、こういうものは猿之助一座あたりが案外使わない手法だ。
(というか、野田秀樹演出歌舞伎に最近の猿之助歌舞伎はお株を取られている感もあるなあ。)
最後に子供を使ってくる当り、結局『荒川の佐吉』なんかと変わらないじゃないかというところが、<おばさん向け大衆演劇>と思われている今の歌舞伎の(倫理観の)限界なのかと思われて、野田秀樹をしてこれかという思い。
でも、考えてみれば、昼ドラ『牡丹と薔薇』が人気になるように、本当のおばさんはもっと血なまぐさいもの好みだと思うのだが…。(私はおばさんではありません。)
それに、鶴屋南北の<死>や<肉体の破壊>というテーマや、河竹黙阿弥の描く裏社会に較べるとほんとにぬるいぬるい。<まじめVSふまじめ>のいう対立の80年代的な古くささすら野田秀樹の美意識に感じてしまう。
結論としては、この芝居はエンターテイメントとしては二重マルで多くの観客は喜ぶだろうが、はっきり言えるのは私の求める歌舞伎はこれじゃないということ。
これが襲名披露狂言候補になるようでは、新勘三郎は私の趣味から遠い役者といわざるを得ない。
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