wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

第4回 大山街道を歩く(荏田から長津田)

2015-04-29 14:54:22 | 大山街道を歩く
平成27年4月29日(昭和の日でお休み)
ゴールデンウイークの前半、まだ4月だというのに、暑いくらいの晴天の中、久しぶりに大山街道を歩いてきた。

昨日は福島県の浪江町は30度をこす真夏日を記録したそうだ。日本列島は、ほんのちょっぴりの春を過ごしただけで、本格的な夏を迎えようとしている。

大山道の道のりは、ほんと高低が激しい。上り坂のあとには、下り坂。その繰り返しであった。

朝7時30分には、家を出て、中央林間に車を止めて、田園都市線で江田駅へ。
そこからはひたすら、国道246号線に沿って歩を進める。

あまり有名どころは、この界隈には無い。

敢えて、写真に撮ってきたのは、医薬神社。
  

次は、マンションの影にひっそりと立っていた、お七稲荷。八百屋お七を祀っているらしい。
 

長津田駅近くの大石神社。在原業平は、恋人と恋敵から逃れるために、この地東国に来た。その時に、今の大石神社あたりに立ち寄った時に、追いかけてきた、恋敵が火を放ち、あたり一面火の海に包まれた。でも焼け跡に二人の遺体はなく、ただ大きな石が残っていたという。この石がこの大石神社の御神体という。ホントかなあ~
  


15773歩(約9.4キロ)歩いた。
上り下りが激しいと、とても疲れる。もっと歩ける時間があったが、今日は長津田でギブアップ。
でも、こうやって歩けることに感謝しよう。
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二子新地駅から荏田駅まで

2015-03-15 21:27:50 | 大山街道を歩く
平成27年3月15日 第3回の「大山街道を歩く」を行った。
だいたい月1回のペースで、行っている。
今回のコースは、上り下りが多く、平坦な道があまりなかった。
主人曰く「本来はこういう道が普通で、相模原が希なのだ」と。
だから、時間にして3時間あまりだったけど、足が痛くなって、荏田駅での昼食時は、二人して、疲労困憊でした。

一番の見所は、二子新地の駅の近くに、岡本かの子(岡本太郎のお母さん)の生家跡があって、そこが名所くらいで、あとは、高低の激しい道のりを黙々と歩いた感じでした。
かの子の兄の大貫雪之丞という人は、24歳の若さで亡くなっている。それも床屋でのひげそりの傷からばい菌が入り、それが原因で亡くなったという、不幸な人だ。実家が病院だというのに、昔はそういうことも治せなかったんだなと思った。
        

次に、大山街道ふるさと館があった。そこでは大山街道の地図などが展示してあった。
      

街道には、庚申さまが至る処に祭ってあった。2ヶ月に1回、庚申の日には、村人が集まり、念仏を唱えて眠らないようにした。それは寝ると体の中に、庚申が入り込んで、天の神様に告げ口をされるということだ。
   


最後に荏田駅近くに、荏田城跡地があった。でも入ることが出来なっかた。地滑り防止なのか、竹が植えてあった。

今回は、携帯を忘れてしまい、歩数を測れなかった。
12キロ位歩いているので、3万歩以上はいったと思う。
でも、今回もこうやって歩けることの幸せをひしひしと感じている。
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道玄坂には大和田道玄という山賊の親分がいた。

2015-02-22 14:50:41 | 大山街道を歩く
平成27年2月11日 建国記念日で休日
夫婦で歩く「大山街道」 1月17日についで2回目のウォーキングとなる。
前回は渋谷駅までだったので、今回は、渋谷駅から二子玉川駅までの工程だ。

天気は良好。まずは、渋谷駅で降り、道玄坂の方へ歩く。
この日は建国記念日だからか、右翼?の街宣車がやたら大きな歌を流しながら、走っている。機動隊が侵入させないようにバリケートを組んでいた。そんな光景を横目に見ながら、道玄坂を上がっていく。

ここで大きな失敗に気づく。デジカメを忘れてきた。携帯のカメラは撮れることは撮れるが、ブログに貼り付けるにはカバーを開けなければならないので、今の私にはできないのである。

今回は、行ったという記録残しである。

渋谷から道玄坂を上って、246号線沿いをほとんど歩いてきた。
この道玄坂の名前の由来は、渋谷氏の一族である大和田道玄という山賊の親分が、大山街道を行く旅人を襲ったりしたことから、ついたんだそうだ。

池尻大橋駅~用賀駅~二子玉川駅まで、あまり有名なところはなく、黙々と歩いた感じだった。
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大山街道 日本橋から渋谷まで

2015-01-24 17:18:27 | 大山街道を歩く
平成27年1月17日(土) 私は歩くことを趣味にしているので、そんなに歩くことを苦にしていない。しかし、主人は自営業なので、日柄、家にいるので、足腰が弱くなるのではないかと心配している。

というわけで、今回、旅行者で主催している「大山街道を歩く」というツアーに参加してみた。第一回は日本橋から渋谷まで、約13キロの道のりを歩く工程である。

一人4000円で、昼食は出ない。道案内とその場所場所で残る逸話のガイド料である。高いか安いかはその人それぞれの感覚であるが、私たちは、少し高いかなと考えて、次からは、自分たちで街道を探して歩こうという意見に達した。だから、2回目以降は、自前である。

では、今回のツアーを残しておこう。

東京駅日本橋口に10時集合。それが、お上りさんの私達には、日本橋口が分からない。9時45分には東京駅には着いたんだけど、迷ってしまって、催促の電話が添乗員さんからある始末。結局15分近く遅刻して、一番最後に集合した次第。頭を下げつつ、街道歩きツアーが出発した。

東京駅のビルの谷間を歩くと、「北町奉行所跡」があった。
 

次に迷子探しの石碑
  

渋沢栄一の銅像
 

日本橋に到着。この文字は徳川慶喜の字だそうだ。10男12女をもうけ、趣味人として晩年は生き、80歳近くまで生きたんだっけ。道路の真ん中にあるものは、道路標示盤?で、ここからすべての街道は始まっているそうである。距離もここからの表示だそうだ。
    

街道を歩いていると、「平和の鐘」なるものがあった。これは1600年、大分沖にオランダ船が難破して、船長のヤン・ヨーセンという人が助けられた。家康がこの人を気に入り、この地に住まわせたという。何百年かの記念でこの碑ができたという。
  

歌川広重の旧居が途中あった。ビルが並ぶところにあって、なんの趣もなかった。
一代目の広重は火消しの家に生まれたが、歌川の家に入門し、絵師を学ぶ。養女が跡を継いで、結婚相手が2代目、3代目の広重を名乗っているという。
 


新橋に到着。ここで昼食を食べる。博多ラーメンを食べ、喫茶店でコーヒーを飲んだら、5千円近くかかってしまった。
   

烏森神社
  

虎ノ門へ。ここでは文部科学省の敷地に入り、江戸城の外堀の塀が残っているのを見学した。どの藩が持ってきた石かが、石にマークがしてあるのでわかる。
    

日枝神社

赤坂見附に到着。

豊川稲荷。南町奉行所の大岡越前の分霊がしてあった。
  

青山の表参道から渋谷駅へ行く。
高橋是清の銅像もあった。2.26事件で殺されるこの人は、ローマ字で有名なヘボンさんのところで勉強し、アメリカへ留学したが、(その時は勝海舟も一緒)騙されて、すっからかんで奴隷として売られたそうだ。働かされて、ほうほうの体で、日本に帰ってきた人らしい。
青山の地名の由来は、鷹狩りに来た家康が家来の青山忠成に「馬で走れるだけ走ってみろ。そこをお前の領地とする。」と言われて、必死に走って、馬は疲労困憊で亡くなり、そこを馬込というのだそうだが、青山忠成は10万坪の領地を手に入れたという。青山家の菩提寺は竹のお寺と言われているそうだ。
         

善光寺の分寺があった。そこには高野長英の碑があった。長崎のシーボルトの鳴滝塾にで学び、稀に見る天才と言われていたそうだ。蛮社の獄で牢に入れられても、罪人から人望を集め、放火をさせて、その隙に逃げ、顔を硝酸で焼いて、町医者としてこの青山あたりで生きていたという。結局捕らえられて、十手で殴られ、亡くなったという。
   

渋谷駅で解散となった。最後に次回の人数が集まらないので、中止になる可能性が高いと言われ、申し込んで欲しいと言われた。申し訳ない。

とまれ、街道を歩くのは、ホント楽しい。いろいろなことに出会えた。解説があるとやっぱりいいのかな~




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