wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

町田にもあるんだな史跡が・・・(井出の沢古戦場と新田井戸おまけに自由民権運動資料館)

2013-07-21 15:41:27 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成25年7月13日(土) 
最近、仕事が忙しくて、体を動かしていないし、また、暑い日が続いているから家から出たくないと、引きこもりがちになってしまう。

そこで、仕事が一段落着いたのを機に、かねてから、この辺(町田辺り)にも古戦場(井出の沢古戦場)があったと前回のウォーキング(分倍河原辺り)で買った本「武蔵府中と鎌倉街道」に書いてあって、興味を持っていたので、行ってみた。

行ってみて、間違った解釈をしていたんだなと気がついたことがあった。

それは、私はてっきり、新田義貞が高崎から南下して鎌倉を攻める前に、七国山で井戸(新田井戸)を掘って、馬や兵士を休ませ、この井出の沢古戦場で戦ってから、鎌倉を攻め滅ぼした(1333年)と思っていたが、古戦場の説明がきには、鎌倉を滅ぼした二年後の戦い(1335年)で、足利直義と一旦は滅ぼされ信濃に逃げていた北条高時の子時行が鎌倉をもう一度奪回しようとしての戦いであったと、書いてあった。
新田義貞はこの井戸で兵士らを休ませ、そのまま鎌倉まで突入したらしいのである。
    


井出の沢古戦場を中心に探索してみると、この辺りは、七国山(ななくにやま)という山があり、下野の方から鎌倉に通じる街道(上の道)が通っている。その一番高いところに新田井戸があった。
井戸の脇から藪の中に入り、七国山の標高点も確認してきた。でも木が覆っていて、周りの景色は見えづらかった。
     

物資の流通だけでなく、思想もいち早く発展した地域であるらしい。
大きな建物の「自由民権運動資料館」なるものがあった。
自由民権運動に貢献した石阪昌孝氏がこの七国山あたりの出身だそうで、そこかしこに石坂姓のお店や表式があった。
薬師池公園の中には、自由民権の碑があり、鐘が釣り下がっていた。薬師池公園は北条氏照の領地であったと書いてあった。
      


帰りは、菅原神社(井出の沢古戦場碑はこの境内にある)からに町田駅まで鎌倉街道に沿って歩いてきた。
町田駅の久美堂近くの広場に何やら説明看板と碑があり、よく見ると何と、「絹の道」とある。小さい時からこの町田に親しんできたが、こんな看板があるのに気がついたのは初めてである。ということは、この間、八王子の遣水の「絹の道資料館」へ行った時に見た「絹の道」とこの町田の「絹の道」がつながって、鎌倉街道と交わって、一方は横浜方面へ、一方は鎌倉へと続いていく。この町田はホント昔から物資の流通や人々が行き交う重要な要所だったと伺えた。
   


今回も新しい発見があり、楽しいウォーキングとなった。
こうやってできることに感謝をしながら、筆をおく。
                     19029歩(約11キロ)
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大江広元ゆかりの城、片倉城 と 「絹の道」資料館

2013-07-14 10:26:25 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
 平成25年6月22日(土) 久しぶりの晴天で、どこかへ行きたいなと思い、考えた結果、大江広元ゆかりの城、片倉城にした。

 横浜線の駅名になっていて、以前から気になっていた城だ。1年前くらい前に行った「頼朝の墓」の近くに、この大江広元の墓もあり、その時に、千ちゃんから「大江広元のゆかりのある城が片倉にある」ということを聞いていたので、いつか機会があったらと思っていた。

 また、その行く途中の八王子の「鑓水」というところに、「絹の道資料館」という看板があり、蚕のことも興味があるので、帰りに寄ってみた。
 そこでは、何と以前職場で一緒に働いていた人の先祖さんが展示してあって、驚いた。全くもって奇遇である。


では、まずは、片倉城から行ってみよう。

朝早く出かけたにもかかわらず、10台くらい入る駐車場はもういっぱい状態で、「何でこんな相模原の外れの片倉城にたくさん人が来るのかしら?」と疑問に思いながら、やっとこさ最後の1台に滑り込んで、公園内に入る。

市内の人の作品の彫塑が並ぶ中、城の本丸跡に続く坂道を上る。そこで目にしたのが、直径15センチはあるだろうか、大きな望遠レンズをつけ、シャッターレンズを狙っている、カメラ小僧?の人たちが、狭い山道の片側にびっしりと並んでいる光景。鷹か鷲かはっきりしないがどうも猛禽類の巣立ちを狙っているらしい。だから駐車場も混んでいたんだと納得した。

片倉城は大江広元の子孫である長井氏が室町時代に築城したらしい。また、北条氏照は三増合戦に行くときに、ここに立ち寄って、部隊を整えたらしい。

城自体はないが、本丸・二の丸が芝生が敷き詰められた公園になっていた。
本丸と二の丸の間に、橋がかかっていて、その下は空堀になっていた。
人間は考える葦である」とパスカルが言ったが、その葦が生えていた。
            


片倉城の帰りに、絹の道資料館へ立ち寄る。
この辺の地域(鑓水地区)は昔から養蚕で生計を立てていたらしい。
絹の道は、その商品を、横浜に運ぶために、鉄道が発達する明治の中頃まで、実際に生糸商人たちが通った道であるらしい。
     

館内には養蚕の歴史や工程・尽力した人たちが細かに説明してあった。
写真を撮ってきたので、貼り付けることにする。
                     


津久井の年表も展示していたので、貼り付けることにする。
      


   


明治41年に横浜線が開通したことも分かり、それまではこの「絹の道」を使って、生糸を運んでいた。貿易の不均等を分かっていても、それを受け入れざる負えない開港間際の日本、豪商と呼ばれる人たちが土地を求めて海を埋め立てようした話もあり、様々なことが立ち寄ったことでわかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする