wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

「生類憐みの令」がこんなところで確認できた。

2012-01-29 13:08:07 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
最近近くの博物館に行くことがあり、そこで昔のものをコレクターしている方の特別展示がありました。そこでこんなものを発見しました。

  


何と時代は江戸の元禄時代、将軍綱吉は、お犬様と呼ばれ、犬を後生大事にする御触れを出し、一般庶民にもそれを強要した。俗に言う「生類憐みの令」である。

この文献をよく読むと、下々のこんな市井でも犬が迷子になったからそれを探したら、なんと狼に食いちぎられていたとある。それをお上に報告するために作られた文章(提出書類)であるらしい。

全くもって面白い。犬の飼い主や五人組の各々の名前が書きつられ、母印まで押している。人より犬を大事にする時代、江戸時代の珍事を立証する文献に出会って、妙に感心してしまった。

それに、もう一つ江戸時代の文献があった。それは、小田原北条氏の家臣のもので、今の津久井の地の知行高の書き上げが記載してある文献があった。
かってこの津久井には津久井衆といって、北条氏の家来らがいたので、こうした写しが多く残されているということである。

  


昔はいちいち、こうやって手書きで、書き記していたんですね。当たり前のことですが・・・。
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石橋山の戦い (負けても世の中の動きは源氏へ)

2012-01-08 12:57:46 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成24年1月4日(水)今年初めての歴史探訪は、石橋山にした。
場所は小田原の先、真鶴半島の手前の海沿いにある。
  


私は千ちゃんと頼朝が流された伊豆の蛭が小島に行き、その時に北条の館にも行った。千ちゃんが貸してくれている本「曾我兄弟の密命」でもそのところが書かれてあり、流されている時の頼朝は、平家の全盛の時代で、当たり前だが、周りの人たちの顔色を伺い、立場が弱い存在であった。周りに気を遣いながら暮らすも、平家方である伊東祐親に子ども(祐親の四女八重姫との子ども千鶴・祐親の孫でもある)を殺され、あわや自分の命さえも殺されかけて、北条時政の館に逃げ込んで命拾いをしたという事件もあり、源氏の嫡男とはいえほんとかわいそうなくらいだったと言える。

そんな頼朝が、時流にのるとはいえ、伊豆のあんな田舎の小さな離れ小島から、全国を治める武将にと変わっていくのは、やはり興味がわく。様々なラッキーが積み重なったり、運の強さの賜であるだろうが、そこには運命という2文字が頭に浮かんでくる。

石橋山合戦はそんな頼朝が、京都の方のゴタゴタから平氏追討の命旨を受けて、時流が源氏方に傾きかけていると判断して、出立し戦った、最初の場である

調べてみると、1180年8月17日、平氏追討の命旨を受けて、山木兼隆(伊豆の目代・平氏側・北条政子が結婚させられそうになる)を三嶋大社の大祭で討つ。
8月24日、石橋山で大庭影親と対戦。
      

この時に一番手で戦いに臨んだのが、佐奈田氏であり、この石橋山の合戦地に佐奈田神社が建立してある。

この時頼朝が頼りにするのは、横須賀の衣笠に本拠地がある三浦一族だった。応援には駆けつけたが、大雨の影響か酒匂川の水かさが多くて、渡ることができず、参戦できなかった。この時、頼朝は大庭影親軍3000騎、伊東祐親軍に、わずか300騎で挟まれていた。夜襲を受け、逃れるために、土肥の椙山(すぎやま)に隠れる
    

この地図で見る限り、挟まれていて、逃げ通すことが無理に感じるが、やはりそれが天の助けなのか、運が強いのかちゃんとこの戦場から逃げることができた。

この時平氏としては、何が何でも頼朝の首が取りたくて必死で山狩りをするのだが、見つけられなかった。有名な逸話が、大庭軍の中にいた梶原景時は「この山にはいない」と言って、頼朝が隠れているのを知りつつ、見逃がしてあげたということである。

土肥実平(湯河原・真鶴を本拠地にする)の導きにより、真鶴の浜から房総半島の安房の国へ海路から逃げ果せることができた。
     

真鶴のこの辺から舟で安房の国へ行ったということであるが、三浦半島は何とかおぼろげに見えたが、房総半島は全く分からない。向こうとの連絡手段がない当時、きっと不安な面持ちで出立したのであろう。

頼朝は、何と10月6日には鎌倉入りを果たしたとされる。石橋山の合戦からわずか42日間後のことである。関東一の大豪族で、安房の国の大将であり、源義朝の義父にあたる上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)を味方に付けたことがその最大の要因だったという。
でも一番の要因は世の中の動きが彼を後押ししたのであろう。

話は変わるが、頼朝のことを調べていたら、吉野で義経と別れた静御前は鎌倉に連れていかれ、鶴岡八幡宮の若宮大路で、頼朝や政子の前で舞を踊るその鼓を打っていたのが、何と曾我兄弟の仇であり、今は頼朝の側近になっている工藤祐経(すけつね)である。
最初の方で記述した「曾我兄弟の密命」で、従兄弟同志でありながら伊東祐親(石橋山で頼朝を挟んだ武将・石橋山合戦後伊豆に逃げ帰り、かって自分の手下であったが今は頼朝方になった武士に捕えられ殺される。)を、手下を使って討とうとしたが、一緒に鷹狩りに来ていたその息子、祐通(すけみち・曾我兄弟の父)を討ってしまった人物なのである。この兄弟は祐経を最初から仇としているのではなく、祐親が鎌倉のその辺に葬られているとか、いろいろな因果関係で最終的には頼朝憎しになっていく。

私が驚いたのは、こんなところに今読んでいる本の登場人物が出てきたことであり、やっぱり歴史はつながっているんだなーと感慨に慕ったところである。

コメント (6)
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