平成28年5月7日(土)、ゴールデンウィークも終盤のこの日に、相模原の清新から相原までのウォーキングを行った。
千ちゃんが、相原の森下に伝わる「外の御前の白蛇の話」の紙芝居を行うにあったって、この伝説のいわれを調べているうちに、この辺りを散策しようと、こういう運びとなった。
まずは、キーポイントである「外の御前」であるが、今はない相原薬師堂に掲げてあったのが薬師如来でそれのことを外の御前という。その社殿が、明治9年頃に、新田鎮守として祀ってある氷川神社に移された。それを白蛇が運んだと伝説として残していたようだ。
げんに、氷川神社の立て看板には、「外の御前」が移されたと書いてあった。
相原や橋本は、平安時代から拓けていたところで、その時代の書物に「和名類聚抄」にも集落が記載されているらしい。また、平安時代末には、横山党の武士団が居住し、それぞれ、粟飯原(相原)、小山、田名、矢部氏を名乗った。それがそのまま地名として定着したということだ。最後に行った、「相原八幡宮」には、粟飯原氏の屋敷があったところでこの地は「相原1番地」であるとあった。
ただ、その後起こる「和田合戦」(1213年)において、一族挙げて和田義盛に加勢し、北条義時の軍勢に破れ滅亡した。前のブログで紹介したように、横山党と和田義盛とは姻戚関係である。
戦国時代はこの相模原は、後北条の支配下になり、江戸時代は内藤、青山、大岡などの旗本領や徳川の直轄地となる。これも古民家園に行って聞いた話とリンクする。
ついでに、相模の名の由来も、千ちゃんが調べてくれた。
江戸時代、国学者 賀茂真淵は、「身狭(むさ)」が「身狭上」「身狭下」に分かれ、前者が「さがみ」、後者が「むさし」という説を唱えていて、古事記(715年)に「相模」の名が登場しているらしい。
では、行ったところを、載せていこう。
まずは、氷川神社から北に歩き、横浜線京王線をくぐり、東橋本の「原清兵衛さんの長屋門」「蓮乗院」へ。
蓮乗院は清兵衛新田の開発の際、江川代官所の役人の宿舎になったところだそうだ。
橋本地区に入り、「香福寺」「徳本念仏塔」から「橋本宿」に入り、「瑞光寺」そして、武蔵と相模を分ける「両国橋」まで。途中には、牛久保家の長屋門や旧家の「相澤家」「柚木家」等が立派な門を見せていた。相模原銘菓を売っている「高尾屋本店」もあった。
八王子を通り、大山を目指す人たちが、境川を渡る(両国橋)とこの橋本宿に入る。
今はほとんど面影はないが、そう言われてみてみると、道路の両側には、大きな屋敷やどんと構えた門が立っている。旧家が立ち並んでいる感じがする。
香福寺は鎌倉の建長寺の流れを汲むお寺で、お堂のガラス戸には後北条の家紋が描かれてあった。ということは、北条家の氏照あたりがこの辺に来ていたのかな。
瑞光寺では、明治6年に作られた旭小の前身といえる「本然学舎」の記念碑があった。最初の生徒は12、3人の名が刻まれていて、その中には女の人2名が含まれていた。
その縁者らが作っていて、相澤さんや柚木さんの名前があった。
境川沿いを歩いて、相原方面へ
当麻田小があり、この辺りは原当麻の飛び地である。
「相原八幡宮」「正泉寺」「華蔵院」へ行って、今日のウォーキングは終了である。久しぶりにたくさん歩いて、二人ともとっても疲れ、帰りは電車とバスにした。
でも、こうやって歩けることに、そして新しいことを知ることに、幸せを感じるとともに、感謝に耐えない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2a/45/976d42d643a9799e76b1a4308333ac98_s.jpg)
千ちゃんが、相原の森下に伝わる「外の御前の白蛇の話」の紙芝居を行うにあったって、この伝説のいわれを調べているうちに、この辺りを散策しようと、こういう運びとなった。
まずは、キーポイントである「外の御前」であるが、今はない相原薬師堂に掲げてあったのが薬師如来でそれのことを外の御前という。その社殿が、明治9年頃に、新田鎮守として祀ってある氷川神社に移された。それを白蛇が運んだと伝説として残していたようだ。
げんに、氷川神社の立て看板には、「外の御前」が移されたと書いてあった。
相原や橋本は、平安時代から拓けていたところで、その時代の書物に「和名類聚抄」にも集落が記載されているらしい。また、平安時代末には、横山党の武士団が居住し、それぞれ、粟飯原(相原)、小山、田名、矢部氏を名乗った。それがそのまま地名として定着したということだ。最後に行った、「相原八幡宮」には、粟飯原氏の屋敷があったところでこの地は「相原1番地」であるとあった。
ただ、その後起こる「和田合戦」(1213年)において、一族挙げて和田義盛に加勢し、北条義時の軍勢に破れ滅亡した。前のブログで紹介したように、横山党と和田義盛とは姻戚関係である。
戦国時代はこの相模原は、後北条の支配下になり、江戸時代は内藤、青山、大岡などの旗本領や徳川の直轄地となる。これも古民家園に行って聞いた話とリンクする。
ついでに、相模の名の由来も、千ちゃんが調べてくれた。
江戸時代、国学者 賀茂真淵は、「身狭(むさ)」が「身狭上」「身狭下」に分かれ、前者が「さがみ」、後者が「むさし」という説を唱えていて、古事記(715年)に「相模」の名が登場しているらしい。
では、行ったところを、載せていこう。
まずは、氷川神社から北に歩き、横浜線京王線をくぐり、東橋本の「原清兵衛さんの長屋門」「蓮乗院」へ。
蓮乗院は清兵衛新田の開発の際、江川代官所の役人の宿舎になったところだそうだ。
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橋本地区に入り、「香福寺」「徳本念仏塔」から「橋本宿」に入り、「瑞光寺」そして、武蔵と相模を分ける「両国橋」まで。途中には、牛久保家の長屋門や旧家の「相澤家」「柚木家」等が立派な門を見せていた。相模原銘菓を売っている「高尾屋本店」もあった。
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八王子を通り、大山を目指す人たちが、境川を渡る(両国橋)とこの橋本宿に入る。
今はほとんど面影はないが、そう言われてみてみると、道路の両側には、大きな屋敷やどんと構えた門が立っている。旧家が立ち並んでいる感じがする。
香福寺は鎌倉の建長寺の流れを汲むお寺で、お堂のガラス戸には後北条の家紋が描かれてあった。ということは、北条家の氏照あたりがこの辺に来ていたのかな。
瑞光寺では、明治6年に作られた旭小の前身といえる「本然学舎」の記念碑があった。最初の生徒は12、3人の名が刻まれていて、その中には女の人2名が含まれていた。
その縁者らが作っていて、相澤さんや柚木さんの名前があった。
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境川沿いを歩いて、相原方面へ
当麻田小があり、この辺りは原当麻の飛び地である。
「相原八幡宮」「正泉寺」「華蔵院」へ行って、今日のウォーキングは終了である。久しぶりにたくさん歩いて、二人ともとっても疲れ、帰りは電車とバスにした。
でも、こうやって歩けることに、そして新しいことを知ることに、幸せを感じるとともに、感謝に耐えない。