wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

甲州街道は超キツイ!  それでも中高年は恐るべし・・・。

2012-09-23 10:34:47 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成24年9月22日(土) 秋分の日 歩くには最高の日和。
曇りがちだが雨は降らず、気温もそんなに高くなく。

広報さがみはらに「甲州夢街道ウオーク2012」の募集があり、甲州街道といえば、小仏峠があり、以前何かで読んだ本に、北条氏照は武田信玄が小仏峠を通って攻めてくるのを監視するために、今まで住んでいた滝山城から八王子城を建てて、移り住んだとあった。
そんなことを気にかけていたので、山梨の方から幹線道路であるこの甲州街道に興味を持っていて、多分この謳い文句だと小仏峠は行くな~と考えて、千ちゃんと二人分申し込んだ。

果たしてその通りで、相模湖から国道20号線沿いに歩き、小仏峠まで上り、城山頂上まで行って、そこからひたすら下り、相模湖まで戻る、約15キロのコースであった。

  


また、ウオーキングとは程遠い、どちらかというと、登山ともいえるきついコースで、簡単に考えていた私たちは、ギャップに戸惑いながらも、杖を使い、掛け声を掛け合い、体を駆使し、一生懸命完歩をしたという感じであった。

でも、その中で、恐るべしは参加者たちの健脚さである。参加者のほとんどは私たちより10~20才は上であろうと思われる人たちで、このキツイ山道をさっささっさと軽快に歩を進めて、どんどんどんどん私たちから離れていく。
途中私たちに「霜柱草」なるものを教えてくれた女3人男1人のグループの人たちなど、
    


あの険しい上り坂を登りながらも、息ひとつ乱れずに、快活に楽しく話しながら歩いていた。あの逞しさ、力強さは何なのか。結局私たちが最終地点の相模湖についたのは制限時間(午後3時)を1時間も過ぎてしまって(早く着いた人たちはもうとっくに帰路についていた)、参加者は200人近くいる中で、最後から2組目の到着となってしまった。
中高年恐るべしと感じた。

それでは、順を追って書いていこう。

まず、相模湖の駅の隣にある桂北公民館に9時集合とある。相模湖に行くには、ここからは少し遠回りをしなければいけない。

淵野辺から八王子に横浜線で、次に八王子から高尾に中央線、高尾から相模湖駅まで私鉄で3回も乗り換えて行く。高尾駅では待っているホームを間違えて電車が一本いってしまった。

まあ、出発時間は10時なので悠々間に合った。

受付を済ませ、そこでもらった青いバンダナを目立つところにつけて、出発式や準備体操をして、いざ10時に出発であった。

公民館からまずは山寺の慈眼寺へ、昔はここには与瀬という宿場があったそうだ。
またここまでがすごい急坂で、最初から驚いて、ここからもうみんなから差が出始めていた。

山の中の道を右手に相模湖を見ながら、上っていく。
途中から国道20号線に入り、小原本陣や照手姫の伝説の看板を見ながら歩く。
本陣宿では殿様が入るトイレは畳が敷かれていて、そういえば昔見た漫画の「おぼっちゃまくん」もそうなっていた。

照手姫が生まれ育ったのは美女谷と呼ばれていて、うっそうと木が立ち並び、谷間には川が流れていた。

        


上りのきつい山道を上って、小仏峠に到着。なるほど、信玄はここを通って、相模の国に攻め入ってきたのだな~。そして私たちと同じようにここで休憩したのだろう。

 


そこからさらに上って、城山の頂上に到着。遠くを見ると、八王子の市街地がよーく見えた。そこできのこ汁とおでんを食べる。疲れた体にこのきのこ汁の美味しいこと。五臓六腑に染み渡るとはこういうことなのであろう。

    


ここからは下山だと甘く考えていたのが大変な誤算であった。ホントの大変さはこの下りの方で、下り道の方が膝や腿に負担がかかって、歩きづらいことがよーく分かった。それに前日に雨が降ったのか少しぬかるんでいたりもした。

ただ、ひたすら杖と自分の体を信じて東海自然歩道を下り歩き、弁天橋や相模湖大橋を渡って、相模湖公園に到着した。その時にはもう4時近くになっていた。役員の人たちだけが待っていて下さり、完歩証なる証明書を渡してくれた。

やっと歩き終えた体は、何故だかソフトクリームを欲していた。近くのコンビニで買い、食べ歩きながら相模湖駅まで戻る。

八王子駅前の大きな高層ビルの最上階にレストランがある。そこで夕飯を食べながらまた今回の歩きを振り返る。「そういえば小仏峠から八王子の市街地がよく見えた」なと言いながらも、どちらの方から見えたのかがいまいちわからない。「今度から方位磁石を持って方位を確認しよう」と考えた。

今回はたいへん疲れたウオーキングであったが、こうやって歩けることに感謝して、これからも歩き続けられることを祈って、筆を置く。

        万歩計では30583歩=18キロ歩いたことになる。




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味方が放した火を見て自刃(じじん)した白虎隊

2012-09-08 11:49:18 | 旅行記
平成24年8月31日(金)9月1日(土)と職場の仲間18人で会津若松方面へ旅行に行った。

バスで4時間はかかる長旅であったが、若い人の発想は豊かで、会津のことや白虎隊のことを知らないなら学習しようと考え、山P主演の「白虎隊」のDVDを借りてきて、それを見ながらの移動であった。

それによって、時間の長さを感じずに行けたし、なおかつ白虎隊や会津・幕末の歴史を十分に知ることができ、現地の見学がより豊かで興味深く、理解深いものにできたと誰もが感じた。ほんとこういう発想はさすがだなーと感嘆した。

余談だが、今回は鶴ヶ城や白虎隊が自刃した飯盛山だけでなく、野口英世記念館も行く。そのことや長旅ということを見越して、運転手さんは三田佳子主演の「野口英世伝記」や「マリと子犬の物語」という山古志村の地震の時の実話をもとに作られたDVDも用意してくれていて、帰りのバスの中では、その2本を見ながら、しかも両方とも涙なしでは見られないような感動ものを見ながらの帰路であった。

それによって、今回の旅行は「感動3本立て バスの旅」と命名してもいいくらいである。

まず、朝7時30分集合して、いざ首都高を通り東北道を上って、福島県の会津到着。その間、夏の思い出等を各自話し、そして「白虎隊」のDVDを見ながら、約4時間をかけ行く。

一日目は「塔のへつり」と「大内宿」の観光である。

「へつり」というのは崖っぷちという意味合いで、絶壁の塔が乱立していた。
また、橋を渡ったところに神社があり、そこには坂上田村麻呂が東国を遠征するときにたてたとあった。
        


大内宿」は、山間にひっそりとたたずむ村で、下野(しもつけ)街道沿いにある。会津の殿様が参勤交代で実際に通ったところであり、米や生活物資が流通したところであり、戊辰戦争の時に白虎隊が戦ったところでもある。

そして何と、頼朝らに平家追討の令旨を発した以仁王(もちひとおう)が戦いに敗れこの大内宿に逃げてきたという伝説もあり、実際草鞋を脱いだという由緒ある家もあった。

この以仁王が令旨を出し、挙兵した動機を調べてみると、
源氏の中で唯一政治の中心にいる源頼政の嫡男仲綱の愛馬「木(こ)の下」を平清盛の三男宗盛が欲しがり、素直に差し出さないことに腹を立てた宗盛がその馬に仲綱と烙印を押して「仲綱・仲綱」と中傷した。それが頼政・仲綱の反感を招いた。
同時に後白河上皇の第3皇子にもかかわらず、まだ親王にもならせてもらえない以仁王も平家の横暴な振る舞いに怒りを覚えていた。
そんな二人の感情が、世の中の反平家の機運と相まって令旨をだし、各地方の反平家の武将たちに送られたという。ちなみに、伊豆の蛭が小島に流されていた頼朝に令旨を渡したのは、平治の乱の時に熊野に逃れ隠れ住んでいた源行家(以仁王と親しい関係にあった)が山伏姿で北条の館を訪ねたとある。
多分大河ドラマでもこのことをやるのではないかな~楽しみだ。

また、この会津藩の初代藩主が、2代将軍の徳川秀忠が側室に産ませて、高遠に養子に出していた保科正之であり、参勤交代の時にこの街道を使い、この本陣で休憩をとったということである。
         


「大川荘」という旅館に泊まり、露天風呂も満喫した。

2日目は、いよいよ「会津若松城・鶴ヶ城」と白虎隊で有名な「飯盛山」、そして「野口英世記念館」である。

鶴ヶ城は、戊辰戦争で、一ヶ月の籠城戦を戦い抜いたが、荒れ果て、明治になって取り壊されている。昭和40年ころから再建工事がされ、現在に至る。
       


飯盛山の白虎隊」のことは、ある程度の知識がDVDによって得られたが、説明してくださる方の話が上手で、改めて再認識できた。

DVDでは知らなかったことが、それは、必死になって敵から逃れてきた白虎隊たちは飯盛山からお城を見たときに、その周りが火の海になっていた。もうお城は落ちると勘違いして自刃してしまったということ。何と、その火は味方の武家屋敷からのもので、敵を城に少しでも近寄らせないために自らの家に火を放して女子供たちは自決したという。こんな悲しいことが。あまりにも年かさが入ってなくて、そういうことを知らなかったのだ。

また、自刃した人の中に息を吹き返した人がいて、後世にこの話を引き継いで、死んだら仲間が眠るこの飯盛山に爪と髪の毛を埋めて欲しいと遺言をして亡くなったという話には心うたれた。

白虎隊の中には、この飯盛山で道に迷い、自分の飼っていた犬、名前を「くま」というが助けてられたという逸話が本当のことだったと確認できた。

来年の大河ドラマが、この会津を舞台にして、新島八重が主役で、白虎隊とも大きな関わりがあることも知った。この会津には、女の人たちが鉄砲を打ったり、最戦前で戦っている様子が残っていた。その中のひとりがこの新島八重である。楽しみだ。
               


最後に「野口英世
実際の囲炉裏は小さくて、囲炉裏の淵は斜めに掘ってあった。
19歳の時に上京するときにその決意を柱に刻み込んだものも残っていた。
母親の「シカ」さんがやっと覚えた文字で書いた手紙は、息子に帰ってきて欲しいと切々に訴えていることがその行間から察せられ、胸を打たれた。
      


福島は徳川直轄の城下町であり、そんじょそこらの土地とは違うんだという、武士のプライドのようなものが感じられた。

また行ってみたいところだ。
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