wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

大山街道 日本橋から渋谷まで

2015-01-24 17:18:27 | 大山街道を歩く
平成27年1月17日(土) 私は歩くことを趣味にしているので、そんなに歩くことを苦にしていない。しかし、主人は自営業なので、日柄、家にいるので、足腰が弱くなるのではないかと心配している。

というわけで、今回、旅行者で主催している「大山街道を歩く」というツアーに参加してみた。第一回は日本橋から渋谷まで、約13キロの道のりを歩く工程である。

一人4000円で、昼食は出ない。道案内とその場所場所で残る逸話のガイド料である。高いか安いかはその人それぞれの感覚であるが、私たちは、少し高いかなと考えて、次からは、自分たちで街道を探して歩こうという意見に達した。だから、2回目以降は、自前である。

では、今回のツアーを残しておこう。

東京駅日本橋口に10時集合。それが、お上りさんの私達には、日本橋口が分からない。9時45分には東京駅には着いたんだけど、迷ってしまって、催促の電話が添乗員さんからある始末。結局15分近く遅刻して、一番最後に集合した次第。頭を下げつつ、街道歩きツアーが出発した。

東京駅のビルの谷間を歩くと、「北町奉行所跡」があった。
 

次に迷子探しの石碑
  

渋沢栄一の銅像
 

日本橋に到着。この文字は徳川慶喜の字だそうだ。10男12女をもうけ、趣味人として晩年は生き、80歳近くまで生きたんだっけ。道路の真ん中にあるものは、道路標示盤?で、ここからすべての街道は始まっているそうである。距離もここからの表示だそうだ。
    

街道を歩いていると、「平和の鐘」なるものがあった。これは1600年、大分沖にオランダ船が難破して、船長のヤン・ヨーセンという人が助けられた。家康がこの人を気に入り、この地に住まわせたという。何百年かの記念でこの碑ができたという。
  

歌川広重の旧居が途中あった。ビルが並ぶところにあって、なんの趣もなかった。
一代目の広重は火消しの家に生まれたが、歌川の家に入門し、絵師を学ぶ。養女が跡を継いで、結婚相手が2代目、3代目の広重を名乗っているという。
 


新橋に到着。ここで昼食を食べる。博多ラーメンを食べ、喫茶店でコーヒーを飲んだら、5千円近くかかってしまった。
   

烏森神社
  

虎ノ門へ。ここでは文部科学省の敷地に入り、江戸城の外堀の塀が残っているのを見学した。どの藩が持ってきた石かが、石にマークがしてあるのでわかる。
    

日枝神社

赤坂見附に到着。

豊川稲荷。南町奉行所の大岡越前の分霊がしてあった。
  

青山の表参道から渋谷駅へ行く。
高橋是清の銅像もあった。2.26事件で殺されるこの人は、ローマ字で有名なヘボンさんのところで勉強し、アメリカへ留学したが、(その時は勝海舟も一緒)騙されて、すっからかんで奴隷として売られたそうだ。働かされて、ほうほうの体で、日本に帰ってきた人らしい。
青山の地名の由来は、鷹狩りに来た家康が家来の青山忠成に「馬で走れるだけ走ってみろ。そこをお前の領地とする。」と言われて、必死に走って、馬は疲労困憊で亡くなり、そこを馬込というのだそうだが、青山忠成は10万坪の領地を手に入れたという。青山家の菩提寺は竹のお寺と言われているそうだ。
         

善光寺の分寺があった。そこには高野長英の碑があった。長崎のシーボルトの鳴滝塾にで学び、稀に見る天才と言われていたそうだ。蛮社の獄で牢に入れられても、罪人から人望を集め、放火をさせて、その隙に逃げ、顔を硝酸で焼いて、町医者としてこの青山あたりで生きていたという。結局捕らえられて、十手で殴られ、亡くなったという。
   

渋谷駅で解散となった。最後に次回の人数が集まらないので、中止になる可能性が高いと言われ、申し込んで欲しいと言われた。申し訳ない。

とまれ、街道を歩くのは、ホント楽しい。いろいろなことに出会えた。解説があるとやっぱりいいのかな~




コメント (1)
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