wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

八王子、そこは昔、横山党の根拠地だった。

2017-10-01 17:01:40 | 甲州街道
平成29年9月24日(日)、ウォーキング日和のこの日、久しぶりに千ちゃんと甲州街道の八王子から高尾駅までのウォーキングを行った。
平成26年12月に皇居の半蔵門から甲州街道のウォーキングを始め、「小原宿までは歩きたいね」と言っていた。
高尾駅から小仏峠を通り小原宿までは、3か月前にツアーで行っているので、今回、八王子から高尾駅まで歩いたので、一応目的は達成した勘定だ。

では、八王子のことを書こう。
今回の八王子では、千ちゃんがとても詳しくそして、興味深く調べてくれて、面白いウォーキングになった。
八王子には、「八幡八雲神社」がある。この辺りは、もともと、「多摩の横山」と万葉集に謳われているところである。平安時代の924年小野篁(おののたかむら)の7代後の小野隆泰(おののたかやす)が武蔵野守として、赴任した時に、石清水八幡宮より、勧請(かんじょう)して、建立した神社である。

隆泰の子どもであり、苗字を横山に改めた横山氏の始祖である「横山義孝」は、この多摩の横山に定住して、横山党の武士団を形成していたとされる。横山党は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵多摩郡(八王子)横山荘を中心として武蔵野国から相模国北部に割拠した武士団であり、その横山党諸氏として、海老名、矢部、相原、淵辺、田名、小山、愛甲などがあり、それはほとんど地名として残っているのである。私たちが住んでいるこの場所らは、横山党の武士団がいたところであり、だから相模原市には、横山という地名も残っていることもうなずける。

また、義孝の孫である横山経孝(つねたか)は、陸奥に赴任し、前九年の役後三年の役で活躍したらしい。
その経孝の子どもである横山時重は、保元の乱や平治の乱で活躍し、娘を和田義盛に嫁がせている。だから、和田合戦の時は、横山党は和田方に味方し、そして敗戦してしまった。

いろいろなブログを見ていたら、こんなのが書いてあった。

「和田義盛とともに和田の乱を戦った横山党は時重の嫡男時廣の子、重兼の横山宗家並びに上に記した人々を含む一族で、和田氏とともに戦い利あらず敗れ去り、いわば族滅の状態となった。鎌倉幕府は横山の名を残すことだけは許したようで、戦死した重兼に養子を取り(重時)後を継がせた。ただ一族は地方へ散って雌伏する。重時の系は尾張で帰農するが、後に前田利家に仕え、加賀百万石の家老の家柄となる。またその流れの中には徳川家康に器量を買われて、旗本になった者もいたという。」

「和田合戦に際し、横山党は武蔵から大挙して駆けつけた。作家の永井路子氏は、戦死または自害した顔ぶれが和田氏より多いことを挙げ、「この事件はむしろ、横山と和田を中軸にした、反幕、反北条のクーデターというべきではないか」(総合女性史研究会編『日本女性の歴史』)と書いている。」

私の家の近く(相模原の亀が池八幡宮近く)には、「和田坂」が残っていて、和田義盛が娘の嫁ぎ先によく来ていたことを表している。弁当を食べる際、箸が無くて、その辺の榎木を使い、使い終わって挿しておいたら大榎になったという所も、その近くにある。

また、この八幡八雲神社の境内には「横山神社」もあった。横山氏居館のあったという碑も立っていた。
この横山神社は、1214年、大江広元によって、横山党の始祖である横山義孝の魂を鎮めるために建立した神社と書いてあった。
     

そして、鎌倉時代、頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党横山時弘は横山荘の所領を安堵された。
しかし、北条泰時、義時と対立した和田氏に味方した横山氏は(和田義盛の妻は、横山氏から貰っている)(和田合戦)敗れ、離散している。
合戦後、大江広元が、武蔵野国横山荘を与えられた。

次に、妙薬寺に行く。そこには、横山将監小野秀綱の供養塔がある。
 

次に、信松院(しんしょういん)(松姫尼が高遠城から逃げてきた所)に行く。
松姫は、武田信玄の息女、織田信長の嫡男、信忠と婚約していた。しかし、三方ヶ原の戦いで、織田家が徳川方へつくと、婚約を破棄され、高遠城の兄仁科盛信(信玄の三男)のもとに身を寄せた。その後、戦火を避けるために八王子にやってくる。武田が滅び、信忠より迎えの使者が訪ねてくるが、本能寺の変により信忠も亡くなり、松姫は、尼となり仏門に入る。武田氏旧臣からなる八王子同心や大久保長安(武田の家臣)の援助を受け、信松院を開基し、八王子に織物を広めるなど地域のために尽くした。
江戸時代、この大久保長安は、この辺りの代官を務め、この地の開発や甲州街道の警備に当たった。
八王子という地名は、北条氏照が城を築いた深沢山に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」を祭ったことから、付いた名であるという。八王子城も然りである。八王子城は江戸時代、甲州口から守るための軍事拠点としての役割もあった。
        

松姫は魅力的な人だったのだろう。一旦は婚約を破棄された信忠から迎えの使者が来るとはどういうことだろう。

八王子千人同心の碑があった。武田の家臣を中心に、八王子の警備に当てた。関ヶ原の合戦の頃は、千人に増え千人同心隊として、関ヶ原、大坂の陣などに従軍した。
       

高尾近くになったら、大正天皇陵があった。
 

そして、高尾駅に到着した。
高尾山薬王院有喜寺を開山したのは、744年聖武天皇の勅命により行基が薬師寺如来を祀るために開山したという。
高尾山は信仰の山として親しまれ、八王子城を守る場所として当時の権力者よって手厚く保護された山である。

今回は、千ちゃんのおかげで、とても面白いウォーキングになった。歴史はつながっているとは頭ではわかっているが、こうして実際に歩いて体験できるのは、ほんと面白い。
18150歩(約10キロ)くらい歩く。

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土方歳三の生家を行く

2017-08-01 09:15:11 | 甲州街道
平成29年7月30日(日)、小雨が降り続き、蒸し暑い中、甲州街道を歩いてきた。

前回、日野駅まで歩いたので、今回は、日野駅から八王子まで歩く。

何しろ、私たちもいい年で、それに、蒸し暑いのも身体にこたえて、歩いていると、足がだんだん重くなり、あまり無理をしてはいけないなということになり、八王子にあるらしい横山党の碑は、少しは探してはみたものの、見つからず、次回にすることにした。

だが、八王子銘菓、武田信玄の娘「松姫」の名前のお菓子は偶然に食べることはできた。どうも、家康は、この八王子辺りを、武田の家臣であった「大久保長安」に治めさせ、そこに住まわせたらしい。

では、今回の目玉である「土方歳三」にいこう。
多摩モノレール「万願寺」駅で下車。その近くに、生家はある。

日野の農家に生まれ、剣を志し、京都の警備を志願し、「新撰組」の副隊長になり、戊辰戦争から宇都宮合戦、会津戦争、北海道に渡り、五稜郭の戦いと、幕府軍のために多くを戦った武士「土方敏三」。その、生家を訪ねた。
だが、資料館は、第1、第3日曜日のみの開館で、残念ながら、入ることはできなかった。家の前には立て看板や銅像があり、少しは様子が分かった。一緒に戦った「名刀兼定」を見ることができなくて、ほんと残念。
     

近くに、石田寺があり、そこに墓があるというので、行く。
でも、五稜郭で亡くなっているので、亡骸は入っていないらしい。
   

途中、八坂神社があり、そこで、「天然理心流奉納額」が納められていると看板があった。天然理心流とは、近藤勇や沖田総司が習った武術である。
  

この辺りは、「土方さん」が多く、歩いていると大きな家の「土方さん」が並び、お墓もいくつもの「土方家の墓」があった。
迷いながらも、しばらく国道20号線に沿って歩く。
途中、おいしいお豆腐屋さん「三河屋」さんで休憩。ソフトクリームを食す。
目指すは、浅川にかかっている「大和田橋」。そこから八王子に入る。長らく道なりに歩く。
途中で昼食し、少し体を休ませる。
  

「竹の鼻公園」というところに「一里塚」があるというので行く。
そこでは、八王子出身の昔のお相撲さんの像があった。
     

横山町でしばらく散策するが、横山党の名残は何も見つけられず、八王子駅に到着。

甲州街道も、日本橋から八王子まで来て、前回に、ツアーで、高尾から小仏峠を上って、私たちの到着地点の相模湖小原宿まで行ったので、あと、八王子から高尾まで歩けば、本来の目的に達する。お互いいろいろ忙しいので、次回は9月中旬にした。
今回も、いろいろ知ることができた。こうやって歩けることに感謝して、筆をおこう。
22693歩(約13キロ)を歩いたことになる。


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甲州街道 高尾から小原

2017-07-01 05:22:40 | 甲州街道
平成29年6月25日(日) 梅雨真っただ中で、雨天も心配されたが、前日までの雨もやみ、気温もそんなに高くなく、ちょうど歩きやすい今回のウォーキングとなった。

日本橋から甲州街道を歩いてきて、日野宿まで前回は行った。普通の道はいいのだが、山道は、私たちだけでは、不安があるので、クラブツーリズムのツアーに参加し、ガイドさんの説明も聞きながら、歩いた。

JR高尾駅北口から出発。小仏峠を目指す。

途中、この辺りは城や砦が多く存在していたという。特に廿里(とどり)古戦場というのがあり、そこは武田の小山田氏と北条氏が滝山城を攻めたときに、戦ったところということである。

駒木野宿といっても、碑があるわけではなく、民家や畑の間の道だった。
馬頭観音ならぬ牛頭観音があった。
  

小仏関所があった。山の上の方だと不便なので、麓の方へ下ろしてきたということだ。
   

昼食では、「峰尾どうふ」というところの近くの公民館で、持参したおにぎりを食べる。ここのドーナツがとてもおいしかった。ケーシー高峰のサインが掲げてあった。去年来たらしい。
このあたりは「峰尾」さんが多い。ガイドさんいわく、戦国時代、栃木県にいた小山氏が戦いに負けて、ここに逃げてきて、見つからないように、名前を変えたということだ。「小山」の漢字を反対にし、山を峰に、小を尾にして、「峰尾」となった。こういうことって全国にたくさんあったんじゃないかなと思う。

バス停までは、舗装された道だったが、いよいよ山道に入る。
    

黙々と1時間くらい上り、目的の小仏峠に到着。八王子の街が見えた。明治天皇が見えたようで、碑があった。
照手姫伝説の看板も下ったところにあった。
     

久しぶりの山道で、とても疲れた。足もがくがく。上りより下りの方が辛かった。
21403歩、約10キロ、6時間くらい歩いたことになる。


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府中から日野宿へ

2017-05-21 09:32:09 | 甲州街道
平成29年5月20日(土)5月だというのに福島のほうは猛暑日を記録するなど、この辺も真夏日を記録して、夏を思わせる天候の中、久しぶりに「甲州街道」へのウォーキングへ行ってきた。

急に暑くなったので、体も慣れてない。二人とも「暑いね」「もうだいぶ歩いたね」「なかなか食べるところがないね」と寡黙な中にも、休むところを探しながら歩く。

そして、ふらふらしながらも、今回も、いろいろな新しい歴史的知識を知ることができた散策だった。

まず、一つ、京王線に乗っていて、久しぶりの友人に会う。「どっか座れるところはないか」と電車内を歩いている、急に手をつかまれて、「やだ~、こんなところで会うなんて。」と。
職場で倒れ、しばらく入院していた友人で、復帰のために、懸命にリハビリを頑張っている。旦那さんと6大学野球に応援に行くという。明るい笑顔で、近況を話していて、「あー元気になってよかった。どうしているか、心配していたところ」と、エールを送った。

調布で乗り換え、府中駅へ。「大國魂神社」の方から甲州街道沿いを歩き、「谷保天満宮」(やほてんまんぐう)へ。
菅原道真の三男が、福岡にお父さんが左遷した後に、この場所に館を構えたという。
また、甲州街道から下がっていたところに、この天満宮があったのは、昔は、多摩川沿いに甲州街道があったが、川の氾濫で、問題があったので、河岸段丘の上段の方へ甲州街道を江戸時代以降に造り替えたためだと、学芸員の方が話していた。
     

近くに「城山」(じょうやま)という、城跡があって、そこには今も「三田さん」が館を構えている。どうも、鎌倉時代の源氏の家来が、ここに城を作り、長年ここを治めているというが、資料が残っていないので、はっきりとしたことは分かっていないと、同じ学芸員さんが言っていた。
    

次に、ずーっと甲州街道を歩き、多摩川を渡って、「日野宿」へ。
そこには「日野宿本陣」があり、そこは佐藤彦五郎という人が、近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」があったところであり、のちの新選組局長近藤勇や副局長の土方歳三沖田総史井上源三郎たちが激しい稽古に励んだところです。
また、近くの石田村というところは、土方歳三の生まれたところでもあり、6番隊隊長の井上もここの出身であるという。
早くに両親を亡くした歳三は、この佐藤彦五郎という人を義兄として、いろいろ面倒を見てもらっていたという。
ここで稽古を積んでいた近藤たちは、幕府の要人を警護して、京都に行くという仕事をしてから、新選組の構成を考えたという。
     

「新撰組ふるさと歴史館」にも行った。佐藤道場や新選組の成り立ち、京都の池田屋事件のこと、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、五稜郭での戦いの後の隊員のこと等、やはり詳しく展示していた。

暑い暑いと言いながらも、こんないろいろなことを知ることができ、歴史的人物が生活していた町を体感することができ、うれしい限りである。今回も18500歩くらい歩いたな~、自分にお疲れ~
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近藤勇の銅像発見!

2017-02-12 08:30:36 | 甲州街道
平成29年2月11日(土)、日本海側や山陰地方では大雪が見舞われている中、幸いにも太平洋側のこの辺では、天気で日差しも感じられる。
そんな中、今回は、調布駅から甲州街道を出発した。

何か、歴史的な史跡はないかなと甲州街道を歩いていると、やっぱり、あるもんだな。一番最初に入った「西光寺」。
近藤勇が、この辺りの生まれで、武士に昇格して、甲府に行く途中に、この寺で休憩を取り、故郷に錦を飾ったという。自刃する時に書いた漢文が説明つきで、掲示してあった。
       
              歩いていると、そこかしこに蔵が残っており、この辺りの裕福さが伺い見れた。
「染屋不動尊」調布もそうだが、この辺りも布を染めていたらしい。阿弥陀如来像が有名らしい
  
 

府中の駅の近くに、「国府八幡宮」があった。大国魂神社の分院かな
 
              いよいよ府中に到着。久しぶりのウォーキングだったので、大分歩いた感じ。
ここの「大国魂神社」は、前に鎌倉道の上道を探索した時に来たことがあって、何度見てもこの壮大さに感心する。梅祭りの最中であった。神社から前に伸びる「けや木通り」もすごい。
また、源義家が東北のほうへ戦に行く時に、ケヤキを奉納したと、銅像が立っていたし、家康は、この府中で、馬の品評会を催していたと説明がきがあった。その流れで、競馬場ができたのかもしれない。
      

武蔵野の面影があるこの地に、奈良時代、国分寺・国分尼寺が建てられ、その跡が残ってた。
そのわき道に、鎌倉道を保存する為に車は通行できないと、看板があった。その鎌倉道を通っていると、新田義貞が、兵を休ませる為に井戸を掘った「鎌倉井戸」の場所と似ていて、鎌倉道は幅1メートルくらいのものだったんだなと改めて思った。
      

豊かな山林を見ると、昔は鷹狩りも盛んに行われていたんではないかなと思われる。家康あたりは、馬を見るついでに、鷹狩りもしていたのではないかと推測する。その証拠に、散策マップに「おたカフェ」なるものがあった。私達もそこで、湧き水コーヒーとチーズケーキを食した。
 

府中の町のど真ん中に「高札場」が残っていた。
  

足利尊氏ゆかりの寺「高安寺」があった。そこには、「弁慶硯井戸」があり、腰越で兄頼朝に会えなかった義経一行がここで何日間か泊まったとあった。
     
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