今日は平成24年4月22日(日)、
4月も下旬になったというのに、ちょっと肌寒い感じの日々が続いている。
実は2週間ほど前の4月7日・8日、京都御所が一般公開されるというので、2月頃から申し込んでおいたJTBのツアーに参加して、行ってきた。
私が好きな大河ドラマ「平清盛」(最低の視聴率で新聞にも問題視されていた)の舞台であり、平安貴族たちの住まいであり、政務するところでもあり、清盛たち武士たちが警備していたところでもある。
そんなところが、見られるというので、年度始めの忙しいところではあったが、無理をして行ってきた。
そして、こちらの相模原では市役所通りが桜まつりを行えるほどの丁度見ごろな桜の具合であったので、こちらより南にある京都や奈良の方はさぞかし満開かと期待しながら行ったが、思ったより向こうは寒く、桜(ソメイヨシノ)は1・2分咲きで、奈良の吉野山に至っては全く蕾で、日本列島は東西にものびていて起伏にとんでいることを思い知らされた。
でも、桜はソメイヨシノばかりではなく、しだれ桜やカンザクラらがあってちょっこっと時期を早めに咲いてくれていたのもあり、整備された御所やお寺の庭園で、常緑樹の中にあってひときはその色合いを際ださせていた。
また、今回、京都御所が一番の見どころで参加したけど、今一番心に残っているのは、世界遺産にも登録されている国立公園の吉野山にある「吉水神社」である。京都奈良は古の都であり、江戸時代前は歴史の中心の地であったことは周知の事実であるが、ここまで、名を残す人物がこの吉水神社に関わりがあるとは私は思いもよらなかった。詳細は後で記すが、驚きである。
では、まずは新幹線。名古屋へ向かう。車窓からの富士山は見事であった。思わずいつもながら「あーたまを雲の~」と「ふじ山」を口ずさんでいた。
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名古屋からはいざ、京都御所へ
御所を囲むように整備された幅5m位の広い通りがあり、駐車場から中に入る門までそこ歩いた。広ーい敷地が塀で囲まれているのが分かった。
中に入ると、きれいに整備された空間で、歩くところは砂利がひかれ、十分に間を取って、「御車寄」「紫宸殿」「清涼殿」等大きな寝殿作りの建物が重厚に置かれていた。なるほど昔のくらしのゆったりとした時間の流れが感じられた。
特に紫宸殿では、お雛様を飾ったときに「左近の桜、右近の橘」などと言って確認するが、これがここからきているのが分かった。
庭園も見事で、こんな景色を毎日見ていたら、人間もゆったりと少々のことには目をつぶってしまうのではなどと考えたが、実際は「保元の乱」や「平治の乱」で分かるように心の中は悶々となることも多かったようである。
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次に、鎌倉時代に法然上人が住まわれ、念仏の教えを説かれたところである「知恩院」に行った。浄土宗の総本山でもある。
国宝にもされている山門は見事で、徳川秀忠公によって建てられ、木造の門としては世界最大級であると言われています。外壁は工事中で、中に入ると、大きな仏壇があり、そこには何人もの僧が始終念仏を唱えていて、その後ろにはゴマをたいて拝むところもあった。私も並んで「家族の健康と安全」お祈りしてきた。
有名な「知恩院の七不思議」1,鴬張りの廊下 2、白木の棺 3、忘れ傘 4、抜け雀 5、三方正面向きの猫 6、瓜生石 7、大杓子
も展示されていた。
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近くには円山公園があり、その周りには歴史的有名人の足跡があった。
太閤秀吉の供養のために北の政所であるねねが建てた「高台寺」、そのねねが住んでいた「圓徳院」、ねねが歩いた「ねねの小径」、また白河上皇の女御であり、大河ドラマでは松田聖子がやっていた祇園女御の墓があったり、「西行庵」や「芭蕉堂」等々、ここにも発見があった。
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夜は平安神宮で、紅しだれコンサートで、池の中程にステージをつくり、そこで弦楽器5重奏が奏でられ、主に唱歌や童謡をクラッシック風にアレンジして演奏していた。水面に映る奏者たちが夜愁な雰囲気を醸し出していた。
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その日はなぜか、京都から大阪の外れ、関西空港近くのホテルに泊まった。京都市内のホテルよりも料金が安いのかどうかは知らないが、わざわざここまで来た。
そこのホテルには24時間営業のコンビニがあって、まあ空港近くだから当たり前と言えるのだが、それ以外にはあまり買うところがなかったからか、とても繁盛していた。特に日本人よりも中国の人たちが多く買い物をしていたのが驚いた。確か中国から大阪の関空には直接便が就航していたか?
店員さんが出したお金が足りなくて、1万円札を出させてお釣りをあげていた。中国と日本はほんと近いんだなーと感じた。
次の日はいよいよ世界遺産である奈良の吉野山へ移動だ。京都や奈良は盆地であるせいか、風は冷たく、思ったより寒い。果たして、この吉野山も桜はまだまだであった。
俗に、「一目千本」と言われ、ひとつの山が全部桜で埋めつくされ、見渡す限り桜の木々であった。この桜が百花繚乱に咲き乱れたら、さぞかし見事であり、それを見て感嘆しない人はいないだろうし、どの人も魅了してしまうだろう。芭蕉も何回も来てうたを詠んでいるし、この地で時を過ごした後醍醐天皇や太閤秀吉、義経らもこの桜に魅了され、心を奪われたひとりであるだろう。
そして、この吉野山の中千本辺りにある「吉水神社」がこの歴史的に由緒あることを説明してくれる。
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まずは、この「吉水神社」
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後醍醐天皇が南朝の行宮と定めたとある。南北朝の対立から、この吉野へ御潜幸し、吉水神社の援護の下57年間ここに南朝を築いたという。だから、後醍醐天皇の座っていたとされる玉座や使っていた硯などが展示してあった。
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源義経が兄頼朝の追っ手を逃れて静御前、弁慶と共にこの吉野へ来てこの神社で逗留したという。これから先、女人禁制ということで、泣く泣く別れて、吉野の山に弁慶と入り、奥州の平泉に落ち延びたとされる。義経と静御前の大ロマンスの舞台でもある。
「義経潜居の間」「弁慶思案の間」があり、それに義経の鎧や弁慶の仁王立ちの槍も展示してあった。思ったとおり義経はあまり大きくなく、細い体型であったことがうかがわれたし、弁慶はあんな長い槍を使いこなせたことは、大男だったんだなと感じた。
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1594年、太閤秀吉はこの神社を本陣にして、盛大なる花見の宴を催したとされる。果たして、この吉水神社の境内からの眺望は中千本・上千本一帯が展望でき、素晴らしい眺めである。「一目千本」とはここからの眺めを言ったものかと思わされた。だから、秀吉公が花見を開いて豪遊し、天下にその権勢を示したのは納得できる。
ただ、年表を見て分かったことは、この宴の最中、加藤清正らの武将たちに朝鮮出兵を命じている。お江の2番目の夫、豊臣秀勝もこの戦のさなか病死している。そう考えると、こんな愛でていていいのか!と喝を入れたくなる。
この吉野の山に立って谷からの吹き上げる風を感じる時、ふと義経・静御前の悲しい別れや北朝から逃れてここまで来た南朝の哀史が頭によぎり、しばらくすると花見に興じた武将たちの賑やかな声が、聞こえてきそうな気がするから不思議である。
誠に歴史深いところである。
最後に、この吉野山を歩いていると、「大日寺」なるものがあった。この看板には
「1333年、元弘の変の時に、後醍醐天皇の皇子護良親王の身代わりになって忠死した村上父子の菩提寺である」と説明書きがしてあった。
護良親王の首を取ったのが、多分この事件より後の話になると思うが、当時渕野辺村の領主で、足利尊氏の弟の足利直義の部下であった淵野辺義博という武士がその直義の命により首を討つと聞いているので、何かこんなところに、護良親王の名前が出てきて、ほんと歴史は繋がっているんだな~と妙なところで感心してしまった。
まずは、忙しいさなかの旅行であったが、無事に帰ってこられ、はたまた、好きな歴史を断片的ではあるが、こんなに堪能できて満足である。
その幸せに感謝して終わりにしよう。
4月も下旬になったというのに、ちょっと肌寒い感じの日々が続いている。
実は2週間ほど前の4月7日・8日、京都御所が一般公開されるというので、2月頃から申し込んでおいたJTBのツアーに参加して、行ってきた。
私が好きな大河ドラマ「平清盛」(最低の視聴率で新聞にも問題視されていた)の舞台であり、平安貴族たちの住まいであり、政務するところでもあり、清盛たち武士たちが警備していたところでもある。
そんなところが、見られるというので、年度始めの忙しいところではあったが、無理をして行ってきた。
そして、こちらの相模原では市役所通りが桜まつりを行えるほどの丁度見ごろな桜の具合であったので、こちらより南にある京都や奈良の方はさぞかし満開かと期待しながら行ったが、思ったより向こうは寒く、桜(ソメイヨシノ)は1・2分咲きで、奈良の吉野山に至っては全く蕾で、日本列島は東西にものびていて起伏にとんでいることを思い知らされた。
でも、桜はソメイヨシノばかりではなく、しだれ桜やカンザクラらがあってちょっこっと時期を早めに咲いてくれていたのもあり、整備された御所やお寺の庭園で、常緑樹の中にあってひときはその色合いを際ださせていた。
また、今回、京都御所が一番の見どころで参加したけど、今一番心に残っているのは、世界遺産にも登録されている国立公園の吉野山にある「吉水神社」である。京都奈良は古の都であり、江戸時代前は歴史の中心の地であったことは周知の事実であるが、ここまで、名を残す人物がこの吉水神社に関わりがあるとは私は思いもよらなかった。詳細は後で記すが、驚きである。
では、まずは新幹線。名古屋へ向かう。車窓からの富士山は見事であった。思わずいつもながら「あーたまを雲の~」と「ふじ山」を口ずさんでいた。
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名古屋からはいざ、京都御所へ
御所を囲むように整備された幅5m位の広い通りがあり、駐車場から中に入る門までそこ歩いた。広ーい敷地が塀で囲まれているのが分かった。
中に入ると、きれいに整備された空間で、歩くところは砂利がひかれ、十分に間を取って、「御車寄」「紫宸殿」「清涼殿」等大きな寝殿作りの建物が重厚に置かれていた。なるほど昔のくらしのゆったりとした時間の流れが感じられた。
特に紫宸殿では、お雛様を飾ったときに「左近の桜、右近の橘」などと言って確認するが、これがここからきているのが分かった。
庭園も見事で、こんな景色を毎日見ていたら、人間もゆったりと少々のことには目をつぶってしまうのではなどと考えたが、実際は「保元の乱」や「平治の乱」で分かるように心の中は悶々となることも多かったようである。
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次に、鎌倉時代に法然上人が住まわれ、念仏の教えを説かれたところである「知恩院」に行った。浄土宗の総本山でもある。
国宝にもされている山門は見事で、徳川秀忠公によって建てられ、木造の門としては世界最大級であると言われています。外壁は工事中で、中に入ると、大きな仏壇があり、そこには何人もの僧が始終念仏を唱えていて、その後ろにはゴマをたいて拝むところもあった。私も並んで「家族の健康と安全」お祈りしてきた。
有名な「知恩院の七不思議」1,鴬張りの廊下 2、白木の棺 3、忘れ傘 4、抜け雀 5、三方正面向きの猫 6、瓜生石 7、大杓子
も展示されていた。
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近くには円山公園があり、その周りには歴史的有名人の足跡があった。
太閤秀吉の供養のために北の政所であるねねが建てた「高台寺」、そのねねが住んでいた「圓徳院」、ねねが歩いた「ねねの小径」、また白河上皇の女御であり、大河ドラマでは松田聖子がやっていた祇園女御の墓があったり、「西行庵」や「芭蕉堂」等々、ここにも発見があった。
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夜は平安神宮で、紅しだれコンサートで、池の中程にステージをつくり、そこで弦楽器5重奏が奏でられ、主に唱歌や童謡をクラッシック風にアレンジして演奏していた。水面に映る奏者たちが夜愁な雰囲気を醸し出していた。
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その日はなぜか、京都から大阪の外れ、関西空港近くのホテルに泊まった。京都市内のホテルよりも料金が安いのかどうかは知らないが、わざわざここまで来た。
そこのホテルには24時間営業のコンビニがあって、まあ空港近くだから当たり前と言えるのだが、それ以外にはあまり買うところがなかったからか、とても繁盛していた。特に日本人よりも中国の人たちが多く買い物をしていたのが驚いた。確か中国から大阪の関空には直接便が就航していたか?
店員さんが出したお金が足りなくて、1万円札を出させてお釣りをあげていた。中国と日本はほんと近いんだなーと感じた。
次の日はいよいよ世界遺産である奈良の吉野山へ移動だ。京都や奈良は盆地であるせいか、風は冷たく、思ったより寒い。果たして、この吉野山も桜はまだまだであった。
俗に、「一目千本」と言われ、ひとつの山が全部桜で埋めつくされ、見渡す限り桜の木々であった。この桜が百花繚乱に咲き乱れたら、さぞかし見事であり、それを見て感嘆しない人はいないだろうし、どの人も魅了してしまうだろう。芭蕉も何回も来てうたを詠んでいるし、この地で時を過ごした後醍醐天皇や太閤秀吉、義経らもこの桜に魅了され、心を奪われたひとりであるだろう。
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そして、この吉野山の中千本辺りにある「吉水神社」がこの歴史的に由緒あることを説明してくれる。
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まずは、この「吉水神社」
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後醍醐天皇が南朝の行宮と定めたとある。南北朝の対立から、この吉野へ御潜幸し、吉水神社の援護の下57年間ここに南朝を築いたという。だから、後醍醐天皇の座っていたとされる玉座や使っていた硯などが展示してあった。
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源義経が兄頼朝の追っ手を逃れて静御前、弁慶と共にこの吉野へ来てこの神社で逗留したという。これから先、女人禁制ということで、泣く泣く別れて、吉野の山に弁慶と入り、奥州の平泉に落ち延びたとされる。義経と静御前の大ロマンスの舞台でもある。
「義経潜居の間」「弁慶思案の間」があり、それに義経の鎧や弁慶の仁王立ちの槍も展示してあった。思ったとおり義経はあまり大きくなく、細い体型であったことがうかがわれたし、弁慶はあんな長い槍を使いこなせたことは、大男だったんだなと感じた。
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ただ、年表を見て分かったことは、この宴の最中、加藤清正らの武将たちに朝鮮出兵を命じている。お江の2番目の夫、豊臣秀勝もこの戦のさなか病死している。そう考えると、こんな愛でていていいのか!と喝を入れたくなる。
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この吉野の山に立って谷からの吹き上げる風を感じる時、ふと義経・静御前の悲しい別れや北朝から逃れてここまで来た南朝の哀史が頭によぎり、しばらくすると花見に興じた武将たちの賑やかな声が、聞こえてきそうな気がするから不思議である。
誠に歴史深いところである。
最後に、この吉野山を歩いていると、「大日寺」なるものがあった。この看板には
「1333年、元弘の変の時に、後醍醐天皇の皇子護良親王の身代わりになって忠死した村上父子の菩提寺である」と説明書きがしてあった。
護良親王の首を取ったのが、多分この事件より後の話になると思うが、当時渕野辺村の領主で、足利尊氏の弟の足利直義の部下であった淵野辺義博という武士がその直義の命により首を討つと聞いているので、何かこんなところに、護良親王の名前が出てきて、ほんと歴史は繋がっているんだな~と妙なところで感心してしまった。
まずは、忙しいさなかの旅行であったが、無事に帰ってこられ、はたまた、好きな歴史を断片的ではあるが、こんなに堪能できて満足である。
その幸せに感謝して終わりにしよう。