wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

小手指原は新田義貞が幕府側と最初に戦った地

2013-10-27 13:38:01 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
 平成25年10月13日、三連休の中日、鎌倉街道の上道に行きたいという、ふたりの希望が一致して、行くことにした。場所は埼玉県所沢市小手指原

 1333年5月8日、新田義貞は群馬の太田市にある生品神社で挙兵し、そこから鎌倉を攻めるために南下するのだが、その途中にあるのが、小手指原。
 私は、この夏、この義貞が住んでいたという太田市にある新田荘に行った。その時、歴史資料館で詳しい説明を受けているし、千ちゃんとは、分倍河原鎌倉井戸、それに鎌倉の稲村ヶ崎にも行っている。こう振り返ってみると、鎌倉街道沿いを新田義貞の軌跡を追っている感じである。そして今回もそれに付随したかんじでのウオーキングとなった。

まずは、小手指原である。
         


本によると、こう書いてある。
3/11 金剛山の戦いに参加していた新田義貞、後醍醐天皇の論旨を得て、病と偽り帰郷する。
5/08 新田義貞、鎌倉の使者を斬る。生品神社で挙兵し、笠懸野へ。利根川付近で越後・信濃の      援軍と合流。 
5/09 武蔵野へ進撃。足利千寿王の軍と合流。上野・下野・上総・常陸・武蔵より援軍。
5/11 小手指腹で幕府軍と最初の合戦。勝敗つかず、義貞軍は入間川に、幕府軍は久米川に陣を     置く。
5/12 久米川で合戦。義貞軍が優勢。義貞軍は久米川に陣を置き、幕府軍は分倍に退却。
5/15 分倍河原で合戦。幕府軍劣勢の知らせを受け、鎌倉から援軍到着。義貞軍は劣勢になり、堀    兼まで敗走。晩に、三浦義勝軍が義貞軍に参陣。
5/16 義貞軍は16日午前4時に分倍河原を急襲。分倍河原・関戸で合戦。前日の勝利に油断した幕    府軍は破れ、鎌倉に退却。
5/18 義貞軍、極楽寺坂切通・巨福呂坂・仮粧坂の三方より鎌倉を攻めるも、突破できず。 
5/21 義貞軍、稲村ガ崎へ
5/22 義貞軍、稲村ヶ崎を突破し、市中に乱入。東勝寺にて北条高時一門が自害。幕府滅亡。

一進一退を繰り返して、鎌倉に攻め入ったことがよく分かる。
途中、鎌倉街道と書いてある標識があった。この道を馬で行ったり来たりしたんだなと思うと、感慨深かった。
  


東村山にある「ふるさと歴史館」に行った。
そこでは、この辺に関係ある武将たちのことがまとめてあった。
     


鎌倉時代、頼朝に追われた、大姫の許嫁でもあった「木曽義高」はこの入間川で討ち死にしている。
徳蔵寺では門に八幡太郎義家の源氏の紋が大きく掲げられていた。
      


今回もよく歩いた。25039歩(約12キロ)
こうやって気ままに歩けることに甚く感謝している。

コメント (3)
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淵辺義博は護良親王を連れて安房国に渡った

2013-10-20 13:03:34 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
 私が住んでいる淵野辺に境川の中里橋のところに「縁切り榎とわかれ橋」という史跡がある。
   

これは1335年、中先代の戦いの時に足利尊氏の弟の直義が家来の淵辺義博に命じて、後醍醐天皇の皇子である護良親王を討ったという史実を180度変えることが書かれている。「実は淵辺義博は家来の首を差し出して直義を安心させ、護良親王を近くの龍像寺にかくまり、ほとぼりが冷めてから、妻子と別れて石巻の方に旅立った」と。

 以前に「風の群像」を読んだときに、淵辺義博の名が出てきて、護良親王を討った場面が描かれていた。その時初めて、地域の地名とこの淵辺義博を知り、でも、前記の「縁切り榎とわかれ橋」のことも偶然知って、どちらがほんとなのかしらとずーと疑問に思っていた。


 でも、今回知人に、「南北朝異聞」(護良親王と淵辺義博)中丸祐昌著を紹介され読んだ。
     


何と、直義はまだ、護良親王が利用価値があると思い、信頼できる部下であり、捨石にもなれる淵辺義博に内密に温暖な地である安房国に連れて行き、しばらくのあいだ隠れているようにと命令したのではないかということだ。でも、実際は兄の尊氏が武士の世の中を確立してたことにより、利用価値がなくなり、そのまま歴史上から姿を消していったのではないかということである。

本では、鎌倉が北条時行に襲撃された時、淵辺義博ら7名の屈強な武士たちは、護良親王を籠に乗せ、鎌倉の海から船に乗せ、海岸沿いに進んで、房総半島の安房国白浜の野島岬あたりに上陸し、大六天山の麓に位置する榎ヶ谷の山中にたどり着いて、護良親王を匿ったということである。その証拠にその村(榎ヶ谷・名倉地区)には、「淵辺」という苗字が集中しているということをこの本の作者である中丸氏も言っている。

本を読んでいて、今までの定説は全て「太平記」からのものであり、でもこの太平記は直義が監修していて、都合の悪いことは編集できるという。と考えると、この本のほうが信憑性が高いのではないかと考えられるが、如何なものだろうか。

いずれこの地には行って、淵辺さんに会ってみたいものである。
コメント (4)
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