wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

千利休は堺の魚屋から茶人へ

2022-04-22 14:32:30 | 講演会
令和4年4月16日(土) 知らないことを知るのはとてもいいことだと思い、「千利休が残した茶の湯の歴史」なるものに行ってきた。利休といえば、秀吉に言いがかりをつけられて、切腹させられた人といわれるかもしれない。果たしてどうなのか?

と思って行ったが、茶の湯の話なので、利休のお師匠さんである「村田珠光」や「武野紹鴎」の話から始まったので、私は不覚にも舟を漕いでしまったのでした。

でも、長谷川等伯が描いたという利休の肖像画がスライドが大きく映し出されると、目がシャッキとして、話も面白くなってきた。

この肖像画は60歳の利休である。茶人というよりも、エネルギッシュで策士のような感じがある。
千利休は、魚屋の商家の生まれで、若年より茶の湯に親しんでいた。信長が堺を直轄地としたときに、茶頭として召され、のち秀吉に仕えたという。茶人として名声の絶頂にあったが、秀吉の勘気に触れ、切腹を命じられる。
 

次の写真は、自刃するに際し、3日前にしたためた「利休遺(ゆい)げ」である。以前、古渓和尚から末期の句を尋ねられた際に、詠んだものという。大事なものや人を全部捨て去り、または殺(せっ)し、この今、瞬間だけを生きろと説いているとか。
   

次の写真は、死の二週間前、おそらく現存最後の利休書状であろう。堺蟄居を聞き、見舞いをよこした弟子にあてた返し状。
「かなしく候」で終わっている文は、日頃胸中を人にさらさぬ利休のこらえきれぬ思いが伝わる。
  

次の写真は、前の写真の1日前、淀の船着き場にひそかに見送りに来てくれた「細川三斎」と「織部」の姿を見つけ、この当時、罪人に会うことは必ず処罰されることなのに、後難を恐れることなく見送ってくれた二人に感激して、感謝の思いをしたためたもの。
  

最後に、「利休逸話」として、千貫(今の貨幣価値で1億円)もする香炉を眺めていて、利休はどうも納得がいかない。それを妻の宗恩が見て、「足が一分高うて恰好悪し。きり給え」と。利休もそう思っていたと、妻の言葉に従って、きらせたという。なかなか優れた目利きの女子である。
  

質問が出た。なぜ利休は切腹させられたのと。利休の娘を秀吉が気に入り、それを拒んだからという説があるかと。
7つくらいの説があると言っていた。その一つは大徳寺の山門であるが、これは言いがかりみたいである。

講演のあった場所は、大手町にある「読売新聞」の建物。お正月恒例の箱根駅伝のスタートとゴールの場所である。
近くに平将門が祀ってあった

コロナ禍で中々歴史散策ができないが、やっぱり好きな歴史に触れることは、私に元気を与えてくれる。講演や散策を定時やりたいものである。
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和田義盛の妻は横山党の当首 横山時重の娘

2022-03-06 13:23:33 | 講演会
令和4年3月6日(日) 相模原博物館で「鎌倉殿の13人」の展示がしてあるというので行ってみた。

私の住んでいる近くに「和田坂」や「藤橋」というのがあり、この辺りの娘の娶った「和田義盛」が娘の嫁ぎ先に寄った時のエピソードと聞いたことがあったので、確認もあった。果たして、よくわかったので、写真を撮ってよいというので、載せておく。



「鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック」が展示されていたのでそれもとっておいた。
      
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誉田亜紀子さんの「はじめてさんの土偶講座」に行く

2022-02-26 15:55:48 | 講演会
令和4年2月26日(土) 3~4か月前、カルチャーセンターの広告に偶然見つけた「はじめてさんの土偶講座」に、何となく興味を持ち、申し込んでおいた。携帯で申し込んだがその後連絡も通知もないので、もしかしたら空振りで終わるかなと思いながら、荻窪駅のルミネ6階にあるよみうりカルチャーセンターに行ってみた。良かった。受付でちゃんと私の名前が登録してあって、受講することができた。

講師は誉田亜紀子さん。今や縄文女子のきっかけを作った人として有名らしい。でも名前が読めない。これは「こんだ あきこ」と読むそうだ。話が上手で分かりやすく、知識が豊富で、滑舌で、ご自分の考えを交えて、お話しされていて1時間半があっという間に過ぎてしまった。終わってから著書を購入した。サインを書いてもらったときに、初めて名前がわかって、なんて読むかも教えてもらった。岐阜県出身で、この名前は私の家族だけだと言っていた。この時写真を撮らせてもらえばよかったと後で後悔した。

縄文時代は大体13000年位前から2300年位前で、約1万年位続いていた。土偶は11000年位前から登場した。最初のほうの土偶の中には、3.1センチ位のの小さな土偶もあり、誰かのお守りのようだと言っていた。生と死が隣り合わせで、厳しい環境の中で生きていく縄文時代。目には見えない、超自然的なものに心を預け、助けを求めてしまっても不思議ではない。その道具として土偶はあったのかもといわれていた。

一般的に、土偶は、縄文時代に粘土で作られた人型の焼き物で、妊婦や女性を表現したものとされる。目的は、狩猟や採集・漁労などの食糧確保の成功を祈る道具であり、安産・命の再生などの祈願、病気治療のために作られた。縄文時代、自然とともにあり、厳しい暮らしだからこそ、「祈り」が必要になったのではないか。縄文人の平均寿命は40歳前後。食糧事情もあり、乳幼児の死亡率も高く、一人の女性が4~5人産むのが精いっぱいだったのではと言っていた。
縄文時代のムラでは、竪穴式住居が5,6軒あり、一つの住居に5人位で27人位の集落で構成されていたのでは。人が増えると衛生面や少量確保が難しくなるので、分村という形で移動していったとされる。集落の出てきたものを見ると繋がりが見られるという。また、血が濃くなるといけないときは、旅人の男性を入れて違う血を入れる時もあると言っていた。

土偶の中で一番有名な「縄文のビーナス」はレプリカを触らせてもらったそうだが、括れのところが親指と人差し指で丁度ぴったりと挟めるし、そのまま手のひらには豊かなお尻が角度良く収まるように作られていて、抱っこしやすかったと言っていた。27㎝、新生児位の大きさだという。
「合掌土偶」は、女性には見えないが、ちゃんと女性器があって、どうも座産を象っているのではといわれていた。これは座っている椅子みたいなものを外すとバラバラになってしまい、修復していた形跡があるという。お尻の穴もあるという。
「遮光器土偶」宇宙人説もあるとか。土偶の中は空洞になっていて、その中に子宝に恵まれたいのか、わざわざ小さい塊を入れている。呪術的なものを感じる。
先生が好きと言っていた「山形土偶」。これは山形県ではなくて、頭が山の形になっているからこう呼ばれているそうだ。乳が大きく作られ母乳信仰の一環か。

土偶は作られた当初は赤くなっている。それはベンガラという鉱石をつぶして漆に混ぜて塗っていたようだ。赤は昔から、命、生命、血の色、魔よけの意味合いがあるという。縄文時代から続いているようだ。また、土井勝さんが、「日本食の始まりは縄文時代だ」と言っていたという。木の実や山菜など余ったら保存して、現代にも通じている。また、自然の生活では五感の中で、大事なのは「耳」なんだそうだ。自然を相手にするとき、危険を感じるのは、耳であり、嗅覚でもあるそうだ。

最後に、資料の一番最後に写っていた写真の土偶が、あまりにも単純な作りだったので、「これは先生が作られた土偶ですか?」と、今思えば失礼だったと反省しているが、聞いてしまった。「これも土偶ですよ」とにこやかに返答された。そして、紹介したのは、形良いもの見栄えがいいもので、このように、ただどんと立っているものもたくさんあるんですと。


久しぶりに勉強した。知識を吸収するというのはいいものだ。こうやって一回限りの講座にこれからもどんどん参加したい。
もらった資料を載せておく。
         
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「悲運の名将 明智光秀」講演会へ

2019-11-03 08:44:06 | 講演会
令和元年10月14日(祝日)、代々木公園駅から徒歩7分くらいのところにある国立オリンピック記念青少年総合センターへ、来年の大河ドラマの主人公「明智光秀」の講演会があるというので、千ちゃんが申し込んでくれたので、行くことができた。

講演を聞いて一番驚いたことは、光秀は決して温和な人ではなく、比叡山の焼き討ちや籠城する人を餓死させたりと、信長と変わらず、勝つためには手段を選ばないような数々の戦国の武将と同じだったということである。やはり信長に仕えるということは、信長と同じ態度でなくては務まらないはずである。
 
 それを裏付ける資料がある。ルイス・フロイスのイエズス会宛ての報告書に光秀の人柄が書かれていた。「信長の政庁に、名を明智といい、元は低い身分の人物がいた。すなわち、卑しい家柄の出であり、信長の治世の当初、或貴族に仕えていたが、巧妙で如才なく鋭敏なことからたいそう重んじられるようになった。彼は諸人から嫌われ、裏切りを好み、残虐な処罰を行う非道者であり、人を欺き狡猾な戦術を弄することにたけ、気質は勇猛、築城術に精通していた。このように卑しい歩兵であったが、信長は丹波及び丹後と称する二か国を授け、比叡山の大学の全収入を与えたが、これは他国の収入の半ばを超えていた。しかし、明智はその異常さゆえにさらに多くを求め、日本君主国の主となりうるか否か試みることを望んだ。・・・・・」

そして、信長は、ワンマンで仕切っている独裁者と思われがちだが、家臣に任せるきるリーダーだったと言っていた。全部仕切るのではなく、信玄や北条、謙信と同じく、リーダーとしての信長はいるが、楽市楽座等や様々な政策は各々の家臣団に任せていたという。

来年の大河では、どんなふうに明智光秀という人物をとらえるのか、織田信長との関係をどう表し、また本能寺の変をどう持っていくのか楽しみである。

また、蛇足であるが、この会場のレストランが半端じゃなく充実していた。
620円というリーズナブルな値段で定食が食べられる。定食といっても丼もの、麺もの、中華、揚げ物などが選べ、それに付いているサラダや飲み物、果物などは全部、お替り自由のバイキング形式である。ぜひまた行ってみたい。

では、資料を添付しておく。
            
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