東海道珍道中<藤沢~平塚>平成23年5月7日(土) 東海道珍道中も第7回を数え、だいぶ慣れてきて、今回はずるを覚えてしまった。
この日は朝からどんよりとした曇り空。9時30分頃、今回も千明さんに家の前まで来てもらって、車で、淵野辺駅へ行くことが出来た。天気予報では午後からは晴れ間も望むと言うので、大丈夫だよとお互いに希望的観測の元、前回の終着駅である「藤沢本町」の駅に到着した。駅について空を見上げると、雨は意外と強く降り注いでいた。私たちの本分である東海道を踏破するという思いは、この自然の力にははかなくもなげてしまい、「電車で平塚まで行こうか」という案が、千明さんから出され、「そういうのもありだよね」と、ちょっと気持ちの中には戸惑いもあったが、私も賛成し、こういう運びとなった。
でもこの判断が結果的には、歩いていたら見ることがなかった、展示内容の奥深さや展示の構成の見事さ、はたまた展示模型の素晴らしさに感動する「平塚博物館」に行くことが出来たのである。一つの選択が違う道への道しるべとなる、人生の面白さを今回も感じた。
藤沢本町駅から藤沢駅に行き、JR東海道本線に乗りかえて「平塚駅」に行く。東海道本線に乗りながら、辻堂駅や茅ヶ崎駅を抜け、相模川を渡り平塚の駅に着いた。実際歩いていくのなると10キロくらいあり、1日がかりであるが、こうやって電車で行くと、20分位で着いてしまうのであるから、なるほど電車は速い。ますますずるした罪悪感が幅を占める。でも、こうやって実感すると、昔の人の時間はほんとゆったりと流れていたのが伺える。
平塚は七夕で有名だが、そのほかはあまり知られてない。でも、どこの大きな駅でも同じだが、駅ビルがドンと建ち、その中に、たくさんのお店が入っていて、人々の購買意欲を駆り立てる。私たちも、まずは腹ごしらえとして、平塚名物ではないが手ごろな「塩大福」を食する。甘さ控えめで味も量も丁度よい。
駅前にはバスのロータリーやアーケードが幾十にも並び、2車線の道路が縦横に走っていた。
私たちは、まず、平塚宿を目指す。約1.4キロの街道が今も残っていて、所々にその時代にあった見附の跡や高札場の碑とかがあり、当時を忍ばせていた。
平塚宿の出入り口には、江戸側には江戸見附が、京側には京方見附が置かれていた。これは交番みたいなもので、城下に出入りする人々を見張る役割があったらしい。きちんと整備され、昔あった形跡を残していた。
途中、街道からそれて、お寺らしきものがあるので、そちらに行く。そこでまた、発見。「平塚の塚」があった。桓武天皇の三代孫である高見王の娘政子が東国へ向かう旅の途中、この地で逝去し、棺をここに埋葬し、墓として塚が築かれた。この塚の上が平らになっていたことから、この辺の人は「ひらつか」と呼んでいたそうである。それがこの地の由来でもある。もう一つここで、千明さんが閃いたことがある。それは、この時代武士は平氏と源氏に分かれていて、桓武は桓武平氏といって苗字に「平」が付く。だからこの亡くなった政子も平政子となり、「平政子の塚」から平塚になったのではないかとも言っていた。「なるほど」と感心し、今日の千明さんは回転がいいなーと妙に納得してしまった。
平塚宿の終わりの方には京方見附があり、その少し先には、花水(はなみず)川が流れている。音だけで聞くと少し汚らしいイメージがあるが、漢字で見るときれいだ。そこに花水橋が架かっているが、そこら辺から見た景色を広重は浮世絵に描いている。ひょうたんみたいに突き出している高麗山(こまやま)を描き、その右横に小さく白い富士の山を半分隠れるようにして描き、そしてそのまた右横に、険しい大山がそびえ立っている。その手前には飛脚が平塚宿を京方見附のほうから川を渡りながら何やら担いで運んでいる、あの有名な絵画である。私たちはその広重が見ていたであろう場所に立ち、晴れていたら、富士山が見えるのかもしれないと、目を凝らしてじっとその景色を見ていた。何やら雲の向こうに白いものがかすんで見えている様にも思えたので、「あれそうじゃない」などと言い合っていたが、どうも実際は見えないのではないかと、何かに書いてあって、少々がっかりした。絵は何分、作者の創作がいたる所にあるものだ。
平塚駅の方に戻り、お腹もすいてきたので、食べるところを探す。市民ギャラリーなるものが通りにあり、レトロな雰囲気で、値段がリーズナブルなのでそこの食堂に入ることにした。それが、また正解で、日替定食を頼む。えびやカツフライ・お刺身・サラダ、それに食後にはコーヒーまでついて何と714円。それにおいしくて、大満足。ゴールデンウイークに行った奈良の神社や吉野宮・吉野川の素晴らしさをブログや写真を見せながら、口角を飛ばしながら話す。しばらくそこで歓談休憩。
このあと、「じゃあ博物館でも行ってみるか」と軽い気持ちで行ったのが、展示物の奥深さに驚いた平塚博物館。もちろんこの平塚の名所である平塚宿の様子の資料が展示されたあったり、200分の1位に縮尺された模型もあり、宿場町の様子が細かく分かりやすく展示されていた。
でも私たちが驚いたのは、もっと別のことである。
この博物館のコンセプトは「相模川流域の自然と文化」であり、私たちの住んでいるこの相模原もその対象に入り、関係あるものがたくさん展示されていた。その中に、相模川流域を探るとして、丸く大きな円形台に富士山から相模湾に達するまでの地形模型が置かれていた。そこには相模湾に流れ込む相模川や酒匂川・勝目川(花水川は勝目川の下流のこと)の流れる様子がボタンを押すとランプが付いて示してくれたり、私たちが今歩いている東海道を示してくれたりする。驚いたことに江戸時代前の東海道は箱根を通らずに足柄の方を大きく迂回して小田原の方に来ていた。これも発見で、確か横浜の県立歴史博物館に行ったときに源頼朝や北条政子は伊豆の蛭が小島から鎌倉に来るときに足柄の方を通ったと学芸員の方が言っていたことを思い出した。江戸時代前なのでまだ箱根の方は通っていなかったのが分かった。また、相模川の渡船場と河岸なるものも壁一面に掲示してあって、昔は田名や津久井の方にもたくさんの船着場があって、船で渡っていたのが分かる。そういう一つ一つのことが私たち庶民に視覚的にも分かりやすく理解しやすく展示されていることである。また行きたいと思った博物館であった。閉館の放送が流れてきたので、この博物館を後にする。
この敷地に宮沢賢治の言葉が刻まれていた。「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」そうだよね~、でも・・・
ここで震災後テレビで流れていた賢治のACのCMの言葉を思い出そうとしたがしっくりいかなくて、二人して悶々とする。「思いやりは見えないが心遣いは見える?だっけ」「優しさは見えないが気遣いは見える?だっけ」
平塚駅に戻り、お茶をして例の東海道の安藤広重の平塚の葉書を書き、ポストに投函した。
町田の東急の上で夕飯を食べて(今度はスパゲティ)、また、こういうことができる幸せに感謝しながら、今回も締めくくる。 16000歩 約9.6キロ歩く
この日は朝からどんよりとした曇り空。9時30分頃、今回も千明さんに家の前まで来てもらって、車で、淵野辺駅へ行くことが出来た。天気予報では午後からは晴れ間も望むと言うので、大丈夫だよとお互いに希望的観測の元、前回の終着駅である「藤沢本町」の駅に到着した。駅について空を見上げると、雨は意外と強く降り注いでいた。私たちの本分である東海道を踏破するという思いは、この自然の力にははかなくもなげてしまい、「電車で平塚まで行こうか」という案が、千明さんから出され、「そういうのもありだよね」と、ちょっと気持ちの中には戸惑いもあったが、私も賛成し、こういう運びとなった。
でもこの判断が結果的には、歩いていたら見ることがなかった、展示内容の奥深さや展示の構成の見事さ、はたまた展示模型の素晴らしさに感動する「平塚博物館」に行くことが出来たのである。一つの選択が違う道への道しるべとなる、人生の面白さを今回も感じた。
藤沢本町駅から藤沢駅に行き、JR東海道本線に乗りかえて「平塚駅」に行く。東海道本線に乗りながら、辻堂駅や茅ヶ崎駅を抜け、相模川を渡り平塚の駅に着いた。実際歩いていくのなると10キロくらいあり、1日がかりであるが、こうやって電車で行くと、20分位で着いてしまうのであるから、なるほど電車は速い。ますますずるした罪悪感が幅を占める。でも、こうやって実感すると、昔の人の時間はほんとゆったりと流れていたのが伺える。
平塚は七夕で有名だが、そのほかはあまり知られてない。でも、どこの大きな駅でも同じだが、駅ビルがドンと建ち、その中に、たくさんのお店が入っていて、人々の購買意欲を駆り立てる。私たちも、まずは腹ごしらえとして、平塚名物ではないが手ごろな「塩大福」を食する。甘さ控えめで味も量も丁度よい。
駅前にはバスのロータリーやアーケードが幾十にも並び、2車線の道路が縦横に走っていた。
私たちは、まず、平塚宿を目指す。約1.4キロの街道が今も残っていて、所々にその時代にあった見附の跡や高札場の碑とかがあり、当時を忍ばせていた。
平塚宿の出入り口には、江戸側には江戸見附が、京側には京方見附が置かれていた。これは交番みたいなもので、城下に出入りする人々を見張る役割があったらしい。きちんと整備され、昔あった形跡を残していた。
途中、街道からそれて、お寺らしきものがあるので、そちらに行く。そこでまた、発見。「平塚の塚」があった。桓武天皇の三代孫である高見王の娘政子が東国へ向かう旅の途中、この地で逝去し、棺をここに埋葬し、墓として塚が築かれた。この塚の上が平らになっていたことから、この辺の人は「ひらつか」と呼んでいたそうである。それがこの地の由来でもある。もう一つここで、千明さんが閃いたことがある。それは、この時代武士は平氏と源氏に分かれていて、桓武は桓武平氏といって苗字に「平」が付く。だからこの亡くなった政子も平政子となり、「平政子の塚」から平塚になったのではないかとも言っていた。「なるほど」と感心し、今日の千明さんは回転がいいなーと妙に納得してしまった。
平塚宿の終わりの方には京方見附があり、その少し先には、花水(はなみず)川が流れている。音だけで聞くと少し汚らしいイメージがあるが、漢字で見るときれいだ。そこに花水橋が架かっているが、そこら辺から見た景色を広重は浮世絵に描いている。ひょうたんみたいに突き出している高麗山(こまやま)を描き、その右横に小さく白い富士の山を半分隠れるようにして描き、そしてそのまた右横に、険しい大山がそびえ立っている。その手前には飛脚が平塚宿を京方見附のほうから川を渡りながら何やら担いで運んでいる、あの有名な絵画である。私たちはその広重が見ていたであろう場所に立ち、晴れていたら、富士山が見えるのかもしれないと、目を凝らしてじっとその景色を見ていた。何やら雲の向こうに白いものがかすんで見えている様にも思えたので、「あれそうじゃない」などと言い合っていたが、どうも実際は見えないのではないかと、何かに書いてあって、少々がっかりした。絵は何分、作者の創作がいたる所にあるものだ。
平塚駅の方に戻り、お腹もすいてきたので、食べるところを探す。市民ギャラリーなるものが通りにあり、レトロな雰囲気で、値段がリーズナブルなのでそこの食堂に入ることにした。それが、また正解で、日替定食を頼む。えびやカツフライ・お刺身・サラダ、それに食後にはコーヒーまでついて何と714円。それにおいしくて、大満足。ゴールデンウイークに行った奈良の神社や吉野宮・吉野川の素晴らしさをブログや写真を見せながら、口角を飛ばしながら話す。しばらくそこで歓談休憩。
このあと、「じゃあ博物館でも行ってみるか」と軽い気持ちで行ったのが、展示物の奥深さに驚いた平塚博物館。もちろんこの平塚の名所である平塚宿の様子の資料が展示されたあったり、200分の1位に縮尺された模型もあり、宿場町の様子が細かく分かりやすく展示されていた。
でも私たちが驚いたのは、もっと別のことである。
この博物館のコンセプトは「相模川流域の自然と文化」であり、私たちの住んでいるこの相模原もその対象に入り、関係あるものがたくさん展示されていた。その中に、相模川流域を探るとして、丸く大きな円形台に富士山から相模湾に達するまでの地形模型が置かれていた。そこには相模湾に流れ込む相模川や酒匂川・勝目川(花水川は勝目川の下流のこと)の流れる様子がボタンを押すとランプが付いて示してくれたり、私たちが今歩いている東海道を示してくれたりする。驚いたことに江戸時代前の東海道は箱根を通らずに足柄の方を大きく迂回して小田原の方に来ていた。これも発見で、確か横浜の県立歴史博物館に行ったときに源頼朝や北条政子は伊豆の蛭が小島から鎌倉に来るときに足柄の方を通ったと学芸員の方が言っていたことを思い出した。江戸時代前なのでまだ箱根の方は通っていなかったのが分かった。また、相模川の渡船場と河岸なるものも壁一面に掲示してあって、昔は田名や津久井の方にもたくさんの船着場があって、船で渡っていたのが分かる。そういう一つ一つのことが私たち庶民に視覚的にも分かりやすく理解しやすく展示されていることである。また行きたいと思った博物館であった。閉館の放送が流れてきたので、この博物館を後にする。
この敷地に宮沢賢治の言葉が刻まれていた。「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」そうだよね~、でも・・・
ここで震災後テレビで流れていた賢治のACのCMの言葉を思い出そうとしたがしっくりいかなくて、二人して悶々とする。「思いやりは見えないが心遣いは見える?だっけ」「優しさは見えないが気遣いは見える?だっけ」
平塚駅に戻り、お茶をして例の東海道の安藤広重の平塚の葉書を書き、ポストに投函した。
町田の東急の上で夕飯を食べて(今度はスパゲティ)、また、こういうことができる幸せに感謝しながら、今回も締めくくる。 16000歩 約9.6キロ歩く