wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

「なさけは味方 あだは敵なり」武田信玄 云く 

2014-08-30 14:54:09 | 旅行記
平成26年8月24・25日 山梨方面へ旅行に行く。
総勢19名。

一日目は、あまり暑くなく曇り空の程よい天気だったが、二日目の朝は雨模様でぶどう刈りが心配だったが、何と行ったメンバーの中に「晴れ女」さんがいて、バスの中で降っていた雨が、見事、ぶどう刈りをする頃には晴れ間も見えて、滞りなくぶどう狩りをすることができた。このパワーあやかりたい。

山梨といえば、武田信玄である。主に恵林寺と武田神社をとどめておこう。

まずは恵林寺。ここは武田氏の菩提寺である。主な有名どころは信玄の墓と柳沢吉保夫妻の墓である。庭園も見事であった。「心頭滅却すれば 火もまた涼し」と言いながら、織田方に焼き討ちされた時に焼死したお坊さんの話は有名である。
           


次に宝物館へ。1580年代前後の戦いが日本地図に分かりやすくまとめてあったり、
武将の生存年が一覧表になっていて分かりやすかった。何と信玄の父親の信虎の方が信玄よりも一年くらい長生きしているのには驚いた。
  
 

次に、武田神社。この地は躑躅が崎(扇状地の中央あたりをこう呼ぶ)になっているので、信玄の父信虎は石和からこの地に本拠地を移してきて、躑躅ヵ崎館を構えた。その跡に建てられたのが、武田神社である。信玄を祭神としている。

信玄は「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり」というように、城は持たずに、館としてこの地に構えていた。幾度の合戦はここから出陣していた。なるほど、扇状地としてのこの地は、山の谷間から平地が広がり、東西はもちろん山である。自然の要塞に囲まれ、攻めづらく、守りやすい造りになっていた。

また、一番驚いたのが、川中島の戦いで、第4回目の大きな合戦で山本勘助の「キツツキ戦法
が見破られ、妻女山に上ったら、もぬけの殻だった戦いで、謙信方が、陣があるように見せかけて、毘沙門天の旗が立てかけてあったのを、戦利品として持ち帰った、その「毘」の字が書いてある旗が展示してあったことだ。ホントかな~
         


昇仙峡では怒られながら蕎麦打ちもしたっけ。太さが違う麺、美味しかったです。
勝沼のワインも試飲しました。お土産はワインではなく、ホタテのワイン煮でした。
ぶどうがたわわになっているところを始めて見ました。桃がみずみずしくて美味しくて、山梨は果物の宝庫だと改めて思いました。
もっとじっくり行ってみたいところです。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は変われると「マラソンジャンキー」(小野裕史著)を読んでこう思った。

2014-08-17 10:07:18 | 読書日記
ラジオにゲスト出演していて、話を聞きながら、「マラソン中継で、時々変なコスチュームを着て走っている人たちがいるけど、この人たちなのかな~」「ジャンキー(中毒者)ってどのくらいなんだろう」くらいな感覚で、この本をリクエストした。
読んでみて、最初は流し読みみたいな感じだったのが、だんだん、このストイックな生き方にド肝を抜かして、思わずじっくりと読んでいる自分がいた。

3年半ほど前は、マラソンはおろか、35年間運動ゼロで、趣味は「インターネットと読書とゲーム」と言っていた人が、フルマラソン(42.195km)どころか、100km、160km、北極、南極まで走り、はたまた高地南米チリのアタカマ砂漠で、10キロ程の荷物を担いで、250kmをチーム3名で走る超過酷なレースに参加し、何と世界1になるという偉業を成し遂げる。
    

この著者小野裕史さんが言っている。
 小さなきっかけでも、「心の羅針盤」の針が動いたら、まず動いてみる。「できるかどうか」ではなく「まずは、やってみる」ことが大切であると。
 結果、こけたり失敗も増えてしまうけど、その分学びのチャンスだって得られる。動かなければ、見える景色は変わらないままだけど、動いてみれば「こっちはなんだか違和感がある」「こっちはひょっとしていいかも」などと自分の進みたい方向が見えてくる。
ダーウィン先生だって「未来に生き残る生物は、最も強いものでも、賢いものでもなく、最も多くの変化のチャンスを創ったものだ」と言っている。

東京大学を出て、大学院で生物学者になろうと勉学に励んでいた人が、モバイルメデイアに動かされ、ベンチャー起業家になり、今ではベンチャー投資家になっている。そんな人の言う言葉には重みがある。それに、お金持ちなんだろうなと思う。

また、謝辞には、「奥さんに感謝することはもちろん、元気に前向きに育ててくれた両親とその先祖、この本を書く縁をもたらして頂いた、書ききれないほど沢山の、全ての方々と、その先祖に感謝致します」と、書いていた。

「先祖」と書いてあるのが、面白かった。命のつながりを意識しているのが分かる。私も五十有余年生きてきたけれども、目に見えない絶対的なものに生かされていることを感じることがあるからだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木之本の賤ヶ岳、河毛の小谷城、そして長浜城

2014-08-13 13:01:02 | 東海道珍道中
 平成26年8月9・10日、台風11号が四国・中国地方に接近してくるという中、私たちは、かねてから計画してあった琵琶湖北部方面のウォーキングを敢行した。

結果からいうと、やはり10日は朝からすごい風雨で、新幹線は間引き運転で動いてはいたが、果たしてどうなるか不安だったし、青春18切符できている私たちには、やはりお金がかかるし、普通電車の方は動いていなくて、それに動き始めたとしても、東京の方まで行く電車は難しいということで、泊まった方が安心だと結論し、泊まったビジネスホテルにもう一泊することにした。

でもそのおかげで、また関ヶ原の資料館に行くことができて、前回よく分からなかったところが分かったのでよかった。

また今回は、風雨の関係で、バスで回ったり、駅で資料を見たりすることが多かった。歩かずにバスで見て回る新しい形式を開拓した旅でもあった。

では、行った順番に残しておこう。

まずは、上溝駅5時50分の茅ケ崎行きから出発だ。賤ヶ岳がある木之本駅に着くのは、14時27分。約8時間30分かかるのだ。時間はかかるが、料金は安い。青春切符で行くと、2370円也である。
行きの電車の中から見た富士山は、前に行った足立美術館の横山大観の富士の絵に似ていた。墨絵のように紗がかかっていた。
 


木之本駅では、私たちも初めて知ったのだが、大河ドラマ「黒田勘兵衛」の黒田家発祥の地ということで、「ドラマ館」が出来たり、賤ヶ岳だけでなく、その他のところも観光してもらおうと、「おもてなしバス」が数々の史跡を回ってくれるサービスをしていた。

私たちは、賤ヶ岳の戦い(信長亡き後の跡目争い)の場所をを目当てに行ったのに、黒田勘兵衛につながりがあったり、またここは国宝級の観音様が安置してあったりと驚いた。この観音様は、信長がお寺の焼き討ちを発令した時に村人たちはこの観音様を土や水に埋めて守ったと話していた。だから一つの観音様の手は無くなっていた。
         

北陸鉄道で南下して、河毛(かわげ)駅に行く。そこから歩いて30分位のところに、小谷城があるらしい。やはり風雨が強いので行かずに、この駅に降りて駅の中の資料を見た。小谷城は浅井のお城である。信長と浅井・朝倉の戦い、姉川の合戦は有名である。お市と3姉妹を城から救出したのはこの戦いのあとかな?
    

長浜駅に行く。そこの駅前に秀吉と三成のあの有名な「三献の茶」の像があった。三成はこの長浜の石田町というところの出身であるから石田と名乗ったという。
ここで石田町はどんなところなのか興味があったので、巡回バスに乗って行くことにした。バス停で石田という地名が書いてあるバスを探して乗った。本来バスはそういう目的でないので、怪訝な顔をされたが、一区間のバス料金(180円)で長浜駅まで戻ってきた。申し訳ない感じがした。石田三成の出生地という看板はあったが、うまくカメラに収めることができなかった。夜は名物の「のっぺいうどん」を食べる。近江牛の肉を乗せたうどんで、とろみをきかせたしょうゆ味の汁で、とっても美味しかった。有名な人が数々来ているうどん屋さんだった。
     

2回泊まることになるビジネスホテルに泊まって、次の日は、長浜城である。
長浜城歴史博物館では、秀吉飛躍の契機となった「中国攻め」を取り上げていて、播磨・備前・備中などの武将たちの立場から、侵略者としての「秀吉」を展示していました。
 姫路城(勘兵衛が生まれた)・御着城(小寺)・有岡城(村重)・三木城(別所)・ 上月城(尼子)山中鹿之助(尼子氏再興を画作し活躍、最後は毛利に護送中斬られる)
 備中高松城(清水宗治)・鳥取城(吉川)
秀吉は、兵糧攻めをよくしていて、食べるものがなくなった城の中の人たちは、死んだ人の肉まで食べていたという記述が残っていた。
夜は、風雨もおさまったので、琵琶湖のほうに散歩した。  
   


3日目は、朝から天気よく、ゆっくり帰る。

途中、関ヶ原に寄って「関ヶ原歴史資料館」へ行く。「二兵衛の息子 黒田長政と竹中重門」の特別展をやっていた。

黒田長政は関ヶ原合戦前の小山評定の時に、福島正則を説得し東軍につかせている。
家康はこの時、妻子を大阪に取られているので、こちらにつかなくても文句は言わないし、大阪に行くのだったら馬を用意させるとまでと家臣たちに言っている。でも、そこで福島正則が、「人質のことを考えて事を起こすのは、武士の本懐ではない」と口火を切ったことによって、みんな東方に入った。

もう一つの功績は、小早川秀秋への攻略である。関ヶ原合戦前に長政は家臣の大久保・大音の二人を秀秋の家臣平岡の元に張り付かせておいた。前日の9月14日には、書状をつかわしたが、この地に明るい竹中家臣一人が敵に見つからないように届けた。
この長政の家臣大久保は、なかなか動かない小早川家に対して、刺し違えも辞さない剣幕で催促したと資料に書いてあった。

竹中氏はこの関が原に近い「垂井」が本拠地である。関ヶ原の時にこの地に明るい竹中が本陣の配置を進言したという。また、この戦いで亡くなった兵士を供養するように家康に仰せつかったのも竹中重門だという。
             


帰りの電車では、まんまるい大きな月(今はスーパームーンの時期らしい)が海から上がってきていた。走っている電車からはよく撮れなかったが、二人して見とれていた。
 

こうして、台風の影響を受けながらも、無事に行ってこられた。
みんなに感謝してもしきれない。
   一日目 5032歩(3.0キロ)
   二日目 9055歩(5.4キロ)
   三日目 6595歩(3.9キロ)
やっぱり電車バスの移動は、ほとんど歩いていないので、歩数が少ない。



 


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国地方の有名どころを網羅。

2014-08-06 12:11:38 | 旅行記
 平成26年8月3.4.5日 偶然見かけた旅行パンフレットに、私が行ってみたいところが満載していたパックを見つけたので、思わず申込み、今回の旅行となった。

厳島神社は5年前くらいに行っているけど、そこだけがかぶっているだけで、あとは初めての所が満載だった。

順番に追っていくと、まずは、広島の宮島、厳島神社参拝。
    


でも、厳島は、毛利元就が陶氏を破った厳島合戦の戦場で、戦国の三大合戦だということを本を読んで知ったので、その場所に行けて良かった。毛利が元就が立てこもった要害山というところは、見た目には小高い丘で、三方から子どもたちが来なければ敗れてしまっただろう。
新聞を読んでいたら、ちょうど厳島合戦のことが出ていた。毛利元就が、陶氏と戦うのに、是非とも味方につけたいと思ったのが、村上水軍で、村上水軍が元就側についた事で、この戦いが勝利できたと書いてあった。
 

そのつながりとして、2日目に歩く世界遺産といわれている石見銀山に行った。
      


大航海時代の16世紀、石見銀山はヨーロッパでよく知られていて、世界の産銀量の3分の1はこの石見から採掘されたという。だから秀吉も家康もこの石見を自分の領土として管理したかったのだ。

中国地方は、もともとは毛利が傘下に入る大内氏の領地だったけど、その大内の殿様がしっかりした政治をしなかったことで、重臣であった陶氏が大内を乗っ取り、その勢力を絶大にした陶氏を、この厳島合戦で、毛利が破ったということで、中国地方を毛利が治めたという。その後、秀吉は銀山だけは自分が管理し、関が原後は家康は天領として管理している。

世界遺産を歩いていると、豊栄神社なるものがあった。
  

毛利の殿様の肖像画が祭ってあるという。

一日目は厳島神社のあとは、バスで北上し、山口県の萩に行った。
一度は行ってみたかった松下村塾に行った。こんな小さいところでそれも28歳の若さで幕末の志士たちにこれからの道を教えたのかと驚いた。
次の日の朝早くには、萩の城下町を歩いたが、あまりにも早くてほとんど見学できなかった。高杉晋作の家や銅像があった。
来年の大河ドラマ「花燃ゆ」はここの町が舞台となる。吉田松陰の妹文(ふみ)をヒロインに展開するという。
夏みかんの木がそこかしこに植えてあり、藩の窮乏を補うために各家に植えさせたという。夏みかんはいつもなっていて、途切れることがないから、代々繁栄してほしいという願いも込められているという。だから橙(だいだい)という。
夕飯は「フグづくし膳」。刺身が一番美味しかった。煮たり焼いたりすると、ただの白身の魚になってしまう。
            


2日目は、日本海の海岸線を東に移動して、石見銀山に行き、それから島根県の出雲大社に行く。本当の呼び名は「いずものおおやしろ」というそうである。
宍道湖の西にあって、随分端の海に面したところにあるのだなと思った。60年ごとに行われる式年遷宮が終わったばかりで、綺麗な藁葺き屋根になっていた。
   


2日目のホテルは、鳥取県の大山(だいせん)グランドホテル。富士山みたいになだらかな裾野を持つ大山の中腹に位置する。食事はバイキング形式でメニューが豊富で美味しかった。特にローストビーフは何枚も食べてしまった。

3日目は、島根県に戻って、足立美術館に行った。横山大観の作品が主流である。何と横山大観は明治元年に生まれている。奥さんや子どもさんを早くに亡くしていて、私生活はちょっと寂しい人だなと思った。まあ、何度も再婚はするのだけれども・・・
足立美術館は、庭園が素晴らしい。
    


次に、鳥取砂丘に行く途中に因幡の白兎で有名な白兎海岸を車窓から見た。
  


次に、鳥取砂丘に行く。ほんと砂の上を歩くのは、疲れる。長靴に履き替えても、砂が靴下の中に入ってくる。裸足で歩いていた人がたくさんいた。ガイドさんは、ストッキングで歩いたら、粒が細かいからストッキングの中に入ってみっともなかったと言っていた。
砂丘の上まで行ったら、海側は意外と急角度である。ここから落ちたら怖いなと思っていたら、「この砂の角度は何度だと思いますか?」とパトロールの人が質問してくれ、こんな急だから「45度くらいかな」と言ったら、「35度」だと教えてくれた。砂は落ちると自然に35度になるらしい。砂時計がそうだという。何でこんなところでパトロールしているかというと、何と前日中国の人ふたりが、目の前の海岸で泳いでいて、波にさらわれて亡くなってしまったということで、パトロールしているという。日中関係が悪化している中で、もっと悪くならなければよいがと思った。
また、近くに砂の博物館が有り、巨大な砂のアートを展示していた。
       


最後に、鳥取砂丘から東に30分くらい行くと富浦海岸がある。そこで遊覧船に乗って
この旅行の最後の観光になる。
   

今回も、たくさんのことを知ることができて、幸せである。神に感謝である。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする