平成26年2月22日(土) 天気も良く、しばらくぶりの散策をした。でもあの大雪の残骸は道のあちらこちらにまだ残っていた。
場所は、昔、6千年くらい前のこの辺は温暖で海岸線が高く、この辺まで海で、海老がよく取れたからとか、海老の殻のように土地が河岸段丘だからこう言われるようになったとか言われる「海老名」に行ってきた。
この海老名は、昔から幹線道があり、人が集まっている要所であったので、741年に聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出した時に、7つの幹線道の周辺に建てられた64の国分寺の内の一つが建てられた。
どうして海老名に国分寺が建てられたかというと、建築技術を持っていた「壬生氏(みぶし)」がここに住んでいた。この壬生氏は京都から来た渡来人で、当時最先端技術の大陸文化を持っていたという。
一緒に国府が置かれてもいいはずだが、国府は平塚にあるという。でも、その文献の記述が、8世紀末に建てられたとあるから、その前にどこにあったかは、平塚でもいいし、海老名でもいい。実際のところはまだ分かっていないという。順当に考えれば、やっぱり海老名にあったのではと思うが、昔の感覚は平塚や海老名を同じ地域と考えるくらいの大ようさがあるのかも知れない。
では、順を追って書いていこう。
国分寺に行く途中に大きなケヤキに遭遇した。船の杭から芽が出て育ったと伝説がある大木だ。
「高野山真言宗国分寺」へ行く。そこには、国分寺が廃れてきた時に、薬師寺を現在の国分寺に転移させ、そこに国分季頼が鐘を寄進した。その鐘は鎌倉の円覚寺にある鐘を造った物部邦光が造ったと書いてあった。
その次に、国分寺跡に行く。ただっ広いところをよく残しているなと感心した。
その近くの資料館に入る。そこには学芸員の方がいて説明してくれた。
この海老名の地には、秋葉山古墳群があり、そこに葬られた人は「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼と同じ時代に生き、海老名の地を治めていたと考えられる。
そのあと造られた国分寺のシンボル的建物である七重塔の最先端には金のメッキが塗られていて、それが発掘されて飾られていた。純度90%というから、驚きだ。この金は、東北の方で発掘され、大仏で使われたのと同じだという。この国分寺の模型からもわかるように、8世紀にはこのような建築が施されているのだから、渡来人の技術はすごいなと感じた。
相模国最古の神社である「有鹿神社(あるかじんじゃ)」に行く。
その近くに総持院があった。この院の説明書きに、新田義貞が鎌倉を攻めた時に、この寺も焼き討ちにあい、再建したという。以前私たちが行った地である小手指原や分倍河原の戦いのあと、新田義貞はこの海老名の地にも来て戦っていた。その後鎌倉まで南下していったらしい。こんな繋がりがあるから歴史は面白い。
海老名氏霊堂に行く。相模川の河原近くにやっと見つけた。この海老名氏は横山党の流れを組むらしいことが分かった。
国分尼寺には行けなかったので、説明板のを貼り付けておく。
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今回は国分寺のことを知れたウォーキングであった。日本は8世紀には、中央集権国家の礎を作っていた。国分寺の建設費が足りなくて頓挫しそうになった時、そこに住む豪族たちに永久に官職を与えるというお布令を出して、聖武天皇の葬儀には全国に国分寺が建立し整ったという。
また、その当時にはもう幹線道が日本各地を結んでいたことにも驚いた。これからは国分寺も歴史散策のひとつの課題としていこうと二人してうなずきあった。
場所は、昔、6千年くらい前のこの辺は温暖で海岸線が高く、この辺まで海で、海老がよく取れたからとか、海老の殻のように土地が河岸段丘だからこう言われるようになったとか言われる「海老名」に行ってきた。
この海老名は、昔から幹線道があり、人が集まっている要所であったので、741年に聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出した時に、7つの幹線道の周辺に建てられた64の国分寺の内の一つが建てられた。
どうして海老名に国分寺が建てられたかというと、建築技術を持っていた「壬生氏(みぶし)」がここに住んでいた。この壬生氏は京都から来た渡来人で、当時最先端技術の大陸文化を持っていたという。
一緒に国府が置かれてもいいはずだが、国府は平塚にあるという。でも、その文献の記述が、8世紀末に建てられたとあるから、その前にどこにあったかは、平塚でもいいし、海老名でもいい。実際のところはまだ分かっていないという。順当に考えれば、やっぱり海老名にあったのではと思うが、昔の感覚は平塚や海老名を同じ地域と考えるくらいの大ようさがあるのかも知れない。
では、順を追って書いていこう。
国分寺に行く途中に大きなケヤキに遭遇した。船の杭から芽が出て育ったと伝説がある大木だ。
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「高野山真言宗国分寺」へ行く。そこには、国分寺が廃れてきた時に、薬師寺を現在の国分寺に転移させ、そこに国分季頼が鐘を寄進した。その鐘は鎌倉の円覚寺にある鐘を造った物部邦光が造ったと書いてあった。
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その次に、国分寺跡に行く。ただっ広いところをよく残しているなと感心した。
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その近くの資料館に入る。そこには学芸員の方がいて説明してくれた。
この海老名の地には、秋葉山古墳群があり、そこに葬られた人は「魏志倭人伝」に登場する卑弥呼と同じ時代に生き、海老名の地を治めていたと考えられる。
そのあと造られた国分寺のシンボル的建物である七重塔の最先端には金のメッキが塗られていて、それが発掘されて飾られていた。純度90%というから、驚きだ。この金は、東北の方で発掘され、大仏で使われたのと同じだという。この国分寺の模型からもわかるように、8世紀にはこのような建築が施されているのだから、渡来人の技術はすごいなと感じた。
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相模国最古の神社である「有鹿神社(あるかじんじゃ)」に行く。
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その近くに総持院があった。この院の説明書きに、新田義貞が鎌倉を攻めた時に、この寺も焼き討ちにあい、再建したという。以前私たちが行った地である小手指原や分倍河原の戦いのあと、新田義貞はこの海老名の地にも来て戦っていた。その後鎌倉まで南下していったらしい。こんな繋がりがあるから歴史は面白い。
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海老名氏霊堂に行く。相模川の河原近くにやっと見つけた。この海老名氏は横山党の流れを組むらしいことが分かった。
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国分尼寺には行けなかったので、説明板のを貼り付けておく。
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今回は国分寺のことを知れたウォーキングであった。日本は8世紀には、中央集権国家の礎を作っていた。国分寺の建設費が足りなくて頓挫しそうになった時、そこに住む豪族たちに永久に官職を与えるというお布令を出して、聖武天皇の葬儀には全国に国分寺が建立し整ったという。
また、その当時にはもう幹線道が日本各地を結んでいたことにも驚いた。これからは国分寺も歴史散策のひとつの課題としていこうと二人してうなずきあった。