wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

大船から鎌倉には隠れ切通しがあった

2022-07-09 08:13:20 | 近郊のウォーキング
令和4年7月2日(土)「鎌倉探求散歩 大船から鎌倉への道」のツアーに行ってきた。千ちゃんがたまたま見つけてきて、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目されている鎌倉で、私たちがあまり行ったことがない所を巡るというので、参加した。

この日は週初めに梅雨が明け、気温が35度越えの猛暑日で、帽子や水分、首回りと暑さ対策をして出かけた。市街地を歩くのはさすが苦しかったが、鎌倉の切通やお寺の高台は風が通って、暑さが少しは和らいだ感じだった。

まずは「大船」10時集合。そこから鎌倉道とかを歩いて、「常楽寺」へ。
このお寺は、1237年北条泰時が開基したという。大河で頼朝と対立した「木曽義仲」の長男「木曽義高」(大姫の許嫁)のお墓もあった。近くには宮姫の祠があり、はっきりとは記さないが、大姫のお墓ではないかと言っていた。


次に、念願の「高野の切通し」と「長窪の切通し」
人がやっと一人通れるくらいの道幅のところがあったり、出てきて後ろを振り返ってもどこから出てきたのかわからない感じで、そこに住んでいる人でなければ使えないところだったのではないかと思った。だからなのかもしれないが、鎌倉時代から800年もたっているのに、昔のまんまで残っている。凄ーい!
切通を出てきたら、大船観音が向こうのほうに見えた。
        


歩いて北鎌倉駅のほうへ行く。駅には夏目漱石の小説「」という名の喫茶店があった。
 


次に、「円覚寺」へ
1282年創建、開山は無学祖元、無学というのは学が無いという意味ではなく、もう学びつくして、学ぶものがないという、お坊さんの最高位名前なんだそうだ。開祖は北条時宗。元寇の戦没者供養のために建てられたという。関東武士(坂東武者)の勇ましい戦い、(神風で勝ったとばかりは言えない)の記録もあるそうだ。
      


そして 「建長寺」へ
1253年創建、開基は北条時頼、
       


閻魔様で有名な「円応寺」へ
   


最後は、鶴岡八幡宮で解散となった。
  

暑さとの戦いであったが、こうやって好きな歴史に少しでも向き合えるのは、嬉しいことである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田川下りで雷門から両国橋駅と高井戸

2019-12-29 11:24:09 | 近郊のウォーキング
令和元年12月28日(土)、久しぶりのウオーキングを行った。
千ちゃんが「隅田川橋めぐり」なる切り抜きを持っていて、江戸を東西に分ける隅田川には昔は5つの橋が架かっていて、大切な「橋渡し」を担ってきたと書いてある。橋は最初はもっと上流にある「千住大橋」しか架けられていなかったが、1657年の「明暦の大火」で、逃げまどう人々の行く手を阻んだのが、この隅田川であったとある。それから幕府は、「両国橋」「新大橋」「永代橋」「吾妻橋」と、橋を架けたという。
ウオーキングがてら行ってみようかということになり、今回のウオーキングとなった。また、以前見た「孤独のグルメ」でやっていた高井戸にある洋食屋さんに一度行ってみたいと思っていたので、それも計画に入れて、行ってきた。
それでは、浅草の浅草寺から始めよう。
まずは雷門を見た。そして、浅草寺の中を通って、言言問橋(ことといばし)へ、そこからは、スカイツリーがきれいに見えた。
     

そこから隅田川沿いを歩いて、吾妻橋の方へ、墨田公園があり、そこは元々水戸藩邸があったところだという。徳川慶喜も静岡から東京に来たときはここに泊まったという。牛島神社があり、そこには大きな牛(撫で牛)の像があって、悪いところを撫でると治る、心もよくなるという。吾妻橋に行くまでに、勝海舟の像があった。この辺りが生育地であるので、建てられたのかなあ。
         

吾妻橋から両国橋に行く間の両国には、赤穂浪士の討ち入りがあった「吉良邸」があったり、この辺りは勝海舟や芥川龍之介が住んでいたところであったらしい。両国公園には、勝海舟に関する説明の看板が立っていた。近くの両国小学校のところには芥川龍之介の「杜子春」の一文が彫ってある碑が立っていた。
                

両国橋についた。少し先には神田川が流れ込んでいた。その神田川には、船宿が並んで立っていた。昔から風情がある。
   


隅田川を下り,そろそろおなかもすいてきた。高井戸の「EAT」は、とても人気のある店だ。午前の時間は2時までなので、ここから急いで高井戸まで行く。
だが、やはり・・・。仕方ないので、次回ということで、高井戸で食べられるところを探す。猫喫茶「マカボイ」でジュージューライスを食べる。美味しかった。
    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宮氷川神社(武蔵一之宮)と岩槻城と太田道灌

2018-03-03 08:44:55 | 近郊のウォーキング
平成30年2月24日(土)、かってから興味があった武蔵一之宮である氷川神社とその近くの岩槻城近辺をウォーキングしてきた。
朝は少し肌寒い感じだったから、薄手のダウンを羽織っていったが、歩いていると汗が出るくらいになり、途中から手に持ってのウォーキングになった。

まずは、大宮駅へ。
大宮は中山道の宿場町として栄えた町だ。現在は新幹線も通っていて、都心と変わらないくらいの大きな街であった。
歩いて20分くらいのところに「氷川神社」がある。参道が長く続いていて、大きな鳥居が途中にそびえる。

そこで、一番驚いたことは、参道のわきに長い絵巻物があり、それが明治天皇が行幸した時のことが描かれていて、
その中に有名な人物の名前を見つけたことだ。西郷隆盛と大久保利通である。
明治天皇が都を東京に遷都して、その時に1キロ近くの行列がなり、この氷川神社に立ち寄ったという。
      

また、この大宮氷川神社は、古事記によると、大国主命が天照大神など高天原にいる神々に国を譲るとあり、平安時代前期、代々出雲を受け継ぐ古代出雲の一族である出雲族の須佐之男命を奉じてこの地に移住したといわれている。その出雲氏が武蔵国造となり、この地を開拓したと、千ちゃんがまとめてくれたのにあった。だから、氷川神社の神様は須佐之男命なのであろう。

次に、岩槻駅へ。岩月は人形の町である。丁度おひなさまも近いので、つるしびながそこかしこで掲げてあった。
 

岩槻城は、お堀もほとんど埋め立てられ、城の形は残ってはおらず、城址公園として、市民の憩いの場として、あった。
天気も良いので沢山の人で賑わっていた。
    

近くに、太田道灌の銅像があるというので行ってみる。
太田道灌は、伊勢原で毒殺をされるが、その遺骨と遺髪を引き取りに行ったのが、太田道真(道灌のお父さん)と太田資公(道灌の養子の岩槻城主)であり、分骨してこのお寺、芳林寺に埋葬しているということである。
   

今回も主に2つの歴史的史実を知ることができた。面白いものである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山道 日本橋から板橋宿へ

2014-07-22 16:40:37 | 近郊のウォーキング
平成26年7月21日 夏休みに入って3日目の海の日に、久しぶりのウォーキングを行った。今回は日帰りなので、近場でどこかと探して、千ちゃんが持っている「東京周辺を歩く街道みち」?だったかな、から中山道の日本橋から板橋宿までの約10キロを歩くことにした。

中山道は昔大和朝廷の時代は東山道と呼ばれていた。京都から東の方の道を総括して、こう呼ばれていたらしい。江戸時代に整備され、日本橋から京都までの内陸側の道を中山道というようになった。別名「姫街道」と呼ばれ、皇女和宮様はお輿入れの際は、この道を25泊して江戸までたどり着いたという。なぜ東海道を使わなかったのかというと、東海道は、川が多く、氾濫すると何日も足止めをくってしまって、日程が計れなかったということと、大きな大名家が連なり、事件があると大事になってしまうということもあって、中山道を使って江戸に来たという。

日本橋は五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道(宇都宮から奥州街道))の起点地である。
   


日本橋から三越本店の前を通り、神田駅や秋葉原駅の賑やかなところを通って、神田明神や湯島聖堂に行く。
       

湯島聖堂は江戸時代、昌平坂学問所があったところで、幕府の学問所が置かれていた。そこに、「かい」の木が植えられてあり、説明書きには、「楷の木は葉や枝ぶりが整然と生えているとこらから習字で丁寧に書く事を楷書という」と書かれていて、なるほどと感心した。

次にそのまま国道17号線沿いを歩いていくと、有名な東大の赤門が見えてきた。江戸時代は加賀藩の上屋敷があったところで、参勤交代ではここで衣服を整えて、江戸城の将軍に謁見したという。夏目漱石の「三四郎」で有名になった「三四郎池」を見てきた。また、東大の学食は誰もが自由に食べられる。私たちも410円のカレーセットを食べてきた。安田講堂は工事中だった。
      


次に、「おばあちゃんの原宿」として有名な巣鴨のとげ抜き地蔵を洗ってきた。
やっぱり全体的に安い。私も650円のTシャツや500円の帽子を買った。
ここから先は、板橋まで、賑やかな商店街が続く。
  

板橋観光センターで、中山道のことや近藤勇のこと、加賀100万石の前田藩の屋敷があったことからこの板橋は石川県金沢市とは友好都市が結ばれているということ、板橋宿の昔の様子等を詳しく教えてもらった。
近藤勇は、捉えられてこの板橋まで連れてこられ、首を切られて、胴体はここに埋葬さ
れ、首は京都の三条河原にさらし首にされたという。以前私たちが行った東海道の岡崎市の法蔵寺には「近藤勇首塚」なるものがあり、そのことを質問したら、諸説いろいろあると返答された。
                 
 

暑い中をこうやって歩くことができて、ほんと幸せである。
   32284歩で13.5km歩いた。

久しぶりだったので、二人して「疲れた~」と言いながらのウォーキングであった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする