平成23年10月9日(日)三連休の真ん中、一年前に行った「県立博物館」で、学芸員の方が「源頼朝がこの足柄峠を通って挙兵した」ということを言っていたのを覚えていて、当時は東海道は整備されてなく、この足柄峠がある今でいう東名自動車道が近くを通っている方が幹線街道だったようで、その道を見たくなったので、行ってみる事にした。
朝8時頃、車で246号線を西に向かう。
途中、矢倉沢というところで、看板を見ると、この辺は「足柄山の金太郎(別名坂田金時)」の生誕の地だそうで、生家跡や遊んだ岩があるというので行ってみた。鬼退治で有名な源頼光が国司として関東に来た折、その帰りに足柄峠でこの金時を見出したと書いてあった。

金太郎の生家跡近くから見る矢倉岳は、きれいな稜線を携えていた。金太郎は幼少の時から、あの大きな岩と格闘しながら、きれいな矢倉岳に見守られていたのであろう。

それからしばらく足柄峠に向かって走っていくと、車道はきれいに整備されているが、脇から獣道っぽい足柄古道が見え隠れする。

昔の人はこんな険しい道を、上ってきたのである。そういえば、自転車で上っている人が随分いたっけ。現代の苦行である。
足柄峠に到着。そこには足柄関所跡があった。新聞によると「関所といえば箱根の関所が有名であるが、奈良・平安時代の官道は足柄道だったという。関東地方の古名を坂東というが、この坂とは、足柄峠の坂で、ここの関所から東が坂東というようになったのだという」と、書いてあった。なるほど。
そしてこの足柄の関所跡にはなぜか黒澤明監督の「乱」で使われて城門が置かれていた。

どうも調べてみると、源頼朝は関東武士団を率いて、平惟盛を迎え撃つために挙兵し、この足柄峠を通って、伊豆や駿河で戦ったようである。俗に言う「富士川の戦い」である。まだ、壇ノ浦の戦いの前で、鎌倉幕府を開く前でもある。
ちなみに、源頼朝は若い時、伊豆のひるが小島に流されていて、その監視役として北条時政があたっていた。その時政の子が政子である。その時に、知り合って結婚したのである。驚いたことに、東海道珍道中で歩いていた大磯や小田原にあだ討ちで有名な曾我兄弟のお墓があったり、十郎と付き合っていた絶世の美女である虎御前の使っていた井戸を見たりして、親近感を持っていたが、その曾我兄弟の烏帽子親がこの北条時政であったことを知り、はたまた驚愕の思いであった。
また、この足柄峠は豊臣秀吉は足柄城を攻め落としてから小田原を攻めたというので、また驚く。
その足柄城跡は、足柄峠から少し上ったところにあって、そこは平になっていて芝生が敷き詰められてあった。高台からの眺めは素晴らしく、遠くに富士山や御殿場の市街地も見えた。雲がなければ、そこからの富士山は絶景であったろうと思われるが、残念なことに、雲が富士山を覆ってしまい、頂上が少し雲から出て、見えただけであった。
聞いたところによると、ここからの富士山の景色が昔のお札に使われていたのだそうである。
近くに万葉公園というところがあり、そこから名前を取ったのか、万葉うどんなるものを食べた。名物が余りないのか、そこは意外とひっきりなしにお客さんが入っていた。味はまあまあ。
帰路、そのうどん屋さんで、芭蕉の句碑の場所を教えてもらい、行く。実はうどんやさんに入る前に、随分探したが、見つからずにあきらめてうどんを食べた経緯がある。
芭蕉の句碑は、幹線道路の脇にちゃんとあった。

朝8時頃、車で246号線を西に向かう。
途中、矢倉沢というところで、看板を見ると、この辺は「足柄山の金太郎(別名坂田金時)」の生誕の地だそうで、生家跡や遊んだ岩があるというので行ってみた。鬼退治で有名な源頼光が国司として関東に来た折、その帰りに足柄峠でこの金時を見出したと書いてあった。




金太郎の生家跡近くから見る矢倉岳は、きれいな稜線を携えていた。金太郎は幼少の時から、あの大きな岩と格闘しながら、きれいな矢倉岳に見守られていたのであろう。

それからしばらく足柄峠に向かって走っていくと、車道はきれいに整備されているが、脇から獣道っぽい足柄古道が見え隠れする。




昔の人はこんな険しい道を、上ってきたのである。そういえば、自転車で上っている人が随分いたっけ。現代の苦行である。
足柄峠に到着。そこには足柄関所跡があった。新聞によると「関所といえば箱根の関所が有名であるが、奈良・平安時代の官道は足柄道だったという。関東地方の古名を坂東というが、この坂とは、足柄峠の坂で、ここの関所から東が坂東というようになったのだという」と、書いてあった。なるほど。
そしてこの足柄の関所跡にはなぜか黒澤明監督の「乱」で使われて城門が置かれていた。




どうも調べてみると、源頼朝は関東武士団を率いて、平惟盛を迎え撃つために挙兵し、この足柄峠を通って、伊豆や駿河で戦ったようである。俗に言う「富士川の戦い」である。まだ、壇ノ浦の戦いの前で、鎌倉幕府を開く前でもある。
ちなみに、源頼朝は若い時、伊豆のひるが小島に流されていて、その監視役として北条時政があたっていた。その時政の子が政子である。その時に、知り合って結婚したのである。驚いたことに、東海道珍道中で歩いていた大磯や小田原にあだ討ちで有名な曾我兄弟のお墓があったり、十郎と付き合っていた絶世の美女である虎御前の使っていた井戸を見たりして、親近感を持っていたが、その曾我兄弟の烏帽子親がこの北条時政であったことを知り、はたまた驚愕の思いであった。
また、この足柄峠は豊臣秀吉は足柄城を攻め落としてから小田原を攻めたというので、また驚く。
その足柄城跡は、足柄峠から少し上ったところにあって、そこは平になっていて芝生が敷き詰められてあった。高台からの眺めは素晴らしく、遠くに富士山や御殿場の市街地も見えた。雲がなければ、そこからの富士山は絶景であったろうと思われるが、残念なことに、雲が富士山を覆ってしまい、頂上が少し雲から出て、見えただけであった。
聞いたところによると、ここからの富士山の景色が昔のお札に使われていたのだそうである。


近くに万葉公園というところがあり、そこから名前を取ったのか、万葉うどんなるものを食べた。名物が余りないのか、そこは意外とひっきりなしにお客さんが入っていた。味はまあまあ。
帰路、そのうどん屋さんで、芭蕉の句碑の場所を教えてもらい、行く。実はうどんやさんに入る前に、随分探したが、見つからずにあきらめてうどんを食べた経緯がある。
芭蕉の句碑は、幹線道路の脇にちゃんとあった。
