お千香が弥彦のところにやってきた其の日のことを
弥彦は今でもはっきりと覚えている。
玄関の戸口をあければ、そこに思いつめた表情のお千香が居た。
弥彦はすぐには、
なにかあったな。
と、思い、
お千香の胸のうちを聞いてみようと思ったし、
お千香も弥彦に話す気で居るのだとも思った。
「まあ、茶でもいれるから、あがってくんな」
三畳の小さな部屋は
居間であり、寝間でもある。
奥の四畳半が弥彦の仕事場にもなっていて、
仕事の道具も置いてあるし、
人を通せる場所ではない。
「ごめんよ。急に・・・」
ぼんやりとしたまなざしで
弥彦に急な来訪をわびると
お千香は座り込んだまま、
何も言おうとしなかった。
其の姿にけおされたまま、
弥彦もお千香の前に茶をおいたきり、
しばらくの沈黙が続いていた。
「お千香ちゃん?
なんかあったんか?」
弥彦が切り出さないと
お千香は喋りだすきっかけが
つかめないだろう。
普段から無口な弥彦が
ようやっと、声をかけると、
お千香は
喋りだす事を決心するかの様に
いったんは口の端をきっと、固く結んだ。
結ばれた口が開かれたとき
弥彦はお千香の言った言葉の意味が
判らなかった。
「お千香ちゃん?
今?なんていった?
俺は耳がどうかしてるみたいだ」
弥彦の耳に届いたお千香の言葉は
弥彦をからかってるとは、思えない。
お千香の表情は
はじめと変わらず固く張り詰めている。
お千香が唐突に言い出した言葉。
それは、
簡単な言葉だった。
そして、弥彦の聞き間違いでなければ
お千香は確かにこういった。
「あたしを抱いてくれないか?」
訊ね返した弥彦にお千香は
聞き間違いでは無いと応えた。
「な、なにをいってるんだ。
なにがあったんだ?
お千香ちゃん?
あんた、やけになってるんだ?
佐吉となにかあったのか?
喧嘩でもしたのか?」
弥彦の尋ねる言葉、ことごとくにお千香は
違うと首を振った。
「だったら、いったい、なんで、そんな、馬鹿なことをいいだすんだ?」
よもや、俺をからかおうって、気なのか?
言いかけた言葉を喉の奥に引き戻させるお千香の悲しい顔がある。
「なあ、いったい、どうしたんだ?
理由を言ってくれなきゃ、なんの相談にもなりゃしない。
え?いったい、なにがあったんだい?」
たたみかける弥彦をお千香は見詰めかえした。
「理由を言ったら、私の頼みをきいてくれますか」
えっ?
弥彦は其の言葉に一瞬戸惑いとひるみをみせた。
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