憂生は自分の作品をよく、解説?する。
人によっては、作者が自分の作品を解説するのは、おかしい。
という人もいる。
表現しきれてない、と、いう「いいわけ」「つけたし」に、見えるのだろうか?
あるいは、
作者が語ることによって、「そういう読み取り方」に限定させるような、
そういう固定したものを、もたせてしまうことになるからだろうか?
いずれにせよ、
解説するタイプの憂生にはわからない。
憂生が解説するというのにも、二手ある。
書き手の立ち居地で解説するときと、
読み手の立ち居地で解説するときと。
書き手がいくら、こういうつもりで、書いたといっても、
いつかあげた「蛙」へのぶつぶつ・・のように、
読者さまは、すきなように読むだろう。
読者の「なにか」に反応するんだから。
そして、書き手としては、
実にはなもちならない思い方をしている。
こんな、解説なんか、ただの側面のひとつでしかない。
実際の文章を読んでいただければ、
独特のムード、表現が出来ていると思う。
これを解説なんかで、語れるはずが無い。
もっと、他の読み取り方も出来る。
これもある。
ひとつや、ふたつ語ってみたところで、
実際、作品をよんだら、まだまだ、取る所が有る。
いささか、うぬぼれ気味に聞こえたらごめん。
で、読み手としての立ち居地。
作品の解説を自分で書いてみる。
これが、上にかいたことを自分にもっと、実感させる。
「他の読み取り方」
が、見えてくる。
単純に言えば、
「僕が潰した物はそれだけだろうか?」
なんだけど、
この部分が
「解説」を外にほおりだしてしまったことによって、
また、見えてくる。
こういう風に読者として、ある一部分の気づきをいうことがある。
だから、けして、解説ではないとおもってるし、
結局はこれも、下に書いたけど
「自分の目でたしかめてこなけりゃ、見えないもの」
そんなんで、まあ、憂生は読者様の感想からも
いろいろ、考えさせられるし
自分でも考える。
だから、いただいた感想ともども、日記にあげさせてもらってる。
そういうことなので、書いてる途中でも、よく「ぶつぶつ」いう。
それも、ひとえに、憂生が「物書き」のせいだと思っている。
作家は作品という家を作る。
家に「品格」をもたせるから、本人からの「解説」はいらない。
作品で勝負なんだろう。
でも、物書きは
「物」を書く。
自分の中の「もの」を文字に変えていく。
だから、解説も自分の中の「もの」。
これを、物書きの習性で「文字にしてしまう」。
憂生にとっては、それだけでしかないんだけどね。
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