憂生’s/白蛇

あれやこれやと・・・

物書きの習性

2022-09-16 22:36:01 | 創作談義

憂生は自分の作品をよく、解説?する。

 

人によっては、作者が自分の作品を解説するのは、おかしい。

 

という人もいる。

 

表現しきれてない、と、いう「いいわけ」「つけたし」に、見えるのだろうか?

あるいは、

作者が語ることによって、「そういう読み取り方」に限定させるような、

そういう固定したものを、もたせてしまうことになるからだろうか?

 

いずれにせよ、

解説するタイプの憂生にはわからない。

 

憂生が解説するというのにも、二手ある。

書き手の立ち居地で解説するときと、

読み手の立ち居地で解説するときと。

 

書き手がいくら、こういうつもりで、書いたといっても、

いつかあげた「蛙」へのぶつぶつ・・のように、

読者さまは、すきなように読むだろう。

 

読者の「なにか」に反応するんだから。

 

そして、書き手としては、

実にはなもちならない思い方をしている。

 

こんな、解説なんか、ただの側面のひとつでしかない。

 

実際の文章を読んでいただければ、

独特のムード、表現が出来ていると思う。

これを解説なんかで、語れるはずが無い。

 

もっと、他の読み取り方も出来る。

これもある。

ひとつや、ふたつ語ってみたところで、

実際、作品をよんだら、まだまだ、取る所が有る。

 

いささか、うぬぼれ気味に聞こえたらごめん。

 

で、読み手としての立ち居地。

作品の解説を自分で書いてみる。

これが、上にかいたことを自分にもっと、実感させる。

 

「他の読み取り方」

が、見えてくる。

単純に言えば、

「僕が潰した物はそれだけだろうか?」

なんだけど、

この部分が

「解説」を外にほおりだしてしまったことによって、

また、見えてくる。

 

こういう風に読者として、ある一部分の気づきをいうことがある。

 

だから、けして、解説ではないとおもってるし、

結局はこれも、下に書いたけど

「自分の目でたしかめてこなけりゃ、見えないもの」

 

そんなんで、まあ、憂生は読者様の感想からも

いろいろ、考えさせられるし

自分でも考える。

 

だから、いただいた感想ともども、日記にあげさせてもらってる。

そういうことなので、書いてる途中でも、よく「ぶつぶつ」いう。

 

それも、ひとえに、憂生が「物書き」のせいだと思っている。

作家は作品という家を作る。

家に「品格」をもたせるから、本人からの「解説」はいらない。

作品で勝負なんだろう。

でも、物書きは

「物」を書く。

自分の中の「もの」を文字に変えていく。

だから、解説も自分の中の「もの」。

これを、物書きの習性で「文字にしてしまう」。

 

憂生にとっては、それだけでしかないんだけどね。

 

 



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