矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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石橋政嗣さんのこと

2024年11月10日 02時16分52秒 | 政治・外交・防衛

<石橋政嗣さんは2019年12月9日に亡くなりました。満95歳でした。ここに哀悼の意を捧げると共に、2014年12月12日に書いた以下の記事をそのまま復刻します。>

先日、総選挙の関連で昔の日本社会党(以下、社会党と記す)を調べていたら、元委員長の石橋政嗣(まさし)さんのことが分かった。満90歳だがご健在だという。懐かしくなって、昔のテレビ局記者時代のことを思い出した。私が社会党など野党の担当をしていたころ、石橋さんに何度か取材したことがあるのだ。
石橋政嗣さんと言っても、今の人はほとんど知らないだろう。しかし、1960年代から80年代にかけて、旧社会党では最も代表的な政治家の一人だった。私は自民党の政治家については何人も取り上げたが、社会党では石橋さんが初めてだ。それほど、野党の中では印象に残る人だった。
前置きが長くなったが、石橋氏は長崎県(当時の長崎2区)を地盤とする衆議院議員で、1960年の日米安保条約改定のころから脚光を浴びていた。というのも、若いながらも国会論戦で政府を厳しく追及し、社会党の“安保五人男”として勇名をはせたからである。
そのころのことはよく知らないが、石橋氏が1970年に党書記長に就任する前ごろから、私は野党担当になって彼を知ることができた。初めて石橋氏を単独で取材した時のことは忘れられない。ある晩、某議員宿舎に“夜回り”をかけ、談話室で彼と面会した。その前から、石橋さんというのは大変な“堅物(かたぶつ)”で、よくよく覚悟した方がいいと周りから言われていた。
案の定、会ってみたら彼は仏頂面でニコリともしない。そして、無駄口は一切きかず、質問したことには素っ気なく短く答えるだけである。こんなに無愛想な人は見たことがない! だいたい、政治家というのは少しは愛想がよく、無駄口をたたくものである。いかに私が新米記者であろうとも、少しは感じ良くしてくれるものだ。
ところが、石橋氏は微塵もなごやかでなく、まるで「石造人間」か「冷凍人間」のように構えている。どういう質問をしたかもう覚えていないが、私は10分ほどすると居たたまれなくなった。そのうち、気の弱い(?)私は体がブルブルと小刻みに震えてきた。しかし、自分が震えているのを覚られまいと、必死になって質問を続けた。
そして、なんとか1時間近くもっただろうか。私は石橋氏と別れて談話室を去ったが、その後はへとへとに疲れて、ダウン寸前のボクサーのようになったのである。これが石橋さんとの初対面だったが、翌日、キャップ(職場の上司)に事の次第を報告すると大笑いされた。

その後は、石橋氏への取材はできるだけ控えるようにしたが、まもなく、彼が党書記長に就任するころはそうも言っていられない。恐る恐る取材を続けたが、そのころ、面白い記事が某週刊誌に載った。石橋新書記長のことを書いていたが、その中で、石橋氏の奥さんが夫についておよそ次のようなことを述べていた。
ある日、来客があったのでお茶を客と主人に出したが、二人は黙ってお茶をすするだけで1時間ぐらいたち、一言も交わさずに別れたという。正確な記述は覚えていないが、それを読んで私は笑ってしまった。石橋夫人は主人の“社交性”の欠如を明らかにしたのだが、私はさもありなんと納得したのである。
その記事を読んでから、自分だけでなく皆が石橋さんには手を焼いているんだなと思ったので、私はだいぶ気が楽になった。彼の社交性の無さは天性のものなのだ。あまりの堅物ぶりに、キャップと私は彼に『ブリキのパンツ』と渾名(あだな)を付けたのである。その石橋氏も党書記長になると、さすがに世間体もあるのか、少し柔和になったようだ。

当時の社会党委員長は成田知巳(ともみ)氏で、成田・石橋体制は1970年から7年ほど続いた。左右の派閥抗争は激しかったが、社会党の最も安定した時期だったろうか。ふだんはサービス精神などほとんどない党だったが、ある時、石橋さんの主導で記者クラブと党員のボーリング大会を開いたことを思い出す。こんなことは非常に珍しいことだった。
1977年に石橋氏は書記長を退任したが、その後のいつだったか(おっと、ずっと後だったかもしれない)、まったく別のセクションに異動した私は、彼の地元・佐世保でテレビ中継に出演してもらったことがある。何の中継だったかもう覚えていないが、その時は石橋さんはとても愛想が良かった。かつての無愛想なイメージは影をひそめ、人間が成長した感じがしたのである(笑)。
その後は石橋氏との接触は全くなかったが、彼が党委員長に就任し、持論の「非武装中立論」などを展開したことを思い出す。石橋氏は社会党を社会民主主義政党へ脱皮させ、自民党に取って代わる“政権政党”に変えようとしたが、どうもそれは上手くいかなかったようだ。また、いわゆる「社公民路線」も大した成果を挙げずに終わったと思う。
社会党の政策や路線をここで論じるつもりはないので、最後に石橋さんの“人間性”に触れてこの記事を終わりにしたい。実は総選挙の関連で昔の社会党を調べていたのだが、石橋さんのことで彼の面目躍如な点を発見した。それは、彼が叙勲(勲一等旭日大綬章)を徹頭徹尾 断り通したことである。
社会的な功労者には勲章が授与されるが、石橋氏は当選12回で衆議院に35年も在職した永年勤続議員であったから、当然 勲一等旭日大綬章に値する人だ。しかし、彼は若いころ国会で「生存者叙勲」の復活に断固反対の論陣を張ったから、それを終生貫き通したのだ。まことに“あっぱれ!”と言わざるをえない。
社会党でも勲章を喜んで受章する議員もいた。それは人さまざまだから何も言わないが、国家権力や体制側が与える“餌”を、断固として拒み続けた石橋氏に深い敬意と共感を覚えるのである。
以上、私は勝手に石橋さんのことを書いたが、失礼な点がいくつかあったと思うのでお許し願いたい。しかし、それはできるだけ正直に書きたいと思ったからだ。彼はまことに尊敬に値する“硬骨漢”だ。現在90歳と聞くが、末永い人生を全うされるよう心からお祈りするものである。(2014年12月12日)


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