<以下の記事を復刻します。>
以前、表題の句をもとに「俳句は芸術なのか?」という一文を書いたことがある。そこで、一部修正を加えながらもう一度書き直してみたい。
田捨女の彫像(兵庫県丹波市)
「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」
この俳句に接すると実に爽やかな気分になる。雪の朝の情景がすぐに目に浮かんでくるのだ。私も子供の頃はよく下駄をはいて、雪が積もった庭を歩いたことがある。その時のことが思い出されて懐かしさが込み上げてくる。
ところで、この句は誰が作ったのだろうかと調べたら、これは田捨女(でんすてじょ)という江戸時代初期の俳人が作ったもので、7月22日の「下駄の日」によく紹介されるそうだ。この句が世に出て370年が経つが、今でも人口に膾炙(かいしゃ)するというのは正に“名句”なのだろう。
さて私が最も驚いたのは、捨女がこの句を作った時、彼女はまだ6歳の“幼女”だったというのだ。江戸時代だから、数え年の6歳というのは今で言えば満5歳ぐらいだろうか。そんな幼い子が後世に残る名句をつくったという所に、私は俳句の面白さを感じる。
つまり、6歳の幼女は何の理屈もこねたりせずに、素直な気持で句を詠んだのである。そこには「写生」がどうのとか「幽玄」がどうのといった大人の理屈はない。幼女の素直な目と心、感性がこの名句を生んだのである。
そこで考えるのだが、芸術一般、つまり絵画や彫刻や音楽、小説や作詩、劇作などにおいて、6歳の子供が名作をつくることが出来るだろうか。名作どころか作品をつくること自体、まず無理だろう。ただ例外として、モーツァルトが5歳で作曲したそうだが、その作品が名曲だとは聞いていない。
モーツァルトは稀有の天才だから5歳でも作曲したのだろうが、俳句以外の芸術では、一般的に幼児が創作するのはとても無理である。ところが、俳句では捨女のような幼児が、後世に残る名句をつくることが出来るのだ。
つまり、これは「芸術」以前の話である。そこには五・七・五の17音を定型とする伝統的な「文化」が存在していたのだ。だから、6歳の幼女は難しい理屈など考えずに、素直な気持で句を詠むことが出来たのである。
そう考えると、俳句は「日本文化」の一つであって、本来は「芸術」ではない。俳句は短歌と同様に、感性によって芸術性を高めることは可能だろう。それは、大勢の俳人が努力すれば良いことだ。しかし、6歳の幼女が後世に名句を残すということを、読者諸氏はいかに考えるだろうか。
日本文化とはこの場合、民謡とか童(わらべ)歌、俗謡、都々逸(どどいつ)などの類いだろうが、それらは日本人の中に自然に生まれ育ったものである。俳句も同じような文化の一つとして育ったのである。6歳の子でも簡単に作れるものを「芸術」と呼んだら、他の「芸術」があまりにも可哀そうだ。
日夜、音楽や絵画、文学作品などの創作に刻苦精励している芸術家は、そんな俳句が芸術だと知ったらたぶん怒るだろう。もう一度言う。俳句は日本の大衆的な「文化」の一つであって、決して「芸術」ではない。それは“衣食住”の文化と同じレベルのものである。(2010年10月25日)
このたび弊社から田捨女の句集を刊行いたしましたので、御案内申し上げます。読みやすいテキストに注釈を加えました。
http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id=129054&prev=released
「二の字二の字」の句に関しても解説がございます。ほかにも楽しい句がたくさん載っています。ぜひご一読ください。
私は、単純に、「芸術」は文化の範疇だと思ってましたが、違うんですね。
仰ることは理解出来るように思いますが、芸術≒艱難辛苦という捉え方に妥当性があるのか否かが分からないところでもあります。
また、「天才」という言葉からくる一般的なイメージは、常人が努力してもできない、あるいは、努力して漸くできることを、簡単にやってしまう人ではないでしょうか。
まあ、実際には、天才は常人以上の努力もできるということなのかもしれませんが…
矢嶋さんが「芸術」をどのように捉えていらっしゃるかには興味がありますね。
芸術という才能にトンと縁のない私が、こんなお話に入り込むことに気後れを感じております。
例えば、料理でも色々の工夫がなされています。それを芸術的と呼べるかどうかは別にして、多くの人の創意工夫や精神的努力の結晶だと言えるものがあります。
そう考えれば、俳句だって一つの芸術と言えるかもしれません。
ただし、とても権威主義的なところがあって、芭蕉の句なら何でも高く評価する面があります。
例えば「松島や ああ松島や 松島や」などは、芭蕉の句と言われるから評価しますが、この句を一般の人が作ったら、何だ馬鹿かと笑われるでしょう。そういう点が嫌いです。
(もっとも、この句は芭蕉が作ったものではないという説がありますが・・・)
以上、お答えになっていないかもしれませんが、最近は文化も芸術の一つだと考えが変わってきたのでお知らせしておきます。
私は、芸術の何たるかを分かっている訳ではありません。
矢嶋さんの仰りたいことに同意したい気持ちが強いのですが、一方では、私の知識不足なるが故の疑念も浮かぶだけです。
昔々、フランスで教育問題が姦しかった時があります…(現在、どうなっているかは知りません)
それは、教育システム上で、確か、小学校レベルで個人個人の先行きが決まってしまい、それなりの大学には行けないと判断された子供たちは、勉強をしなくなってしまうという問題でした。
個人個人の異なる人生における価値をどう判断するかの問題なのでしょうが、その価値から「努力」を抜き去ってしまうとしたら、大きな問題となりそうな気がします。
ただ、頭脳とか芸術の才能とかの話になりますと、努力を超越した分野があることも認めざるを得ないようです。
それらを社会の中で、どのように位置づけてゆくのが良いのか、私には分かりません。
学問や芸術だけが価値があるわけではありません。
昔は今よりはっきりと、それぞれの能力に適した職業を選んでいたと思います。
今は猫も杓子も大学へ行くので、その辺が曖昧になっているのでしょうか。大学へ行っても、ブラブラと遊んでいる学生が大勢います。
むしろ早い時期から、自分の適性を自覚すべきだと思います。
フランスの教育システムが話題になったので、思いつくまま述べさせてもらいました。
才能はあらゆる分野で発揮できるものだと考えています。