51『あなたの心に』
1969年(昭和44年)にリリースされた曲で、作詞は中山千夏(ちなつ)、作曲は都倉俊一で、中山自身が歌った。清らかな乙女心を見事に表現した歌詞だと思うので、以下に載せておきたい。
中山千夏は子供の頃から“名子役”と言われ、舞台などで活躍していたが、のちに女優やテレビタレント、声優や歌手でも名をはせた。まさに“女性マルチタレント”の元祖のような存在で、誰もが彼女のことを知っていたと思う。
それだけでなく、ウーマン・リブ運動に参画したあと、1980年(昭和55年)には参議院議員に当選し、一時は「革新自由連合」の党首も務めたのだ。私が知るかぎり、政党会派の“女性党首”になったのは中山千夏が日本で初めてである。
このように多彩な活動で注目されたが、彼女が初めて作詞したこの曲は、清純な乙女心が見事に表現されていると思う。
52『おふくろさん』
1971年(昭和46年)にリリースされた曲で、作詞は川内公範、作曲は猪俣公章で、森進一が歌った。川内の歌詞が素晴らしい。
森進一については、そのかすれた歌声が魅力的だと言われたが、彼が新人の頃、NHKの歌番組か何かで初めて聴いた時、これでよく歌手をやっていられるな~と思った(笑)。しかし、それは演歌などに“ど素人”の私の感想で、森はその後、数多くのヒット曲を出して人気を博した。つまり、森進一の個性、人間性が受けたのである。
『おふくろさん』は名曲だと思うが、後日、森が独断で歌詞を入れたとして川内が激怒し、“おふくろさん騒動”に発展したこともよく知られている。
53『里の秋』
この曲は戦前に作られたものと誤解していたが、それは私の間違いだったので載せることにした。調べてみると、作詞は戦前だったが、それを一部修正して曲が作られ、世に出たのは戦後だと分かった。 昭和20年(1945年)12月のことである。
出征した父親の無事帰還を祈る歌だが、終戦直後にラジオで放送されたため、大きな反響を呼んだ。切実な思いをしている人がきっと多かったのだろう。歌詞もメロディーも美しく、のちに「日本の歌百選」にも選ばれている。作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實で、歌ったのは川田正子だが、倍賞千恵子でお聴き願おう。
54『時代おくれ』
“時代遅れ”は自分のことかと思っていたが、世の中にはそう思う人がけっこういるようだ。だいたい年寄りである。しかし、この歌を聴いていると、ほのぼのとして癒される感じになる。
1986年(昭和61年)にリリースされた曲で、作詞は阿久悠、作曲は森田公一で、河島英五が歌った。河島の雰囲気は“時代遅れ”にぴったりである。歌詞もメロディーも素晴らしい。いつ聴いても癒される曲だ。
発売当時はあまり評判にならなかったが、徐々に人気を呼び、ちょうど昭和から平成にかけて、多くの人に親しまれるようになったという。あのバブル景気が消滅した頃の話だ。
55『翼をください』
フォークグループの「赤い鳥」が1971年(昭和46年)に発表した曲で、作詞は山上路夫、作曲は村井邦彦である。多くの歌手が歌っているが、山本潤子のものを載せよう。
私もこの曲には思い出があり、特に23年前、定年でテレビ局を去る時の送別会で、後輩の女子社員やアルバイト女性らが、この唄を歌って見送ってくれたことが忘れられない。 人間も死に際には、この唄の歌詞のような気持ちで“天国”へ行ければ幸せではないだろうか。
つい最近、映画「耳をすませば」のDVDを見ていたら、主題歌としてこの曲が歌われたのも印象的だった。2007年(平成19年)には「日本の歌百選」に選ばれている。
56『喜びも悲しみも幾年月』
1957年(昭和32年)に松竹が『喜びも悲しみも幾年月』という映画を制作・公開した。監督は木下恵介で、同名の主題歌を実弟の木下忠司が作詞・作曲し、これを若山彰(あきら)が歌ったところ、映画も歌も大ヒットしたのである。
物語は、灯台守の夫婦が戦前から戦後にかけて、厳しい環境のもと北海道から九州に点在する灯台の任務につくというもので、この夫婦役を佐田啓二(俳優・中井貴一の実父)と高峰秀子が演じた。
夫婦の半生には、息子の死亡など悲しい出来事があったが、それらを乗り越えて生きていくしかない。こうしたストーリーは、ある実話をもとにして作られたものだ。佐田と高峰の夫婦役も良かったし、若山彰の歌声も生き生きとしていた。
57『あなた』
1973年(昭和48年)に、当時16歳の小坂明子が作詞・作曲し歌った曲で、ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)でグランプリを獲得した。
切々たる乙女の恋心が見事に表現されていて大変な人気を呼び、最終的には200万枚を超える売り上げになったという。高校の1年先輩への想いで作った曲だそうだ。
ただ、歌詞の最後にあるように、「私の横にはあなた、私の横にはあなた、あなた、あなたがいて欲しい」と何度も何度も言われると、息苦しく感じることも・・・(笑)
58は削除(ちなみに『世界に一つだけの花』)
59『銀座の恋の物語』
昭和の大スター・石原裕次郎の代表的なデュエットソングだ。相手は牧村旬子で、1961年(昭和36年)に日活映画の挿入歌としてリリースされた。作詞は大高ひさを、作曲は鏑木創(はじめ)で、公称300万枚を超える大ヒット曲になったという。
私も昔、若い女性とカラオケで歌ったことがあるが、実にほのぼのとして気持ちが良かったのを覚えている。
60『喝采』
1972年(昭和47年)9月にリリースされた曲で作詞は吉田旺、作曲は中村泰士、歌手はちあきなおみである。
亡くなった恋人を偲びながらステージで歌うという設定だが、ちあき自身が同じような体験をしていたという。
その想いが伝わったのか、9月にリリースされたのにあっという間に共感を呼び、暮れのレコード大賞を受賞してしまった。発売されてからわずか3カ月の受賞はレコード大賞で初めてのことで、いまだにその記録は破られていない。
なお、ちあきなおみは20年後(1992年)に夫と死別したが、それを契機に芸能活動を完全に休止し、惜しまれつつ、事実上の引退となってしまった。
蛇足だが、彼女の誕生日は9月17日で私と同じだから、余計に惹かれるのだろうか・・・
61『君恋し』(戦後版)
原曲は戦前に作られたものだが、昭和36年(1961年)にフランク永井が歌って再びヒットした。だから、戦後版として取り上げる。 作詞は時雨音羽、作曲は佐々紅華だが、歌詞がまことに見事だと思う。
フランク永井の低音は実に魅力的で、その声のファンが多かった。私もそうである。彼は他にも『有楽町で逢いましょう』『東京ナイト・クラブ』『おまえに』などのヒット曲を世に送り、戦後の歌謡界に名をとどろかせた。
62『真夜中のギター』
1969年(昭和44年)8月にリリースされた曲で、作詞は吉岡治、作曲は河村利夫で、千賀かほるが歌った。フォークソングの名曲と言われ、多くの歌手がカバーしている。
メロディーが実に良い。これを聴いていると、ギターが弾けない自分でも、夢の中でずっと弾いている気分になる。そして夜明け・・・ 失恋で傷ついた心は癒されているのだ。青春時代の“ともしび”の一つだろう。
63『また逢う日まで』
1971年(昭和46年)は尾崎紀世彦の“当たり年”だった。この曲を始め『さよならをもう一度』『愛する人はひとり』などのヒット曲を次々と出し、『また逢う日まで』でその年のレコード大賞に輝いた。
これらの曲は阿久悠が作詞したもので、彼もその名声を不動のものにしたと言えるだろう。
レコード大賞の時のVTRが見つかったので、その時の模様をご覧いただきたい。なお、作曲は筒美京平である。尾崎紀世彦の力強い歌声が印象的だ。
64『時の流れに身をまかせ』
“アジアの歌姫”と言われたテレサ・テンが歌って大ヒットした曲だ。1986年(昭和61年)にリリースされ、200万枚を売り上げたと言われる。
作詞は荒木とよひさ、作曲は三木たかし、編曲は川口真で、数多くの歌手によってカバーされた。 以下の映像は1994年(平成6年)に収録されたもので、テレサ・テンが42歳で亡くなる前年のものである。
切ない女心をこれほど見事に表した歌詞は滅多にない。また、メロディーもおだやかで美しい。テレサ・テンは他にも多くのヒット曲を出し、母国・台湾や日本だけでなく、中国本土でも人気を博した。まさに“アジアの歌姫”である。
65『明日があるさ』
1963年(昭和38年)12月にリリースされた曲で、坂本九が歌ってヒットした。九ちゃんが22歳の時である。 作詞はのちに東京都知事などを務めた青島幸男、作曲は中村八大だ。
九ちゃんの明るい歌声と、青島幸男の愉快な歌詞がわれわれの青春を思い出してくれる。また、メロディーも軽快でリズミカルだ。つい、若い頃の“失恋”の思い出がよみがえってくる(笑)。
66『伊勢佐木町ブルース』
前回の坂本九も今回の青江三奈も、私と同じ昭和16年(1941年)生まれなので余計に親近感を覚える。青江三奈は森進一と同じように“ハスキーボイス”で有名になった。
この曲は1968年(昭和43年)にリリースされミリオンセラーになったもので、作詞は川内康範、作曲は鈴木庸一である。冒頭の青江三奈の“吐息”はセクシーな感じがして、いろいろ話題になった。
他の楽器の音に差し替えられたこともあったが、彼女の持ち味がよく出ているのではなかろうか。青江ファンである私の先輩などは、テレビにかじりつくようにしてこの曲を聴いていたのを思い出す。
67『白いブランコ』
1969年(昭和44年)にリリースされた曲で、菅原孝・進の兄弟2人組のビリー・バンバンが発表した。作詞は小平なほみ、作曲は弟の進である。
われわれ爺婆(じじばば)が青春時代を送った頃、よく耳にしたのがフォークソングだった。この『白いブランコ』は、その代表的な曲の一つだと思う。
ちょっと寂しい時にこの曲を聴くと、なんとも癒された気持ちになる。そして、明日への希望を取り戻して歩んでいく・・・ そうした曲ではなかろうか。
68『なごり雪』
フォークバンド「かぐや姫」の伊勢正三が1974年(昭和49年)に作詞・作曲したもので、これをのちにイルカが歌ってヒットした。 なお、you tube で素晴らしい文章を発見したので、以下に載せておこう。
お名前は「よしおか ともかず」さんと言うが、これを読んで私は何度も泣いてしまった。ご本人からのクレームがない限り、ずっと載せておく。
「今から二十数年前の春、故郷での就職を選び帰郷する彼女を東京駅まで見送りに行きました。 動き始めた新幹線の窓の向こうから泣き笑いで手を振る彼女の顔を今でも覚えています。『東京に残れ』と言いたかったけれど、まだ若かった私にはそれがどうしても言えませんでした・・・彼女の人生をすべて背負ってしまうようで怖くて・・・。大好きだった笑顔が 大学生活の思い出を連れて早春の鉄路の向こうに去ってゆきました。 あの時、勇気を振り絞って引き留めていたら、どんな人生が待っていたのだろう、そんなことを考えることもあります。『動き始めた汽車の窓に顔をつけて君は何か言おうとしている 君の唇がさようならと動くことが怖くて下を向いてた』・・・この歌詞を聴くといつも涙腺が崩壊します。 永遠の名曲です。」
同じような体験をした若者はいると思う。
69『青い珊瑚礁』
昭和末期の芸能界の“スーパーアイドル”と言えば、やはり山口百恵と松田聖子ではなかろうか。 山口は1980年(昭和55年)にわずか21歳で引退したが、その後を継いだ形になったのが松田聖子である。
彼女もヒット曲を次々に出したが、年寄りの私でもよく覚えているのが、この『青い珊瑚礁』だ。作詞は三浦徳子(よしこ)、作曲は小田裕一郎で1980年7月にリリースされた。ちょうど山口百恵が引退した年である。
松田聖子は“ぶりっ子”だとか“聖子ちゃんカット”でも有名だが、彼女の伸びやかな明るい歌声は、その可愛さと相まって多くの人を魅了した。
70『バラが咲いた』
1966年(昭和41年)にリリースされたフォークソングで、作詞・作曲は浜口庫之助(くらのすけ)で、マイク真木と西六郷少年少女合唱団(東京・大田区)が歌った。
国内外の多くの人に愛される曲で、ロシア・サンクトペテルブルクのある中学校の校歌にも採用されている。ほのぼのとした心温まる歌詞とメロディーが、多くの人を魅了しているのだろう。
71『知床旅情』
加藤登紀子が歌って大ヒットした曲である。
元歌は『オホーツクの舟歌』と言って、名優の森繫久彌が作詞・作曲し、倍賞千恵子が歌ったのが有名だ。 始まりは1960年(昭和35年)に『地の果てに生きるもの』という映画の撮影のために、森繁たちが北海道の羅臼村を訪れたのが発端だ。
そして、地元で歌われていた曲をアレンジして出来上がったものだが、1970年(昭和45年)に加藤登紀子がカバーして大ヒットしたのである。
情感豊かな歌詞とメロディーが人々の心を惹きつけ、自分も昔 カラオケやスナックバーなどで何回も、いや何十回も歌ったことを思い出す。
72『手のひらを太陽に』
1961年(昭和36年)に作られた童謡。作詞はやなせたかし、作曲はいずみたくで、翌年にNHKの「みんなのうた」で放送された。歌ったのは宮城まり子とビクター少年合唱団である。
当初は反響が少なくヒットしなかったが、やがてボニージャックスが歌ったりして広く知られるようになったという。そして「日本の歌百選」にも選ばれ、今は小学2年生の音楽の教科書にも載っている。
歌詞の一部が変わったりしているが、明るくのびのびとしたメロディーが愛らしい。
73『涙(なだ)そうそう』
「涙そうそう」は、沖縄の方言で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味だそうだが、これを知った歌手の森山良子が、23歳の若さで急死した兄を偲んで この曲の歌詞を作ったという。
作曲は沖縄県石垣島出身のバンド・BEGINで、1998年(平成10年)にリリースされた。はじめは森山良子自身が歌っていたが、その後、石垣島出身の夏川りみが歌って大いにヒットした。また、多くの歌手がカバーしている。
愛する亡き人を偲ぶ想いが切々と伝わってくる曲で、のちに「日本の歌百選」にも選ばれた。 私自身はつい最近、映画『涙そうそう』をDVDで観たためか、どうしてもこの曲を載せたくなった。
追記・・・夏川りみの“節回し”は絶品である。
74『別れの朝』
1971年(昭和46年)にリリースされたペドロ&カプリシャスのシングルだが、作曲はオーストリアのウド・ユルゲンスで、なかにし礼が日本語詞を付けた。
最初の歌手が前野曜子、次が高橋真梨子である。男女の別れの切なさを見事に表現しており、大いにヒットした。多くの歌手がこの曲をカバーしている。
75『函館の女』
1965年(昭和40年)にリリースされた曲で、今や演歌の“大御所”とも言われる北島三郎が歌っている。作詞は星野哲郎、作曲は島津信男だ。
昔は、歌詞にあるように「はるばる来たぜ 函館へ さかまく波を のりこえて」と、青函連絡船に乗ったものだ。しかし、今は青函トンネルが開通しているからそうではない。 のちに連絡船の最終運航の際、この曲をみんなで合唱したという。
売り上げが140万枚という大ヒット曲だが、北島三郎の抜群の歌唱力を物語る代表的な一曲だろう。
76『イムジン河』
イムジン河(臨津江)とは、北朝鮮から国境を越えて韓国に流れる河である。
この曲は、1968年(昭和43年)にザ・フォーク・クルセダーズが発表したものだが、リリース直前に発売中止になったいわくつきのフォークソングだ。
理由は、朝鮮総連が「韓国側に偏向した日本語詞になっている」などと抗議したと言われ、原曲は北朝鮮の朴世永が作詞、高宋漢が作曲したものである。
それを松山猛が日本語詞にして、ザ・フォーク・クルセダーズが楽曲にした。始めは発売中止になるなど苦難の連続だったが、その後、多くの人に愛され広く歌われるようになった。
2001年(平成13年)には、NHKの紅白歌合戦で韓国の歌手キム・ヨンジャも歌っている。南北に分断された朝鮮半島の“哀歌”と言えるだろう。
77『帰って来たヨッパライ』
ザ・フォーク・クルセダーズの曲だが、中身は前回の『イムジン河』とはえらい違いで、1967年(昭和42年)にリリースされた。
ラジオで初めてこれを聴いた時、クラシック好きの私はなんて“ふざけた”曲かと思った。こんな曲は最低だと思った(笑)
ところが、この曲は見る見るうちに売り上げを伸ばし、最終的に131万枚とオリコン史上初のミリオン・シングルになったという。
載せようかどうか迷ったが、一世を風靡した曲だし、自動車社会到来という時代背景もよく出ているので載せることにした。音楽ってつくづく“摩訶不思議”だと思う。
78『ガード下の靴磨き』
宮城まり子の歌を載せたくなった。この曲は1955年(昭和30年)にリリースされたものだが、敗戦後10年たっても、まだ“靴磨き”があったのだろうか。
宮城さんの歌声は明るくのびのびとしていた。彼女はのちに肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」をつくり、身体障害児の養育に一生を捧げた。そして、2020年(令和2年)に亡くなられたのである。享年93歳。
79『上を向いて歩こう』
「戦後の名曲」シリーズを再開しよう。 坂本九の代表的な曲がこれだ。1961年(昭和36年)にリリースされたもので、作詞は永六輔、作曲は中村八大である。
国内で大ヒットしたが、海外でも「SUKIYAKI」ソングとして有名になり、坂本自身が招かれて渡米し、歌ったりもした。アメリカ国内の売り上げは100万枚を超え、世界の約70カ国の総売り上げは1300枚以上に達したというから凄い。
戦後、日本の歌がこれほど国際的になったのは初めてだろう。なお、2006年(平成18年)には「日本の歌百選」にも選ばれている。
80『神田川』
1973年(昭和48年)に「南こうせつとかぐや姫」が発表した曲で、作詞は喜多條忠、作曲は南こうせつである。シングル盤として発売されたら大変な反響を呼び、またたく間にミリオンセラーになったという。
私の推測だが、これには大きな“時代的背景”があったように思う。以下は11年前に書いた一文だが、参考のために載せておきたい。自分勝手な駄文で申し訳ない。
< この歌が登場したのは40年前の1973年だ。私はそこに時代の“節目”を感じる。その頃が時代の転換点だったと思う。というのは、60年安保、70年安保と続いた「変革の闘争」がその頃に終止符を打ったのだ。
70年安保闘争は、全共闘運動を中心に大きな広がりを見せた。東大闘争、日大闘争などの学園紛争が全国に渦巻き、赤軍派などの超過激派が登場した。しかし、過激派の闘争も1972年に起きた連合赤軍「浅間山荘事件」を最後に終息に向かったのである。
後に残ったのは大きな“挫折感”である。敗北感と言ってもいい。若者たちは大きな夢、希望、幻想と言ったものを捨てざるを得なかった。そして、嫌でも小市民的、プチブル的生活を送らざるを得なかったのだ。これは“意識”の上でそうなったことが重要で、それが「諦めと慰め」の生活に彼らを誘(いざな)ったのである。
イデオロギーや理想、英雄的精神や夢は世知辛い日々の生活に取って代わられたのだ。これを「日常性への埋没」と呼んだ。若者たちは“現実的”になり、政治よりも経済が重視された。その辺から価値観が変わったのである。
以後40年間、基本的には何も変わっていない。若者たちは小さな幸せに安住し、大きな夢を持たない。しかし、それを責めたりはしない。なぜなら、管理社会がますますそうさせている。その方が平和で幸せなのだ。革命とか変革といった“幻想”は消えたのである・・・>
81『寒い朝』
1962年(昭和37年)にリリースされた吉永小百合と「和田弘とマヒナスターズ」の曲である。作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正。
北風吹きぬく寒い朝でも、元気に胸を張っていこうという歌だが、17歳になったばかりの吉永小百合のデビュー・シングルでもあった。彼女の歌声の初々しさが引き立つようだ。
作曲した吉田正は生涯に約2400曲も作ったが、この歌が最も好きだと述べたという。彼は戦後、極寒のシベリアで長い“抑留生活”を送ったからだろう。その『異国の丘』は有名である。 さあ、寒さに負けず元気に前へ進もう!
82『乾杯』
とても前向きの素晴らしい曲だと思う。リリースされたのは1980年(昭和55年)で、シンガーソングライターの長渕剛(つよし)が作詞、作曲した。
長渕のことはよく知らないが、彼の地元である鹿児島の友人が結婚すると聞いて、祝福のために作ったと言われる。 もちろんヒットしたが、結婚披露宴だけでなく卒業式でも歌われ、今では小学校の音楽の教科書にも載っているそうだ。
長渕剛の代表曲と言えよう。
83『亜麻色の髪の乙女』
1968年(昭和43年)にリリースされたグループサウンズ「ヴィレッジ・シンガーズ」の曲で、作詞は橋本淳、作曲はすぎやまこういち(椙山浩一)だ。
明るい素直なラブソングで歌詞も良いが、メロディーが流れるように美しい。すぎやまこういちさんは実はフジテレビの出身で、私の大先輩に当たる。職場がまったく違ったので一度もお会いしたことはないが、どうしてもこの名曲シリーズに載せたくなった。
また、映像に出てくるシルビー・バルタンはその当時、最も人気のあったフランスの“アイドル歌手”で、日本でも馴染みが深いからこれを拝借しておく。
84『柔(やわら)』
歌の女王・美空ひばりの最大のヒット曲の一つで、1964年(昭和39年)にリリースされ、半年足らずで180万枚以上を売り上げたという。作詞は関沢新一、作曲は古賀政男だ。
日本テレビのドラマ『柔』のテーマソングで、テレビの主題歌では「演歌は当たらない」という当時のジンクスを破り、見事に大ヒットしたのだ。
1964年の東京オリンピックで、柔道が初めて正式競技に採用されたという背景もあったが、やはり、美空ひばりの歌唱力が視聴者を惹きつけたのではないか。彼女の素晴らしい歌声を聴いてみよう。
85『舟唄』
1979年(昭和54年)にリリースされた八代亜紀の代表的な曲で、作詞は阿久悠、作曲は浜圭介だ。抒情味あふれる演歌の一つだろう。
この歌で思い出されるのが映画「駅 STATION」だ。高倉健と倍賞千恵子がしんみりとお酒を飲みながら、NHKの紅白に出場した八代亜紀の歌声に聞きほれるというシーンだ。あれで、この歌がますます好きになった。
八代亜紀は昨年12月に亡くなった。享年73歳、ご冥福を祈る。(2024年12月22日)
86『学生街の喫茶店』
フォークグループの「ガロ」が1972年(昭和47年)に発表した曲で、作詞は山上路夫、作曲はすぎやまこういち(椙山浩一)だ。
この歌のモデルは東京・御茶ノ水駅近くの喫茶店だそうだが、あの辺は今でも学生が大勢いるだろう。学生が入るのは“カフェ”なのか・・・なにか時代の変遷を感じる。
歌詞にあるように「君とよくこの店に来たものさ」なら良い。不器用で意気地のない私は、大好きな女子大生を一度も喫茶店に誘い出すことができなかった。残念! 今でも悔やまれる。
87『初恋』
シンガーソングライターの村下孝蔵が1983年(昭和58年)に作詞・作曲した。村下の代表作と言われるだけあって、彼の故郷の熊本県水俣市には歌碑が建てられている。
初恋は誰でも胸がときめきワクワク、ドキドキするものだ。その初々しい気持ちが曲全体にあふれ出ているようだ。
以前、この曲を堀北真希の映像で聴いたことがあるが、とても新鮮で可愛かった。今回は広瀬すずの映像だが、これも“初恋”にぴったりの雰囲気が出ているようだ。 みんな、自分の初恋を想い出しながら、この曲を聴いてみようではないか。
88『北国行きで』
昔からこの歌が好きだった。1972年(昭和47年)にリリースされたヒット曲で作詞は山上路夫、作曲は鈴木邦彦で、朱里エイコが歌った。
男女の切ない別れを、これほど見事に表した歌詞も珍しいだろう。“破恋”は悲しいものだが、女性はスーツケース1つを持って北国へ去っていく・・・ そして、新たな人生をスタートさせるのだろう。
朱里エイコのことはよく知らないが、彼女の美しい肢体は当時 大いに評判になった。
89『熱き心に』
きのう、ある曲のメロディーがやたらに頭の中をめぐるので気になっていたが、調べたら『熱き心に』だった。 これは1985年(昭和60年)にリリースされた小林旭の歌で、作詞は阿久悠、作曲は大瀧詠一である。
大好きな旭の歌声、新年早々にふさわしい歌ではないか。早速 聴いてみよう。(2025年1月3日)
90『この世の花』
1955年(昭和30年)にリリースされた島倉千代子のデビュー曲で、作詞は西條八十、作曲は万城目正である。この曲は発売から半年で200万枚を売り上げたと言われ、大ヒット曲になった。
島倉はまだ16歳の少女だったが、純和風の歌唱力と見事な容姿、雰囲気(オーラ)などで一躍 人気歌手になった。その後、数々のヒット曲を出したが、その後半生は借金騒動などで決して安楽なものではなかった。
2013年に75歳で他界したが、忘れられない歌手の一人と言えるだろう。
91『昴(すばる)』
日本だけでなく、中国や韓国などアジアでも広く歌われた名曲である。谷村新司の作詞・作曲で、1980年(昭和55年)にリリースされ大ヒットした。
「昴」はプレアデス星団の和名で、これに別れを告げる青年の心を表わしたものだろう。 谷村は実は石川啄木の愛読者で、彼自身、啄木の歌集『悲しき玩具』を「読んで食べた糧が、曲や詩となって出てくる」と語ったという。
ちなみに、啄木の歌は「呼吸すれば 胸の中にて鳴る音あり 凩よりもさびしきその音!。 眼閉づれど 心にうかぶ何もなし さびしくもまた 眼をあけるかな」である。
谷村が啄木の歌を、巧みに取り込んだと言えよう。
92『みかんの花咲く丘』
日本の童謡の中で、最も有名な歌の一つだろう。作られたのは昭和21年(1946年)8月だから、戦後1年しか経っていない。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實で、歌ったのは当時 ファンが多かった12歳の川田正子である。
この童謡の完成は、NHKの「ラジオ二元放送」の直前(1日前)だったという有名なエピソードが残っており、正に“間一髪”の出来事だった。 そうした経緯(いきさつ)がかえって幸いしたのか、発表直後から驚くべき反響を呼び、この童謡は一躍 全国的に知られるようになった。
敗戦直後だっただけに、多くの日本国民がこの歌に癒されたのだろう。 もちろん「日本の歌百選」にも選ばれており、今でも人々に愛され歌い続けられているのだ。
(備考⇒ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AE%E8%8A%B1%E5%92%B2%E3%81%8F%E4%B8%98)
93『高原列車は行く』
1954年(昭和29年)のヒット曲で、作詞は丘灯至夫(としお)、作曲はあの古関裕而(こせきゆうじ)である。
戦後9年たつと世の中も落ち着いてきたのか、こういう明るい軽快な歌が生活の中に広がっていく。岡本敦郎の伸びやかな歌声が懐かしい。
丘は故郷・福島県の沼尻軽便鉄道を、また古関はスイスの高原鉄道をイメージして、作詞・作曲したという。なお、この曲の記念歌碑が福島県猪苗代町の川桁(かわげた)駅近くに建てられている。
94『初恋のひと』
1969年(昭和44年)にリリースされた曲で、作詞は有馬三恵子、作曲は鈴木淳で、小川知子が歌った。とても素直で純朴な恋歌だと思う。
小川知子にはカーレーサーの福沢幸雄(福沢諭吉の曽孫)という恋人がいたが、彼はテスト走行中に事故で亡くなった。 その12日後に、小川はフジテレビの音楽番組「夜のヒットスタジオ」に出演しこれを歌ったが、途中で泣き崩れて歌えなくなるハプニングが起きた。
このことは大きな反響を呼び、今でも“語り草”になっている。
95『リンゴ追分』
美空ひばりが15歳の時にリリースされた曲で、最終的に130万枚を売り上げ大ヒットした。
1952年(昭和27年)に、ラジオ東京(今のTBSラジオ)のドラマの挿入歌として作られたもので、作詞は小沢不二夫、作曲は米山正夫である。 これの舞台となった青森県弘前市には歌碑が建てられており、毎年5月には「全日本リンゴ追分コンクール」が開かれている。
少女時代の美空ひばりの歌としては、最も代表的なものだろう。
96『知りたくないの』
元歌はアメリカのカントリーワルツだが、なかにし礼が1965年(昭和40年)、それに日本語詞をつけ、菅原洋一が歌ったものだ。
なかにしも菅原も新進の作詞家、歌手だったが、有線放送をきっかけに2年後の春から大ヒットし、80万枚を超える売り上げとなった。
2人ともこの1曲で、それぞれ作詞家、歌手として不動の地位を築いたと言われる。
97『若者たち』
1966年(昭和41年)にフォークグループのザ・ブロードサイド・フォーが発表したもので、作詞は藤田敏雄、作曲は佐藤勝である。
この曲はフジテレビ・俳優座制作のドラマ『若者たち』の主題歌として作られ、最終的には30万枚を売り上げたという。ドラマもヒットしたが、のちに小・中学校向けの音楽教科書などにも掲載された。
過去の画像が多くあるのが良いと思い、あえて倍賞千恵子さんが歌う『若者たち』をご紹介したい。懐かしいと思う人も多いだろう。
98『フランシーヌの場合』
1969年(昭和44年)6月にリリースされたフォークソングで、作詞はいまいずみあきら、作曲は郷伍郎、歌手は新谷のり子である。
この年の3月30日、フランスのパリでヴェトナム戦争などに反対して抗議行動をしていた女子学生の一人、フランシーヌ・ルコントが焼身自殺を遂げた。それを題材にしたフォークだが、時あたかも日本では「70年安保反対闘争」の真っ最中であった。
1969年から翌70年にかけてデモやストライキが頻発し、東大や日大など多数の大学では“学園紛争”が渦巻いていたのである。そういう時勢に合ったのか、この歌はフォークでは珍しく80万枚も売り上げてヒットした。
まだ若かった私が新宿のゴールデン街などをぶらつくと、酔っぱらったおじさん達が「フランシーヌの“ばやい”は・・・」などと歌っていたのを思い出す。
99『みずいろの手紙』
1973年(昭和48年)9月にリリースされた曲で、作詞は阿久悠、作曲は三木たかしで、あべ静江が歌った。この年、デビュー曲の『コーヒーショップで』に次ぐものだが、これであべ静江の人気は不動のものになったのではないか。
彼女は翌年、NHKの「紅白歌合戦」でこの曲を歌ったが、当時のあべ静江の可愛さは抜群だったと思う。
100『野球小僧』
1951年(昭和26年)にリリースされた曲で、作詞は佐伯孝夫、作曲は佐々木俊一で、灰田勝彦が歌った。「野球の歌はヒットしない」という当時のジンクスを破って大ヒットしたという。
戦後6年になり世の中がようやく落ち着いたのか、こういう明るい楽しい曲が大いに受けたようだ。小学生の私もこの歌が好きになり、これが主題歌になった映画『歌う野球小僧』を見に行ったものだ。
灰田勝彦は戦前戦後を通じて人気のあった歌手で、彼自身 野球が大好きで映画でも主役を演じている。他にも多くのヒット曲を出した。(続く)