拙フェイスブックに連載中の「戦後の名曲」シリーズのコメントを、参考までに転載しておきます。
戦後の名曲
1)『夏の思い出』
夏がくると、つい思い出してしまうのがこの曲だ。昭和24年(1949年)にNHKラジオで放送されたもので、作詞は江間章子、作曲は中田喜直である。 蒸し暑い夏ではあるが、この曲を聴くと少しは涼しさを感じるような気持ちになる。
2)『少年時代』
真夏になると、いつも『少年時代』の歌を思い出す。同名の映画のテーマソングだが、井上陽水が平成2年(1990年)に作詞・作曲したものだ。
映画の原作は遠い昔、太平洋戦争時代に富山に疎開したある少年の物語だが、陽水の音楽は幻想的、象徴的で詩情豊かなものになっている。 YouTubeに素晴らしい映像があったので、拝借することにした。
3)『ブルー・シャトウ』
1967年(昭和42年)当時はグループ・サウンズの全盛時代だったが、この年、レコード大賞に輝いたのが、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの『ブルー・シャトウ』だった。
グループ・サウンズは、他にもザ・スパイダースやザ・タイガースなど有名なものが幾つかあったが、私は特にブルー・コメッツが好きだった。それはある日、某テレビ局の地下通路で彼らとばったり出会ったからだろうか(笑)
それはともかく、ブルー・コメッツの歌の中でもこの『ブルー・シャトウ』は今でも忘れられない曲だ。
4)『君といつまでも』
1965年(昭和40年)にリリースされた加山雄三(弾厚作)作曲の歌で、300万枚を超える大ヒット曲になった。 この世で最も幸せな歌だと思うが、私もある女性を思い浮かべながら、新宿・歌舞伎町界隈のバーやスナックで大いに歌ったものである。これほど青春を謳歌した曲はない。
5)『恋の季節』
1968年(昭和43年)にリリースされた曲で、ピンキーとキラーズ(ピンキラ)が歌った。これも200万枚をはるかに超える大ヒット曲となり、ピンキラは一躍 有名になった。 中でもピンキーこと今(こん)陽子はまだ16歳の少女で、われわれのアイドル的存在になったのを覚えている。
作詞は岩谷時子、作曲がいずみたくで、この歌もバーなどで大いに歌ったものだ。
6)『青葉城恋唄』
今日は七夕だが、“杜の都”仙台では旧暦の行事として8月のこの日に七夕まつりを行なう。七夕というと、いつもこの歌を思い出すのだ。
失恋の抒情詩と言われるが、これほど情感豊かな曲は滅多にない。星間船一の作詞をさとう宗幸が作曲したもので、杜の都を背景にして「あの人は もういない」というメロディーが流れる。不滅の名曲だろう。
7)『瀬戸の花嫁』
若い頃の小柳ルミ子は本当に可愛かった。 この曲は1972年(昭和47年)に彼女が歌って大ヒットし、結婚披露宴の定番ソングにもなった。当時はどこへ行ってもこの曲が流れ、人々の心を潤したものだ。これほど愛された歌も珍しいだろう。
作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃
1 瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁にゆくの
若いと誰もが 心配するけれど
愛があるから 大丈夫なの
段々畑と さよならするのよ
幼い弟 行くなと泣いた
男だったら 泣いたりせずに
父さん母さん 大事にしてね
2 岬まわるの 小さな船が
生まれた島が 遠くになるわ
入江の向うで 見送る人たちに
別れ告げたら 涙が出たわ
島から島へと 渡ってゆくのよ
あなたとこれから 生きてくわたし
瀬戸は夕焼け 明日も晴れる
二人の門出 祝っているわ
(『二木絋三のうた物語』より歌詞を引用)
8)『高校三年生』
1963年(昭和38年)にリリースされた“学園ソング”の代表的な歌である。発表から60年以上たっているのに、今でも歌い継がれていることに敬意を表したい。そして「日本の歌百選」にも選ばれている。
作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実だが、舟木一夫のみずみずしい歌声が忘れられない。そして、あの懐かしいフォークダンスもよみがえってくるのだ。
9)『オホーツクの舟唄』
「知床旅情」の元歌が『オホーツクの舟唄』で、これは俳優・森繫久彌が1960年(昭和35年)に、映画のロケのため北海道の羅臼(らうす)に長期滞在した際に作詞、作曲されたものだ。
これを後に倍賞千恵子が歌ったが、彼女の美声と歌唱力は実に素晴らしいと感じた。倍賞のビデオは幾つかあるが、歌詞がしっかりと記されているものを紹介しておこう。また、このビデオの映像も実に見事である。
10)『今日の日はさようなら』
1967年(昭和42年)に森山良子の歌でリリースされ、非常にポピュラーな曲になった。作詞・作曲は金子詔一で、「日本の歌百選」にも選ばれている。 以下の映像がとても印象的だったので、載せておきたい。
11)『風』
1969年(昭和44年)に発表されたはしだのりひこ(端田宣彦)とシューベルツの曲で、大いにヒットした。みんな心が癒されるからだろう。
メロディーも歌詞も好きな曲だが、特に「振り返らず ただ一人 一歩ずつ 振り返らず 泣かないで歩くんだ・・・」が忘れられない。
12)『見上げてごらん夜の星を』
九ちゃんこと坂本九が歌ってヒットした曲で、永六輔が作詞、いずみたくが作曲で1963年(昭和38年)にリリースされた。背景には、東京へ集団就職した当時の夜学生の気持ちがあるという。
不肖・私もその頃、某テレビ局への就職が内定し、ある日、同期の仲間と共に“職場研修”を受けていた。スタジオのセットや大道具、小道具などの実習を体験したあと、まったく不得手なテレビ技術の講習も受けた。
夜も遅くなりいい加減に疲れたが、会社からもらった弁当をみんなで食べていると、急に、ある音楽が部屋いっぱいに流れた。放送中だったのか・・・? それがこの『見上げてごらん夜の星を』だった。聴いているうちになんとも心休まる、癒された気分になったのを覚えている。忘れられない思い出だ。
13)『この広い野原いっぱい』
小薗江(おそのえ)圭子作詞、森山良子作曲のフォークソングで、1967年(昭和42年)にリリースされた。 乙女心がいっぱいの歌で、「だから私に手紙を書いて 手紙を書いて・・・」というのがなんとも愛らしい。
「世界中の何もかも ひとつ残らず あなたにあげる・・・」 男性にとってはたまらない歌だ。いや、君の真心だけでいいよ!(笑) 森山良子の歌声をぜひ聴いてほしい。
1 この広い野原いっぱい咲く花を
ひとつ残らず あなたにあげる
赤いリボンの花束にして
2 この広い夜空いっぱい咲く星を
ひとつ残らず あなたにあげる
虹に輝くガラスにつめて
3 この広い海いっぱい咲く舟を
ひとつ残らず あなたにあげる
青い帆にイニシャルつけて
4 この広い世界中の何もかも
ひとつ残らず あなたにあげる
だから私に手紙を書いて
手紙を書いて
(『二木絋三のうた物語』より歌詞を引用)
14)『北国の春』
歌詞もメロディーも大好きな曲だ。1977年(昭和52年)にリリースされたもので、作詞はいではく、作曲は遠藤実で、千昌夫が歌ったが、当初はあまり評判にならなかった。ところが2年後から爆発的にヒットし、アジア各国でも歌われるようになったという。
累計売り上げは300万枚というから驚く。日本の山村、農村をイメージしたノスタルジー・郷愁にあふれる名曲だと思う。
15)『南国土佐を後にして』
1959年(昭和34年)にリリースされ、累計200万枚を売ったという大ヒット曲。 元々は高知県の地元にあった歌を作曲家の武政英策が作詞、作曲したもので、ペギー葉山が歌って全国的に知られるようになった。
昔、テレビ局の仕事で高知には十数度も行ったが、酒を飲むとつい歌いたくなるのがこの曲だ。歌えば歌うほどおおらかな気分になってくる。まるで自分が坂本龍馬になったような気分になるのだ(笑)。高知県にふさわしい名曲だと思う。
16)『津軽海峡・冬景色』
1977年(昭和52年)に発表された大ヒット曲で、石川さゆりは一躍 国民的な歌手になった。作詞は阿久悠、作曲は三木たかしで、詞も曲も見事である。 昔は北海道へ行くには、青森・函館間を「青函連絡船」に乗るのが一般的だった。
以前、私は妻と北海道旅行をした際、函館でこの映像にある連絡船の摩周丸を見学したことがある。その時、非常に印象に残ったのは、1954年(昭和29年)9月に起きた「洞爺丸事故」関連のくわしい展示があったことだ。
この事故は、台風15号の影響で洞爺丸が沈没し、死者・行方不明が1155人も出るという未曽有の大惨事だった。それ以降、連絡船はやめて「青函トンネル」を作ろうということなり、現在の北海道新幹線が誕生したのである。
以上のことから、『津軽海峡・冬景色』を聴く時、私はいつもこれは青函連絡船の“挽歌”のように聞こえる。連絡船は永遠になくなったのだ。 歌の中にあるように、恋人である彼と永遠に別れるように・・・
17)『夜明けのうた』
1964年(昭和39年)にリリースされた岸洋子の歌で、作詞は岩谷時子、作曲はいずみたく。 岸はこの曲でレコード大賞の歌唱賞を受賞したが、のびやかな歌声が実に美しい。
彼女はもともとシャンソン歌手で、越路吹雪と並び称されたが、重い病気をたびたび患い57歳で帰らぬ人(1992年・平成4年)となった。しかし、岸洋子の歌声はいまだに多くの人の心に残っているだろう。私も彼女の歌声が忘れられない。
18)『島のブルース』
1963年(昭和38年)にリリースされた三沢あけみと和田弘とマヒナスターズのシングル盤で、吉川静夫が作詞、渡久地政信が作曲した。
ちょうどこの年の夏、某テレビ局への就職が内定した私は、職場研修である歌番組の実習に参加した。そのリハーサルで、メイン歌手の“前座”で三沢あけみがこの曲を歌ったのである。
奄美大島を舞台にした抒情味あふれる曲を、まだ18歳の三沢が艶っぽく歌ったのが今でも忘れられない。もちろん、この歌は大ヒットしてのちにミリオンセラーになった。
19)『友よ』
ふと、昔の歌を思い出した。
今から50年以上も前、いわゆる“1970年安保闘争”と言われた時期に、民放テレビの一記者として学生運動を取材していた私は、この歌を繰り返し耳にした。取材が終わって喫茶店などでくつろいでいる時、いつの間にか私はこの歌を口ずさんでいた。今の若い人は、この歌を聴いたらどう思うだろうか・・・
1968年(昭和43年)に発表されたもので、作詞は岡林信康と鈴木孝雄、作曲は岡林信康である。
20)『リンゴの唄』
1945年(昭和20年)、敗戦直後の日本の惨状は極めて深刻だった。多くの都市がアメリカ軍の空襲で“焼け野原”となり、街には戦災孤児や怪我人、それに傷痍軍人や浮浪者があふれ、餓死者が出るなど人々はその日の食べ物を得るのにも苦労していた。まことに哀れな惨状だった。
こうした中で、ある唄が人々の心を癒し慰め、生きる希望を与えてくれた。それが『リンゴの唄』である。この唄はある映画のテーマソングで、歌っているのは松竹少女歌劇団の並木路子だった。
彼女自身も戦争で父と母と兄を亡くし、悲劇のどん底にあった。しかし、映画関係者らに励まされ、なんとか明るい声でこの唄を歌ったのである。その結果、映画も評判になったが、唄の方は驚くほどに大ヒットした。当時、幼児だった私もこの唄のことをよく覚えている。
これほど戦争で傷ついた人々の心を癒し、生きる希望を与えてくれた唄があっただろうか。まるで“奇跡”のような唄である。作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。
21)『オリンピック・マーチ』
1964年(昭和39年)の東京オリンピックに採用された行進曲で、古関裕而(こせきゆうじ)が作曲したものだ。とても伸びやかな生き生きしたメロディーで、いかにも行進曲らしい。
10月10日の開会式を前に、新幹線が初めて開通したり、高速道路やモノレールが整備されるなど、当時の東京や日本は何もかも元気いっぱいだった感じがする。不肖・私もテレビ局に入ったばかりで、わくわくどきどきしながらオリンピックを迎えたものだ。
以下に、ファンファーレ付きの『オリンピック・マーチ』を載せておこう。
22)『こんにちは赤ちゃん』
1963年(昭和38年)7月に発表された曲で、またたく間にみんなに知れ渡った。その頃、どこへ行っても、梓(あずさ)みちよが歌うこの曲が流れていたのを思い出す。
いわゆる“六・八コンビ”の永六輔の作詞、中村八大の作曲で、こんなに愛くるしい曲は滅多にない。梓みちよはその年のレコード大賞を受賞し、また、この歌はのちに「日本の歌百選」にも選ばれている。誰が聞いてもほのぼのとする曲だ。
23)『青い山脈』
敗戦後の“新生日本”を象徴するかのような曲だ。作られたのは1949年(昭和24年)で、同名の映画のテーマソングとして世に出た。 作詞は西條八十、作曲は服部良一で、藤山一郎と奈良光枝が歌った。
重苦しい軍国主義から解放されて、個人の自由と、希望に満ちた平和で明るい日本を謳っているかのような印象を受ける。 特に2番の冒頭の「古い上衣(うわぎ)よ さようなら」という歌詞はそれを象徴しているように見える。
この曲は「昭和の歌」の中ではいつもトップの座を占める人気ぶりで、これからも永く歌い継がれていくだろう。
24)『いい日旅立ち』
1978年(昭和53年)にリリースされた曲で、国鉄(今のJR)がキャンペーンソングに使った。作詞・作曲は谷村新司で、歌ったのは山口百恵。
これはどう見ても“失恋”の唄だが、一般には結婚式や卒業式の席で歌われることが多いという。「日本の歌百選」にも選ばれている。題名が『いい日旅立ち』だからだろうが、谷村自身「歌詞をよく見てください」と言っている。
「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」という歌詞には、はじめ笑ってしまった。そんなことはあり得ないだろうが、失恋の心を癒すにはそう思うしかないのか・・・
25)『古城』
昭和30年代に大活躍した歌手が三橋美智也だ。数々のヒット曲を飛ばしたが、この『古城』もその代表的なものである。1959年(昭和34年)にリリースされ、一説には300万枚を売り上げたという。
作詞は高橋掬太郎(きくたろう)、作曲は細川潤一で、日本人の情緒にぴったりの哀感あふれる曲だと思う。実際の古城のモデルは、石川県の七尾城跡だと言われているが、七尾城には天守閣がなかったため違うという説もある。
26)『北の宿から』
1975年(昭和50年)にリリースされた曲で阿久悠が作詞、小林亜星が作曲、都はるみが歌ったものだ。女心の切なさを、これほど見事に表現した唄はめずらしいのではないか。140万枚を超えるミリオンセラーになったが、レコード大賞や歌謡大賞も受賞している。
一見“素っ頓狂”な感じがする都はるみだが、おっと失礼!(笑)、彼女の歌唱力は抜群である。また、なんと言っても阿久悠の作詞が素晴らしい。女心の切なさがしみじみと伝わってくるようだ。この曲も永く歌い継がれていくだろう。
27)『夢は夜ひらく』
歌手の園まりさんが急性心不全で亡くなっていたことが分かった。享年80歳。ご冥福を祈る。彼女のヒット曲の中ではこの曲が好きだし、若いころよく歌ったものだ。
いま聴くと、どうも甘ったるい感じがするが、若いころはそうは思わなかった。いずれ『夢は夜ひらく』を取り上げようと思っていたが、彼女の逝去で予定より早まってしまった。
1966年(昭和41年)にリリースされ、その年のヒットチャート1位になった曲だ。作詞は中村泰士と富田清吾、作曲は曽根幸明で、のちに多くの歌手がカバーしている。
28)『北へ』
私は小林旭の歌声が好きだ。この唄は男の哀愁、切なさ、わびしさを歌ったものだろうが、一方でほのぼのとした温かみも感じられるのが良い。
昔、友人のW君一家とゴルフに行ったことがある。その前夜、W君とお兄さん、私の3人がカラオケルームで歌を楽しんだが、やがて、お兄さんがこの唄を歌い出した。その時の情景が忘れられない。私はメロディーも歌詞もいっぺんに好きになったのである。
男は心に傷を持つと“北へ”向かうのだろうか、逆に女性は“南へ”向かうのだろうか・・・ まったく根拠のない話だが、どうもそのように思えてならない。余談だが、浅丘ルリ子が実に可愛い。 作詞・石坂まさを、作曲・叶 弦大。1977年(昭和52年)にリリース。
29)『原爆を許すまじ』
今日は広島に原爆が投下されてから79年目の日です。
ただし、この曲が作られたのは昭和29年(1954年)のことです。その年の3月、アメリカは中部太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ないました。その影響で、静岡県焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が“死の灰”を浴び、久保山愛吉無線長が約7か月後に死亡しました。
このため、原水爆禁止運動が一気に沸き起こり、それを背景に『原爆を許すまじ』の曲が作られました。作詞は浅田石二、作曲は木下航二です。(2024年8月6日)
30)『世界の国からこんにちは』
1970年(昭和45年)に開かれた「大阪万博」のテーマソングがこの曲だ。作詞は島田陽子、作曲は中村八大で、他の歌手も歌ったが、三波春夫のものが特に有名である。
三波の歌声は素晴らしく、圧倒的な人気を博した。他の歌手のを含めて総売り上げは300万枚を超えたと言われる。あの頃は、1964年の東京オリンピックを引き継いで日本全体が上昇傾向にあった。そして、大阪万博も大成功を収めたのである。
総入場者は6421万人と万博史上最高の人出を記録し、日本国内では“民族の大移動”とさえ言われたのだ。もちろん、私も見に行った。
それに比べると、来年の大阪万博は大丈夫か? いろいろ問題が指摘されているが、心配である。それはともかく、三波春夫の歌声を聴いていこう。(2024年8月7日)
31)『長崎の鐘』
昭和20年(1945年)8月9日、アメリカ軍によって長崎に原爆が投下された。 当時、長崎医大に勤務していた永井隆博士も被爆して頭に重傷を負ったが、すぐに他の被爆者の救護活動に全力を尽くした。
永井博士は11日に帰宅したが、台所跡から骨片だけになった妻の遺骸を発見し、悲しみに暮れながらこれを埋葬した。被爆直後の永井博士の実状は以上である。
敗戦後も博士は白血病などに苦しみながら、被爆者の救護、救援に全力を挙げたが、昭和26年5月、入院中に帰らぬ人となった。まだ43歳の若さだった。
闘病生活を続けながらも、永井博士の献身的な活動は多くの人々の感動を呼び、内外に広く伝えられた。巡行中の昭和天皇が見舞いに訪れたり、ローマ教皇庁が2度にわたって見舞いの特使を派遣するなどした。
こうした中で、昭和24年7月にサトウハチローの作詞、古関裕而作曲の『長崎の鐘』が生まれた。歌ったのは藤山一郎で、藤山自身、アコーディオンをかついで生前の永井博士を見舞い、枕元でこの曲を歌ったのである。 (2024年8月9日)
32)『いつでも夢を』
1962年(昭和37年)にリリースされた橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲で、その年のレコード大賞を受賞した。また、のちに「日本の歌百選」にも選ばれている。作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正。
橋幸夫は若いながらもすでに有名な歌手になっていたし、女優の吉永小百合は可憐な美しさで光り輝いており、人気は抜群だった。
翌年には同名の映画『いつでも夢を』が作られ、橋も吉永も主役として出演している。この映画は、貧しくてもひたむきに生きる若者たちを描いており、多くの映画ファンの共感を得たと言えよう。
33)『王将』
村田英雄が歌ったあまりにも有名な“演歌”だ。リリースされたのは1961年(昭和36年)で、西條八十が作詞、船村徹が作曲した。累計売り上げ枚数は、最終的に300万枚を超えたと言われる大ヒット曲だ。
浪曲で鍛え上げられた村田英雄の声は、なんとも太くて渋みがある。この曲は大阪出身の有名な将棋棋士・坂田三吉をモデルにしており、関西では特に人気があって歌われていた。
34)『世界は二人のために』
佐良直美(さがらなおみ)のデビュー曲で1967年(昭和42年)にリリースされた。作詞は山上路夫、作曲はいずみたく。
発売されるや人気を呼び、佐良はその年のNHK紅白に初出場したりレコード大賞新人賞を受賞した。また、結婚式ソングになったり、翌年の選抜高校野球の入場行進曲になったりした。
平和な時代にぴったりのおおらかな曲だが、当時の自民党のある実力者(のちに首相)は「世界のために二人はあるのだろう」と皮肉って記者団を笑わせた。
35)『異国の丘』
戦後まもなく、最もよく歌われた曲が『異国の丘』だろう。昭和23年(1948年)にNHKの「のど自慢」でシベリアからの復員兵が歌ってから知れ渡ったが、はじめは誰が作詞・作曲したのか分からなかった。
やがて、シベリアから帰還した吉田正が自身が作曲したと名乗り出た。作詞者も分かって多くの歌手が歌うようになり、同名の映画『異国の丘』も作られて国民的な曲になったのである。
シベリアやモンゴル、北朝鮮などに抑留された日本人は約65万人、いや一説には107万人とも言われ、劣悪な環境のもと、強制労働に従事させられて“望郷の念”を深めていたのだ。この曲を聴く時、その気持ちが痛切に伝わってくる。
36)『ここに幸あり』
1956年(昭和31年)に作られた同名の映画『ここに幸あり』の主題歌で、作詞は高橋掬太郎、作曲は飯田三郎で、大津美子が歌った。
発表されるやいなや、その美しいメロディーと歌声で大いにヒットした。当時 中学生だった私もこの曲のことをよく覚えている。結婚式の披露宴でもよく歌われたが、評判は国内にとどまらず海外にも広まった。
特にハワイやブラジル、フィリピンなどでよく歌われ、大津美子はハワイ公演の時に、殺到したファンに頼まれ、みずから300部以上の楽譜を手書きで作ったといわれる。
37)『渡良瀬橋』
戦後の名曲がほとんど昭和のものなので、ここで「平成」のものをお届けしよう。平成5年(1993年)にリリースされた『渡良瀬橋』である。
作詞は森高千里、作曲は斉藤英夫で、森高自身が歌う。彼女は何度も栃木県の足利市を訪れたそうだが、郷土への想いと“彼”への想いが見事に交錯した歌だと思う。歌詞の中にある公衆電話がなつかしい。 ほのぼのとする気持ちが伝わってくる曲だ。
38)『思い出のアルバム』
幼稚園や保育園の卒園式ソングとして有名だ。発表されたのは1961年(昭和36年)で、その後、レコード化され保育の現場で歌われてきたという。
卒園式の日、この曲が流れると、若いお母さん方が涙を流してわが子たちを見守るシーンがよくある。小学1年生を前に、わが子たちのさらなる成長を祈っているようだ。これほど温かみのある曲も滅多にない。
39)『お富さん』
1954年(昭和29年)8月にリリースされ、新人歌手の春日八郎が歌って大ヒットした。ブギウギのリズムを基調とした非常にテンポの良い曲だったので、小学生まで意味が分からないのに歌っていたほどだ。
当時はどこへ行ってもこの曲が流れ、まるで“戦後復興”の日本を象徴するかのような感じだった。当時 中学1年だった私も、意味がよく分からないのにこの唄を歌っていた(笑)。
歌舞伎を題材とした曲だが、要するに不倫の恋をして別れた与三郎とお富が、再会するというストーリーだ。くわしい話は省略するが、実話を元にした歌舞伎の演目が題材である。作詞は山崎正、作曲は渡久地政信。
40)『悲しき口笛』
戦後日本の“歌の女王”といえば、なんと言っても美空ひばり(本名・加藤和枝)である。昔は、誰だって彼女の歌声を聴いているはずだ。
長々と説明するつもりはないが、美空ひばりが12歳で一躍 有名になったのが、この『悲しき口笛』のヒットによるものだ。1949年・昭和24年のことである。彼女はこれによって“天才少女歌手”と呼ばれるようになった。
この唄は同名の映画のテーマソングで、当時としては史上最高記録の45万枚を売り上げたという。作詞は藤浦洸、作曲は万城目正で、シルクハットに燕尾服姿で歌うひばりの姿がとても印象的だ。
映画は終戦直後、横浜に復員してきたある男が妹(ひばり役)の行方を捜すというストーリーだが、その唯一の手がかりは男が戦地に赴く前に、妹に教えた唄『悲しき口笛』だったのである。
41)『恋人よ』
1980年(昭和55年)の大ヒット曲で、五輪真弓が作詞・作曲し彼女自身が歌った曲だ。 ある人が、これは「アクティブな生き方をしているインテリ女性の失恋というイメージがある」と語っているが、私もそのような印象を受ける。
ちょうどこの頃は、男女間の雇用機会均等が叫ばれ、女性の社会進出が当然のことのように言われた時期だ。現実に5年後に「男女雇用機会均等法」が制定された。
そうした背景の中で、インテリ女性の“痛切な失恋”を思わせるこの曲が世の中に広まったのだろう。五輪真弓の硬質な歌声とメロディーによって、切々たる哀感が伝わってくるようだ。 しかし、アクティブな女性は挫けない。失恋という挫折を乗り越えて前へ進んでいくに違いないのだ。
なお、この曲は韓国やベトナムなど、アジア各国でも大いにヒットしたという。
42)『鐘の鳴る丘(とんがり帽子)』
アメリカ軍の空襲で家や親を失った子供たちを“戦災孤児”と呼んだが、終戦直後、そういう浮浪児が街にあふれていた。当然、社会問題化したため、その子たちを収容する施設が各地に作られた。
そこで、昭和22年(1947年)、NHKが『鐘の鳴る丘』というラジオドラマを始めて、そういう子供たちの日常生活を描いたが、その主題歌が『とんがり帽子』である。そして、翌年には映画化もされた。
歌の作詞は菊田一夫、作曲は古関裕而で、川田正子と音羽ゆりかご会が歌った。厳しい逆境の中でも、負けずに育っていく子供たちである。
43)『およげ!たいやきくん』
1975年(昭和50年)に不二テレビ、いやフジテレビの子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」で発表された童謡だ。作詞は高田ひろお、作曲は佐瀬寿一で、子門真人が歌った。
リリースされた直後から大ヒットし、今までにオリコン市場最高の450万枚以上を売り上げたといわれる。歌詞の内容は「たいやきくんが店のおじさんとケンカして、海へ逃げ込む」という幼児向けのものだ。
余談だが、この歌が発表されたころ、ちょうど国鉄労組などが“スト権スト”という大規模な闘争に入っていた。国電などが10日間もストップしたため、サラリーマンの諸君はやむを得ず自宅待機になったりして、家で幼児らと一緒にテレビを見ることになった。
すると、毎日のように『およげ!たいやきくん』の曲が流れたため、これが大ヒットにつながったという。
44)『二人の世界』
1970年(昭和45年)から翌年にかけて、TBS系列の「木下恵介アワー」で放送されたテレビドラマで、同名の主題歌をあおい輝彦が歌った。
脱サラしてスナック喫茶店を開いた“新婚夫婦”の物語で、主役は竹脇無我と栗原小巻のゴールデンコンビで、広く人気を集めた。
当時、私は忙しくてほとんど見なかったが、新婚ホヤホヤのわが女房は夢中でドラマを見ていたらしい。あおい輝彦の歌をいつも口ずさんでいた。だから、歌だけはよく覚えている。われわれにとって、いつまでも心に残る“新婚ソング”と言ってよい。
45)『ブルー・ライト・ヨコハマ』
1968年(昭和43年)12月にリリースされた曲で、横浜市の“ご当地ソング”ではナンバーワンの人気を誇る。 作詞は橋本淳、作曲は筒美京平、歌ったのはいしだあゆみ(本名・石田良子)で当時 20歳だった。
発売されるやいなやすぐにミリオンセラーとなり、いしだあゆみはまたたく間に人気者になった。とても歌いやすい曲で、自分も新宿・歌舞伎町界隈のスナックバーなどでよく歌ったものだ。
海なし県の埼玉にいると、海がある横浜は憧れの地だ。何度も横浜には行ったが、今でも友人や知人がいて親しく付き合っている。この歌を聴いていると、また遊びにでも行くか・・・(笑)
46)『青春時代』
1976年(昭和51年)にリリースされた曲で、作詞は阿久悠、作曲は森田公一で、森田自身とトップギャランが歌った。発売から半年でミリオンセラーになったという。
メロディーもいいが、阿久悠の歌詞が素晴らしい。「青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり」「胸に刺(とげ)さすことばかり」だと聞くと、自分の青春時代をつい思い出してしまう。
青春には大いに失恋や挫折などがあるだろう。しかし、それを乗り越えて前に進むしかないのだ。今の若い人たちは、この曲を聴いたらなんと思うだろうか。
47)『湯の町エレジー』
子供の頃によく聞いた歌だが、1948年(昭和23年)にリリースされ、蓄音機がまだ少ない時代なのに、すぐに40万枚以上売れたというヒット曲だ。最終的には100万枚近く売れたという。昭和20年代では異例のことである。
作詞は野村俊夫、作曲は古賀政男で、近江俊郎が歌った。ギターをメインにした“古賀メロディー”の代表的な曲と言えるだろう。
伊豆地方には何度も行ったが、温泉の地を背景に、初恋の人を偲びながらギターをつまびく切ない想いが伝わってくる。
48)『山小舎の灯』
近江俊郎の歌を聴いていたら、どうしても『山小舎の灯』を載せたくなった。大好きな歌なのでお許し願いたい。
この歌は1947年(昭和22年)にNHKの「ラジオ歌謡」で発表されたもので、作詞・作曲は米山正夫である。米山は戦前から近江俊郎と仲が良かったため、近江がNHKに強く働きかけて、放送が実現したといわれる。
余談だが、戦前はジャズを始めこういう歌は“敵性音楽”として禁止されたが、戦後になってようやく復活したのである。そういう意味で、音楽にとっても、戦後は戦前よりもはるかに良いと言えるだろう。
49)『鉄腕アトム』
漫画家の手塚治虫は1963年(昭和38年)に、テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作した。これを放送したのはフジテレビで、わが国初の30分枠だったため、そこから本格的な“アニメ時代”が始まったと言えるだろう。
オープニングの作詞は谷川俊太郎、作曲は高井達雄で、アニメにど素人の私でも、胸がわくわくするような曲だったのを覚えている。 手塚治虫はのちに“マンガの神様”と呼ばれ、日本のアニメ文化の発展に貢献したことはよく知られている。
50)『東京ブギウギ』
『東京ブギウギ』は1947年(昭和22年)にリリースされ一躍ヒットしたが、のちの『青い山脈』と共に、敗戦直後の日本に明るい開放的な気分をもたらした曲と言えるだろう。
両方とも服部良一が作曲したが、こちらの作詞は鈴木勝で、笠置シヅ子が歌った。笠置の歌声も元気いっぱいで良いが、なんと言っても、ブギウギのリズム感あふれる音色が素晴らしい。子供の頃に聴いた思い出がよみがえってくる。
51)『あなたの心に』
1969年(昭和44年)にリリースされた曲で、作詞は中山千夏(ちなつ)、作曲は都倉俊一で、中山自身が歌った。清らかな乙女心を見事に表現した歌詞だと思うので、以下に載せておきたい。
中山千夏は子供の頃から“名子役”と言われ、舞台などで活躍していたが、のちに女優やテレビタレント、声優や歌手でも名をはせた。まさに“女性マルチタレント”の元祖のような存在で、誰もが彼女のことを知っていたと思う。
それだけでなく、ウーマン・リブ運動に参画したあと、1980年(昭和55年)には参議院議員に当選し、一時は「革新自由連合」の党首も務めたのだ。私が知るかぎり、政党会派の“女性党首”になったのは中山千夏が日本で初めてである。
このように多彩な活動で注目されたが、彼女が初めて作詞したこの曲は、清純な乙女心が見事に表現されていると思う。 以下、歌詞を打ち込むのに疲れたよ~!(笑)
『あなたの心に』
あなたの心に 風があるなら
そして それが 春の風なら
私ひとりで ふかれてみたいな
いつまでも いつまでも
あなたの心に 空があるなら
そして それが 青い空なら
私ひとりで のぼってみたいな
どこまでも どこまでも
だって いつも あなたは
笑って いるだけ
そして 私を 抱きしめるだけ
あなたの心に 海があるなら
そして それが 涙の海なら
私ひとりで およいでみたいな
いつまでも いつまでも
だって いつも あなたは
笑って いるだけ
そして 私を 抱きしめるだけ
52)『おふくろさん』
1971年(昭和46年)にリリースされた曲で、作詞は川内公範、作曲は猪俣公章で、森進一が歌った。川内の歌詞が素晴らしい。
森進一については、そのかすれた歌声が魅力的だと言われたが、彼が新人の頃、NHKの歌番組か何かで初めて聴いた時、これでよく歌手をやっていられるな~と思った(笑)。しかし、それは演歌などに“ど素人”の私の感想で、森はその後、数多くのヒット曲を出して人気を博した。つまり、森進一の個性、人間性が受けたのである。
『おふくろさん』は名曲だと思うが、後日、森が独断で歌詞を入れたとして川内が激怒し、“おふくろさん騒動”に発展したこともよく知られている。
53)『里の秋』
この曲は戦前に作られたものと誤解していたが、それは私の間違いだったので載せることにした。調べてみると、作詞は戦前だったが、それを一部修正して曲が作られ、世に出たのは戦後だと分かった。 昭和20年(1945年)12月のことである。
出征した父親の無事帰還を祈る歌だが、終戦直後にラジオで放送されたため、大きな反響を呼んだ。切実な思いをしている人がきっと多かったのだろう。歌詞もメロディーも美しく、のちに「日本の歌百選」にも選ばれている。作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實で、歌ったのは川田正子だが、倍賞千恵子でお聴き願おう。
54)『時代おくれ』
“時代遅れ”は自分のことかと思っていたが、世の中にはそう思う人がけっこういるようだ。だいたい年寄りである。しかし、この歌を聴いていると、ほのぼのとして癒される感じになる。
1986年(昭和61年)にリリースされた曲で、作詞は阿久悠、作曲は森田公一で、河島英五が歌った。河島の雰囲気は“時代遅れ”にぴったりである。歌詞もメロディーも素晴らしい。いつ聴いても癒される曲だ。
発売当時はあまり評判にならなかったが、徐々に人気を呼び、ちょうど昭和から平成にかけて、多くの人に親しまれるようになったという。あのバブル景気が消滅した頃の話だ。
55)『翼をください』
フォークグループの「赤い鳥」が1971年(昭和46年)に発表した曲で、作詞は山上路夫、作曲は村井邦彦である。多くの歌手が歌っているが、山本潤子のものを載せよう。
私もこの曲には思い出があり、特に23年前、定年でテレビ局を去る時の送別会で、後輩の女子社員やアルバイト女性らが、この唄を歌って見送ってくれたことが忘れられない。 人間も死に際には、この唄の歌詞のような気持ちで“天国”へ行ければ幸せではないだろうか。
つい最近、映画「耳をすませば」のDVDを見ていたら、主題歌としてこの曲が歌われたのも印象的だった。2007年(平成19年)には「日本の歌百選」に選ばれている。
56)『喜びも悲しみも幾年月』
1957年(昭和32年)に松竹が『喜びも悲しみも幾年月』という映画を制作・公開した。監督は木下恵介で、同名の主題歌を実弟の木下忠司が作詞・作曲し、これを若山彰(あきら)が歌ったところ、映画も歌も大ヒットしたのである。
物語は、灯台守の夫婦が戦前から戦後にかけて、厳しい環境のもと北海道から九州に点在する灯台の任務につくというもので、この夫婦役を佐田啓二(俳優・中井貴一の実父)と高峰秀子が演じた。
夫婦の半生には、息子の死亡など悲しい出来事があったが、それらを乗り越えて生きていくしかない。こうしたストーリーは、ある実話をもとにして作られたものだ。佐田と高峰の夫婦役も良かったし、若山彰の歌声も生き生きとしていた。
57)『あなた』
1973年(昭和48年)に、当時16歳の小坂明子が作詞・作曲し歌った曲で、ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)でグランプリを獲得した。
切々たる乙女の恋心が見事に表現されていて大変な人気を呼び、最終的には200万枚を超える売り上げになったという。高校の1年先輩への想いで作った曲だそうだ。
ただ、歌詞の最後にあるように、「私の横にはあなた、私の横にはあなた、あなた、あなたがいて欲しい」と何度も何度も言われると、息苦しく感じることも・・・(笑)
58)『世界に一つだけの花』
平成時代の代表的なアイドルグループ・SMAPが2003年(平成15年)から歌って大ヒットした曲で、作詞・作曲は槇原敬之である。
歌詞にあるように「ナンバーワンでなくオンリーワン」というのは、仏教の“天上天下唯我独尊”からヒントを得ているという。槇原自身が仏教に傾倒したからだ。
最終的な売り上げ枚数は300万枚を突破しただけでなく、2007年(平成19年)には「日本の歌百選」にも選ばれた。まさに平成時代を代表し、象徴するかのような曲になったのである。
しかし、その後「2番じゃ駄目なんですか」というセリフが皮肉られ、「ゆとり教育」も批判されるなど時代の流れは変わっていったと思う。
59)『銀座の恋の物語』
昭和の大スター・石原裕次郎の代表的なデュエットソングだ。相手は牧村旬子で、1961年(昭和36年)に日活映画の挿入歌としてリリースされた。作詞は大高ひさを、作曲は鏑木創(はじめ)で、公称300万枚を超える大ヒット曲になったという。
私も昔、若い女性とカラオケで歌ったことがあるが、実にほのぼのとして気持ちが良かったのを覚えている。
60)『喝采』
1972年(昭和47年)9月にリリースされた曲で作詞は吉田旺、作曲は中村泰士、歌手はちあきなおみである。
亡くなった恋人を偲びながらステージで歌うという設定だが、ちあき自身が同じような体験をしていたという。
その想いが伝わったのか、9月にリリースされたのにあっという間に共感を呼び、暮れのレコード大賞を受賞してしまった。発売されてからわずか3カ月の受賞はレコード大賞で初めてのことで、いまだにその記録は破られていない。
なお、ちあきなおみは20年後(1992年)に夫と死別したが、それを契機に芸能活動を完全に休止し、惜しまれつつ、事実上の引退となってしまった。
蛇足だが、彼女の誕生日は9月17日で私と同じだから、余計に惹かれるのだろうか・・・
61)『君恋し』(戦後版)
原曲は戦前に作られたものだが、昭和36年(1961年)にフランク永井が歌って再びヒットした。だから、戦後版として取り上げる。 作詞は時雨音羽、作曲は佐々紅華だが、歌詞がまことに見事だと思う。
フランク永井の低音は実に魅力的で、その声のファンが多かった。私もそうである。彼は他にも『有楽町で逢いましょう』『東京ナイト・クラブ』『おまえに』などのヒット曲を世に送り、戦後の歌謡界に名をとどろかせた。
62)『真夜中のギター』
1969年(昭和44年)8月にリリースされた曲で、作詞は吉岡治、作曲は河村利夫で、千賀かほるが歌った。フォークソングの名曲と言われ、多くの歌手がカバーしている。
メロディーが実に良い。これを聴いていると、ギターが弾けない自分でも、夢の中でずっと弾いている気分になる。そして夜明け・・・ 失恋で傷ついた心は癒されているのだ。青春時代の“ともしび”の一つだろう。
63)『また逢う日まで』
1971年(昭和46年)は尾崎紀世彦の“当たり年”だった。この曲を始め『さよならをもう一度』『愛する人はひとり』などのヒット曲を次々と出し、『また逢う日まで』でその年のレコード大賞に輝いた。
これらの曲は阿久悠が作詞したもので、彼もその名声を不動のものにしたと言えるだろう。
レコード大賞の時のVTRが見つかったので、その時の模様をご覧いただきたい。なお、作曲は筒美京平である。尾崎紀世彦の力強い歌声が印象的だ。
64)『時の流れに身をまかせ』
“アジアの歌姫”と言われたテレサ・テンが歌って大ヒットした曲だ。1986年(昭和61年)にリリースされ、200万枚を売り上げたと言われる。
作詞は荒木とよひさ、作曲は三木たかし、編曲は川口真で、数多くの歌手によってカバーされた。 以下の映像は1994年(平成6年)に収録されたもので、テレサ・テンが42歳で亡くなる前年のものである。
切ない女心をこれほど見事に表した歌詞は滅多にない。また、メロディーもおだやかで美しい。テレサ・テンは他にも多くのヒット曲を出し、母国・台湾や日本だけでなく、中国本土でも人気を博した。まさに“アジアの歌姫”である。
65)『明日があるさ』
1963年(昭和38年)12月にリリースされた曲で、坂本九が歌ってヒットした。九ちゃんが22歳の時である。 作詞はのちに東京都知事などを務めた青島幸男、作曲は中村八大だ。
九ちゃんの明るい歌声と、青島幸男の愉快な歌詞がわれわれの青春を思い出してくれる。また、メロディーも軽快でリズミカルだ。つい、若い頃の“失恋”の思い出がよみがえってくる(笑)。
66)『伊勢佐木町ブルース』
前回の坂本九も今回の青江三奈も、私と同じ昭和16年(1941年)生まれなので余計に親近感を覚える。青江三奈は森進一と同じように“ハスキーボイス”で有名になった。
この曲は1968年(昭和43年)にリリースされミリオンセラーになったもので、作詞は川内康範、作曲は鈴木庸一である。冒頭の青江三奈の“吐息”はセクシーな感じがして、いろいろ話題になった。
他の楽器の音に差し替えられたこともあったが、彼女の持ち味がよく出ているのではなかろうか。青江ファンである私の先輩などは、テレビにかじりつくようにしてこの曲を聴いていたのを思い出す。
67)『白いブランコ』
1969年(昭和44年)にリリースされた曲で、菅原孝・進の兄弟2人組のビリー・バンバンが発表した。作詞は小平なほみ、作曲は弟の進である。
われわれ爺婆(じじばば)が青春時代を送った頃、よく耳にしたのがフォークソングだった。この『白いブランコ』は、その代表的な曲の一つだと思う。
ちょっと寂しい時にこの曲を聴くと、なんとも癒された気持ちになる。そして、明日への希望を取り戻して歩んでいく・・・ そうした曲ではなかろうか。
68)『なごり雪』
フォークバンド「かぐや姫」の伊勢正三が1974年(昭和49年)に作詞・作曲したもので、これをのちにイルカが歌ってヒットした。 なお、you tube で素晴らしい文章を発見したので、以下に載せておこう。
お名前は「よしおか ともかず」さんと言うが、これを読んで私は何度も泣いてしまった。ご本人からのクレームがない限り、ずっと載せておく。
「今から二十数年前の春、故郷での就職を選び帰郷する彼女を東京駅まで見送りに行きました。 動き始めた新幹線の窓の向こうから泣き笑いで手を振る彼女の顔を今でも覚えています。『東京に残れ』と言いたかったけれど、まだ若かった私にはそれがどうしても言えませんでした・・・彼女の人生をすべて背負ってしまうようで怖くて・・・。大好きだった笑顔が 大学生活の思い出を連れて早春の鉄路の向こうに去ってゆきました。 あの時、勇気を振り絞って引き留めていたら、どんな人生が待っていたのだろう、そんなことを考えることもあります。『動き始めた汽車の窓に顔をつけて君は何か言おうとしている 君の唇がさようならと動くことが怖くて下を向いてた』・・・この歌詞を聴くといつも涙腺が崩壊します。 永遠の名曲です。」
同じような体験をした若者はいると思う。
69)『青い珊瑚礁』
昭和末期の芸能界の“スーパーアイドル”と言えば、やはり山口百恵と松田聖子ではなかろうか。 山口は1980年(昭和55年)にわずか21歳で引退したが、その後を継いだ形になったのが松田聖子である。
彼女もヒット曲を次々に出したが、年寄りの私でもよく覚えているのが、この『青い珊瑚礁』だ。作詞は三浦徳子(よしこ)、作曲は小田裕一郎で1980年7月にリリースされた。ちょうど山口百恵が引退した年である。
松田聖子は“ぶりっ子”だとか“聖子ちゃんカット”でも有名だが、彼女の伸びやかな明るい歌声は、その可愛さと相まって多くの人を魅了した。
70)『バラが咲いた』
1966年(昭和41年)にリリースされたフォークソングで、作詞・作曲は浜口庫之助(くらのすけ)で、マイク真木と西六郷少年少女合唱団(東京・大田区)が歌った。
国内外の多くの人に愛される曲で、ロシア・サンクトペテルブルクのある中学校の校歌にも採用されている。ほのぼのとした心温まる歌詞とメロディーが、多くの人を魅了しているのだろう。
71)『知床旅情』
加藤登紀子が歌って大ヒットした曲である。
元歌は『オホーツクの舟歌』と言って、名優の森繫久彌が作詞・作曲し、倍賞千恵子が歌ったのが有名だ。 始まりは1960年(昭和35年)に『地の果てに生きるもの』という映画の撮影のために、森繁たちが北海道の羅臼村を訪れたのが発端だ。
そして、地元で歌われていた曲をアレンジして出来上がったものだが、1970年(昭和45年)に加藤登紀子がカバーして大ヒットしたのである。
情感豊かな歌詞とメロディーが人々の心を惹きつけ、自分も昔 カラオケやスナックバーなどで何回も、いや何十回も歌ったことを思い出す。
72)『手のひらを太陽に』
1961年(昭和36年)に作られた童謡。作詞はやなせたかし、作曲はいずみたくで、翌年にNHKの「みんなのうた」で放送された。歌ったのは宮城まり子とビクター少年合唱団である。
当初は反響が少なくヒットしなかったが、やがてボニージャックスが歌ったりして広く知られるようになったという。そして「日本の歌百選」にも選ばれ、今は小学2年生の音楽の教科書にも載っている。
歌詞の一部が変わったりしているが、明るくのびのびとしたメロディーが愛らしい。
73)『涙(なだ)そうそう』
「涙そうそう」は、沖縄の方言で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味だそうだが、これを知った歌手の森山良子が、23歳の若さで急死した兄を偲んで この曲の歌詞を作ったという。
作曲は沖縄県石垣島出身のバンド・BEGINで、1998年(平成10年)にリリースされた。はじめは森山良子自身が歌っていたが、その後、石垣島出身の夏川りみが歌って大いにヒットした。また、多くの歌手がカバーしている。
愛する亡き人を偲ぶ想いが切々と伝わってくる曲で、のちに「日本の歌百選」にも選ばれた。 私自身はつい最近、映画『涙そうそう』をDVDで観たためか、どうしてもこの曲を載せたくなった。
追記・・・夏川りみの“節回し”は絶品である。
74)『別れの朝』
1971年(昭和46年)にリリースされたペドロ&カプリシャスのシングルだが、作曲はオーストリアのウド・ユルゲンスで、なかにし礼が日本語詞を付けた。
最初の歌手が前野曜子、次が高橋真梨子である。男女の別れの切なさを見事に表現しており、大いにヒットした。多くの歌手がこの曲をカバーしている。
75)『函館の女』
1965年(昭和40年)にリリースされた曲で、今や演歌の“大御所”とも言われる北島三郎が歌っている。作詞は星野哲郎、作曲は島津信男だ。
昔は、歌詞にあるように「はるばる来たぜ 函館へ さかまく波を のりこえて」と、青函連絡船に乗ったものだ。しかし、今は青函トンネルが開通しているからそうではない。 のちに連絡船の最終運航の際、この曲をみんなで合唱したという。
売り上げが140万枚という大ヒット曲だが、北島三郎の抜群の歌唱力を物語る代表的な一曲だろう。
76)『イムジン河』
イムジン河(臨津江)とは、北朝鮮から国境を越えて韓国に流れる河である。
この曲は、1968年(昭和43年)にザ・フォーク・クルセダーズが発表したものだが、リリース直前に発売中止になったいわくつきのフォークソングだ。
理由は、朝鮮総連が「韓国側に偏向した日本語詞になっている」などと抗議したと言われ、原曲は北朝鮮の朴世永が作詞、高宋漢が作曲したものである。
それを松山猛が日本語詞にして、ザ・フォーク・クルセダーズが楽曲にした。始めは発売中止になるなど苦難の連続だったが、その後、多くの人に愛され広く歌われるようになった。
2001年(平成13年)には、NHKの紅白歌合戦で韓国の歌手キム・ヨンジャも歌っている。南北に分断された朝鮮半島の“哀歌”と言えるだろう。
77)『帰って来たヨッパライ』
ザ・フォーク・クルセダーズの曲だが、中身は前回の『イムジン河』とはえらい違いで、1967年(昭和42年)にリリースされた。
ラジオで初めてこれを聴いた時、クラシック好きの私はなんて“ふざけた”曲かと思った。こんな曲は最低だと思った(笑)
ところが、この曲は見る見るうちに売り上げを伸ばし、最終的に131万枚とオリコン史上初のミリオン・シングルになったという。
載せようかどうか迷ったが、一世を風靡した曲だし、自動車社会到来という時代背景もよく出ているので載せることにした。音楽ってつくづく“摩訶不思議”だと思う。
78)『ガード下の靴磨き』
宮城まり子の歌を載せたくなった。この曲は1955年(昭和30年)にリリースされたものだが、敗戦後10年たっても、まだ“靴磨き”があったのだろうか。
宮城さんの歌声は明るくのびのびとしていた。彼女はのちに肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」をつくり、身体障害児の養育に一生を捧げた。そして、2020年(令和2年)に亡くなられたのである。享年93歳。
79)『上を向いて歩こう』
「戦後の名曲」シリーズを再開しよう。 坂本九の代表的な曲がこれだ。1961年(昭和36年)にリリースされたもので、作詞は永六輔、作曲は中村八大である。
国内で大ヒットしたが、海外でも「SUKIYAKI」ソングとして有名になり、坂本自身が招かれて渡米し、歌ったりもした。アメリカ国内の売り上げは100万枚を超え、世界の約70カ国の総売り上げは1300枚以上に達したというから凄い。
戦後、日本の歌がこれほど国際的になったのは初めてだろう。なお、2006年(平成18年)には「日本の歌百選」にも選ばれている。
80)『神田川』
1973年(昭和48年)に「南こうせつとかぐや姫」が発表した曲で、作詞は喜多條忠、作曲は南こうせつである。シングル盤として発売されたら大変な反響を呼び、またたく間にミリオンセラーになったという。
私の推測だが、これには大きな“時代的背景”があったように思う。以下は11年前に書いた一文だが、参考のために載せておきたい。自分勝手な駄文で申し訳ない。
< この歌が登場したのは40年前の1973年だ。私はそこに時代の“節目”を感じる。その頃が時代の転換点だったと思う。というのは、60年安保、70年安保と続いた「変革の闘争」がその頃に終止符を打ったのだ。
70年安保闘争は、全共闘運動を中心に大きな広がりを見せた。東大闘争、日大闘争などの学園紛争が全国に渦巻き、赤軍派などの超過激派が登場した。しかし、過激派の闘争も1972年に起きた連合赤軍「浅間山荘事件」を最後に終息に向かったのである。
後に残ったのは大きな“挫折感”である。敗北感と言ってもいい。若者たちは大きな夢、希望、幻想と言ったものを捨てざるを得なかった。そして、嫌でも小市民的、プチブル的生活を送らざるを得なかったのだ。これは“意識”の上でそうなったことが重要で、それが「諦めと慰め」の生活に彼らを誘(いざな)ったのである。
イデオロギーや理想、英雄的精神や夢は世知辛い日々の生活に取って代わられたのだ。これを「日常性への埋没」と呼んだ。若者たちは“現実的”になり、政治よりも経済が重視された。その辺から価値観が変わったのである。
以後40年間、基本的には何も変わっていない。若者たちは小さな幸せに安住し、大きな夢を持たない。しかし、それを責めたりはしない。なぜなら、管理社会がますますそうさせている。その方が平和で幸せなのだ。革命とか変革といった“幻想”は消えたのである・・・>
81)『寒い朝』
1962年(昭和37年)にリリースされた吉永小百合と「和田弘とマヒナスターズ」の曲である。作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正。
北風吹きぬく寒い朝でも、元気に胸を張っていこうという歌だが、17歳になったばかりの吉永小百合のデビュー・シングルでもあった。彼女の歌声の初々しさが引き立つようだ。
作曲した吉田正は生涯に約2400曲も作ったが、この歌が最も好きだと述べたという。彼は戦後、極寒のシベリアで長い“抑留生活”を送ったからだろう。その『異国の丘』は有名である。 さあ、寒さに負けず元気に前へ進もう!
82)『乾杯』
とても前向きの素晴らしい曲だと思う。リリースされたのは1980年(昭和55年)で、シンガーソングライターの長渕剛(つよし)が作詞、作曲した。
長渕のことはよく知らないが、彼の地元である鹿児島の友人が結婚すると聞いて、祝福のために作ったと言われる。 もちろんヒットしたが、結婚披露宴だけでなく卒業式でも歌われ、今では小学校の音楽の教科書にも載っているそうだ。
長渕剛の代表曲と言えよう。
83)『亜麻色の髪の乙女』
1968年(昭和43年)にリリースされたグループサウンズ「ヴィレッジ・シンガーズ」の曲で、作詞は橋本淳、作曲はすぎやまこういち(椙山浩一)だ。
明るい素直なラブソングで歌詞も良いが、メロディーが流れるように美しい。すぎやまこういちさんは実はフジテレビの出身で、私の大先輩に当たる。職場がまったく違ったので一度もお会いしたことはないが、どうしてもこの名曲シリーズに載せたくなった。
また、映像に出てくるシルビー・バルタンはその当時、最も人気のあったフランスの“アイドル歌手”で、日本でも馴染みが深いからこれを拝借しておく。
84)『柔(やわら)』
歌の女王・美空ひばりの最大のヒット曲の一つで、1964年(昭和39年)にリリースされ、半年足らずで180万枚以上を売り上げたという。作詞は関沢新一、作曲は古賀政男だ。
日本テレビのドラマ『柔』のテーマソングで、テレビの主題歌では「演歌は当たらない」という当時のジンクスを破り、見事に大ヒットしたのだ。
1964年の東京オリンピックで、柔道が初めて正式競技に採用されたという背景もあったが、やはり、美空ひばりの歌唱力が視聴者を惹きつけたのではないか。彼女の素晴らしい歌声を聴いてみよう。
85)『舟唄』
1979年(昭和54年)にリリースされた八代亜紀の代表的な曲で、作詞は阿久悠、作曲は浜圭介だ。抒情味あふれる演歌の一つだろう。
この歌で思い出されるのが映画「駅 STATION」だ。高倉健と倍賞千恵子がしんみりとお酒を飲みながら、NHKの紅白に出場した八代亜紀の歌声に聞きほれるというシーンだ。あれで、この歌がますます好きになった。
八代亜紀は昨年12月に亡くなった。享年73歳、ご冥福を祈る。(2024年12月22日)
86)『学生街の喫茶店』
フォークグループの「ガロ」が1972年(昭和47年)に発表した曲で、作詞は山上路夫、作曲はすぎやまこういち(椙山浩一)だ。
この歌のモデルは東京・御茶ノ水駅近くの喫茶店だそうだが、あの辺は今でも学生が大勢いるだろう。学生が入るのは“カフェ”なのか・・・なにか時代の変遷を感じる。
歌詞にあるように「君とよくこの店に来たものさ」なら良い。不器用で意気地のない私は、大好きな女子大生を一度も喫茶店に誘い出すことができなかった。残念! 今でも悔やまれる。