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戦後の名曲・コメント一覧①

2025年03月03日 06時16分09秒 | 映画・芸能・音楽

拙フェイスブックに連載中の「戦後の名曲」シリーズのコメントを、参考までに転載しておきます。

 

戦後の名曲

1)『夏の思い出』
夏がくると、つい思い出してしまうのがこの曲だ。昭和24年(1949年)にNHKラジオで放送されたもので、作詞は江間章子、作曲は中田喜直である。 蒸し暑い夏ではあるが、この曲を聴くと少しは涼しさを感じるような気持ちになる。

2)『少年時代』
真夏になると、いつも『少年時代』の歌を思い出す。同名の映画のテーマソングだが、井上陽水が平成2年(1990年)に作詞・作曲したものだ。 
映画の原作は遠い昔、太平洋戦争時代に富山に疎開したある少年の物語だが、陽水の音楽は幻想的、象徴的で詩情豊かなものになっている。 YouTubeに素晴らしい映像があったので、拝借することにした。

3)『ブルー・シャトウ』
1967年(昭和42年)当時はグループ・サウンズの全盛時代だったが、この年、レコード大賞に輝いたのが、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの『ブルー・シャトウ』だった。
グループ・サウンズは、他にもザ・スパイダースやザ・タイガースなど有名なものが幾つかあったが、私は特にブルー・コメッツが好きだった。それはある日、某テレビ局の地下通路で彼らとばったり出会ったからだろうか(笑)
それはともかく、ブルー・コメッツの歌の中でもこの『ブルー・シャトウ』は今でも忘れられない曲だ。

4)『君といつまでも』
1965年(昭和40年)にリリースされた加山雄三(弾厚作)作曲の歌で、300万枚を超える大ヒット曲になった。 この世で最も幸せな歌だと思うが、私もある女性を思い浮かべながら、新宿・歌舞伎町界隈のバーやスナックで大いに歌ったものである。これほど青春を謳歌した曲はない。

5)『恋の季節』
1968年(昭和43年)にリリースされた曲で、ピンキーとキラーズ(ピンキラ)が歌った。これも200万枚をはるかに超える大ヒット曲となり、ピンキラは一躍 有名になった。 中でもピンキーこと今(こん)陽子はまだ16歳の少女で、われわれのアイドル的存在になったのを覚えている。
作詞は岩谷時子、作曲がいずみたくで、この歌もバーなどで大いに歌ったものだ。

6)『青葉城恋唄』
今日は七夕だが、“杜の都”仙台では旧暦の行事として8月のこの日に七夕まつりを行なう。七夕というと、いつもこの歌を思い出すのだ。
失恋の抒情詩と言われるが、これほど情感豊かな曲は滅多にない。星間船一の作詞をさとう宗幸が作曲したもので、杜の都を背景にして「あの人は もういない」というメロディーが流れる。不滅の名曲だろう。

7)『瀬戸の花嫁』
若い頃の小柳ルミ子は本当に可愛かった。 この曲は1972年(昭和47年)に彼女が歌って大ヒットし、結婚披露宴の定番ソングにもなった。当時はどこへ行ってもこの曲が流れ、人々の心を潤したものだ。これほど愛された歌も珍しいだろう。
作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃
1 瀬戸は日暮れて 夕波小波
  あなたの島へ お嫁にゆくの
  若いと誰もが 心配するけれど
  愛があるから 大丈夫なの
  段々畑と さよならするのよ
  幼い弟 行くなと泣いた
  男だったら 泣いたりせずに
  父さん母さん 大事にしてね
2 岬まわるの 小さな船が
  生まれた島が 遠くになるわ
  入江の向うで 見送る人たちに
  別れ告げたら 涙が出たわ
  島から島へと 渡ってゆくのよ
  あなたとこれから 生きてくわたし
  瀬戸は夕焼け 明日も晴れる
  二人の門出 祝っているわ
(『二木絋三のうた物語』より歌詞を引用)

8)『高校三年生』
1963年(昭和38年)にリリースされた“学園ソング”の代表的な歌である。発表から60年以上たっているのに、今でも歌い継がれていることに敬意を表したい。そして「日本の歌百選」にも選ばれている。
作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実だが、舟木一夫のみずみずしい歌声が忘れられない。そして、あの懐かしいフォークダンスもよみがえってくるのだ。

9)『オホーツクの舟唄』
「知床旅情」の元歌が『オホーツクの舟唄』で、これは俳優・森繫久彌が1960年(昭和35年)に、映画のロケのため北海道の羅臼(らうす)に長期滞在した際に作詞、作曲されたものだ。
これを後に倍賞千恵子が歌ったが、彼女の美声と歌唱力は実に素晴らしいと感じた。倍賞のビデオは幾つかあるが、歌詞がしっかりと記されているものを紹介しておこう。また、このビデオの映像も実に見事である。

10)『今日の日はさようなら』
1967年(昭和42年)に森山良子の歌でリリースされ、非常にポピュラーな曲になった。作詞・作曲は金子詔一で、「日本の歌百選」にも選ばれている。 以下の映像がとても印象的だったので、載せておきたい。

11)『風』
1969年(昭和44年)に発表されたはしだのりひこ(端田宣彦)とシューベルツの曲で、大いにヒットした。みんな心が癒されるからだろう。
メロディーも歌詞も好きな曲だが、特に「振り返らず ただ一人 一歩ずつ 振り返らず 泣かないで歩くんだ・・・」が忘れられない。

12)『見上げてごらん夜の星を』
九ちゃんこと坂本九が歌ってヒットした曲で、永六輔が作詞、いずみたくが作曲で1963年(昭和38年)にリリースされた。背景には、東京へ集団就職した当時の夜学生の気持ちがあるという。
不肖・私もその頃、某テレビ局への就職が内定し、ある日、同期の仲間と共に“職場研修”を受けていた。スタジオのセットや大道具、小道具などの実習を体験したあと、まったく不得手なテレビ技術の講習も受けた。
夜も遅くなりいい加減に疲れたが、会社からもらった弁当をみんなで食べていると、急に、ある音楽が部屋いっぱいに流れた。放送中だったのか・・・? それがこの『見上げてごらん夜の星を』だった。聴いているうちになんとも心休まる、癒された気分になったのを覚えている。忘れられない思い出だ。

13)『この広い野原いっぱい』
小薗江(おそのえ)圭子作詞、森山良子作曲のフォークソングで、1967年(昭和42年)にリリースされた。 乙女心がいっぱいの歌で、「だから私に手紙を書いて 手紙を書いて・・・」というのがなんとも愛らしい。
「世界中の何もかも ひとつ残らず あなたにあげる・・・」 男性にとってはたまらない歌だ。いや、君の真心だけでいいよ!(笑) 森山良子の歌声をぜひ聴いてほしい。
1 この広い野原いっぱい咲く花を
  ひとつ残らず あなたにあげる
  赤いリボンの花束にして
2 この広い夜空いっぱい咲く星を
  ひとつ残らず あなたにあげる
  虹に輝くガラスにつめて
3 この広い海いっぱい咲く舟を
  ひとつ残らず あなたにあげる
  青い帆にイニシャルつけて
4 この広い世界中の何もかも
  ひとつ残らず あなたにあげる
  だから私に手紙を書いて
  手紙を書いて
(『二木絋三のうた物語』より歌詞を引用)

14)『北国の春』
歌詞もメロディーも大好きな曲だ。1977年(昭和52年)にリリースされたもので、作詞はいではく、作曲は遠藤実で、千昌夫が歌ったが、当初はあまり評判にならなかった。ところが2年後から爆発的にヒットし、アジア各国でも歌われるようになったという。
累計売り上げは300万枚というから驚く。日本の山村、農村をイメージしたノスタルジー・郷愁にあふれる名曲だと思う。

15)『南国土佐を後にして』
1959年(昭和34年)にリリースされ、累計200万枚を売ったという大ヒット曲。 元々は高知県の地元にあった歌を作曲家の武政英策が作詞、作曲したもので、ペギー葉山が歌って全国的に知られるようになった。
昔、テレビ局の仕事で高知には十数度も行ったが、酒を飲むとつい歌いたくなるのがこの曲だ。歌えば歌うほどおおらかな気分になってくる。まるで自分が坂本龍馬になったような気分になるのだ(笑)。高知県にふさわしい名曲だと思う。

16)『津軽海峡・冬景色』
1977年(昭和52年)に発表された大ヒット曲で、石川さゆりは一躍 国民的な歌手になった。作詞は阿久悠、作曲は三木たかしで、詞も曲も見事である。 昔は北海道へ行くには、青森・函館間を「青函連絡船」に乗るのが一般的だった。
以前、私は妻と北海道旅行をした際、函館でこの映像にある連絡船の摩周丸を見学したことがある。その時、非常に印象に残ったのは、1954年(昭和29年)9月に起きた「洞爺丸事故」関連のくわしい展示があったことだ。
この事故は、台風15号の影響で洞爺丸が沈没し、死者・行方不明が1155人も出るという未曽有の大惨事だった。それ以降、連絡船はやめて「青函トンネル」を作ろうということなり、現在の北海道新幹線が誕生したのである。
以上のことから、『津軽海峡・冬景色』を聴く時、私はいつもこれは青函連絡船の“挽歌”のように聞こえる。連絡船は永遠になくなったのだ。 歌の中にあるように、恋人である彼と永遠に別れるように・・・

17)『夜明けのうた』
1964年(昭和39年)にリリースされた岸洋子の歌で、作詞は岩谷時子、作曲はいずみたく。 岸はこの曲でレコード大賞の歌唱賞を受賞したが、のびやかな歌声が実に美しい。
彼女はもともとシャンソン歌手で、越路吹雪と並び称されたが、重い病気をたびたび患い57歳で帰らぬ人(1992年・平成4年)となった。しかし、岸洋子の歌声はいまだに多くの人の心に残っているだろう。私も彼女の歌声が忘れられない。

18)『島のブルース』
1963年(昭和38年)にリリースされた三沢あけみと和田弘とマヒナスターズのシングル盤で、吉川静夫が作詞、渡久地政信が作曲した。
ちょうどこの年の夏、某テレビ局への就職が内定した私は、職場研修である歌番組の実習に参加した。そのリハーサルで、メイン歌手の“前座”で三沢あけみがこの曲を歌ったのである。
奄美大島を舞台にした抒情味あふれる曲を、まだ18歳の三沢が艶っぽく歌ったのが今でも忘れられない。もちろん、この歌は大ヒットしてのちにミリオンセラーになった。

19)『友よ』
ふと、昔の歌を思い出した。 
今から50年以上も前、いわゆる“1970年安保闘争”と言われた時期に、民放テレビの一記者として学生運動を取材していた私は、この歌を繰り返し耳にした。取材が終わって喫茶店などでくつろいでいる時、いつの間にか私はこの歌を口ずさんでいた。今の若い人は、この歌を聴いたらどう思うだろうか・・・
1968年(昭和43年)に発表されたもので、作詞は岡林信康と鈴木孝雄、作曲は岡林信康である。

20)『リンゴの唄』
1945年(昭和20年)、敗戦直後の日本の惨状は極めて深刻だった。多くの都市がアメリカ軍の空襲で“焼け野原”となり、街には戦災孤児や怪我人、それに傷痍軍人や浮浪者があふれ、餓死者が出るなど人々はその日の食べ物を得るのにも苦労していた。まことに哀れな惨状だった。
こうした中で、ある唄が人々の心を癒し慰め、生きる希望を与えてくれた。それが『リンゴの唄』である。この唄はある映画のテーマソングで、歌っているのは松竹少女歌劇団の並木路子だった。
彼女自身も戦争で父と母と兄を亡くし、悲劇のどん底にあった。しかし、映画関係者らに励まされ、なんとか明るい声でこの唄を歌ったのである。その結果、映画も評判になったが、唄の方は驚くほどに大ヒットした。当時、幼児だった私もこの唄のことをよく覚えている。
これほど戦争で傷ついた人々の心を癒し、生きる希望を与えてくれた唄があっただろうか。まるで“奇跡”のような唄である。作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。

21)『オリンピック・マーチ』
1964年(昭和39年)の東京オリンピックに採用された行進曲で、古関裕而(こせきゆうじ)が作曲したものだ。とても伸びやかな生き生きしたメロディーで、いかにも行進曲らしい。
10月10日の開会式を前に、新幹線が初めて開通したり、高速道路やモノレールが整備されるなど、当時の東京や日本は何もかも元気いっぱいだった感じがする。不肖・私もテレビ局に入ったばかりで、わくわくどきどきしながらオリンピックを迎えたものだ。
以下に、ファンファーレ付きの『オリンピック・マーチ』を載せておこう。

22)『こんにちは赤ちゃん』
1963年(昭和38年)7月に発表された曲で、またたく間にみんなに知れ渡った。その頃、どこへ行っても、梓(あずさ)みちよが歌うこの曲が流れていたのを思い出す。
いわゆる“六・八コンビ”の永六輔の作詞、中村八大の作曲で、こんなに愛くるしい曲は滅多にない。梓みちよはその年のレコード大賞を受賞し、また、この歌はのちに「日本の歌百選」にも選ばれている。誰が聞いてもほのぼのとする曲だ。

23)『青い山脈』
敗戦後の“新生日本”を象徴するかのような曲だ。作られたのは1949年(昭和24年)で、同名の映画のテーマソングとして世に出た。 作詞は西條八十、作曲は服部良一で、藤山一郎と奈良光枝が歌った。
重苦しい軍国主義から解放されて、個人の自由と、希望に満ちた平和で明るい日本を謳っているかのような印象を受ける。 特に2番の冒頭の「古い上衣(うわぎ)よ さようなら」という歌詞はそれを象徴しているように見える。
この曲は「昭和の歌」の中ではいつもトップの座を占める人気ぶりで、これからも永く歌い継がれていくだろう。

24)『いい日旅立ち』
1978年(昭和53年)にリリースされた曲で、国鉄(今のJR)がキャンペーンソングに使った。作詞・作曲は谷村新司で、歌ったのは山口百恵。
これはどう見ても“失恋”の唄だが、一般には結婚式や卒業式の席で歌われることが多いという。「日本の歌百選」にも選ばれている。題名が『いい日旅立ち』だからだろうが、谷村自身「歌詞をよく見てください」と言っている。
「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」という歌詞には、はじめ笑ってしまった。そんなことはあり得ないだろうが、失恋の心を癒すにはそう思うしかないのか・・・

25)『古城』
昭和30年代に大活躍した歌手が三橋美智也だ。数々のヒット曲を飛ばしたが、この『古城』もその代表的なものである。1959年(昭和34年)にリリースされ、一説には300万枚を売り上げたという。
作詞は高橋掬太郎(きくたろう)、作曲は細川潤一で、日本人の情緒にぴったりの哀感あふれる曲だと思う。実際の古城のモデルは、石川県の七尾城跡だと言われているが、七尾城には天守閣がなかったため違うという説もある。

26)『北の宿から』
1975年(昭和50年)にリリースされた曲で阿久悠が作詞、小林亜星が作曲、都はるみが歌ったものだ。女心の切なさを、これほど見事に表現した唄はめずらしいのではないか。140万枚を超えるミリオンセラーになったが、レコード大賞や歌謡大賞も受賞している。
一見“素っ頓狂”な感じがする都はるみだが、おっと失礼!(笑)、彼女の歌唱力は抜群である。また、なんと言っても阿久悠の作詞が素晴らしい。女心の切なさがしみじみと伝わってくるようだ。この曲も永く歌い継がれていくだろう。

27)『夢は夜ひらく』
歌手の園まりさんが急性心不全で亡くなっていたことが分かった。享年80歳。ご冥福を祈る。彼女のヒット曲の中ではこの曲が好きだし、若いころよく歌ったものだ。
いま聴くと、どうも甘ったるい感じがするが、若いころはそうは思わなかった。いずれ『夢は夜ひらく』を取り上げようと思っていたが、彼女の逝去で予定より早まってしまった。
1966年(昭和41年)にリリースされ、その年のヒットチャート1位になった曲だ。作詞は中村泰士と富田清吾、作曲は曽根幸明で、のちに多くの歌手がカバーしている。

28)『北へ』
私は小林旭の歌声が好きだ。この唄は男の哀愁、切なさ、わびしさを歌ったものだろうが、一方でほのぼのとした温かみも感じられるのが良い。
昔、友人のW君一家とゴルフに行ったことがある。その前夜、W君とお兄さん、私の3人がカラオケルームで歌を楽しんだが、やがて、お兄さんがこの唄を歌い出した。その時の情景が忘れられない。私はメロディーも歌詞もいっぺんに好きになったのである。
男は心に傷を持つと“北へ”向かうのだろうか、逆に女性は“南へ”向かうのだろうか・・・ まったく根拠のない話だが、どうもそのように思えてならない。余談だが、浅丘ルリ子が実に可愛い。 作詞・石坂まさを、作曲・叶 弦大。1977年(昭和52年)にリリース。

29)『原爆を許すまじ』
今日は広島に原爆が投下されてから79年目の日です。
ただし、この曲が作られたのは昭和29年(1954年)のことです。その年の3月、アメリカは中部太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ないました。その影響で、静岡県焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が“死の灰”を浴び、久保山愛吉無線長が約7か月後に死亡しました。
このため、原水爆禁止運動が一気に沸き起こり、それを背景に『原爆を許すまじ』の曲が作られました。作詞は浅田石二、作曲は木下航二です。(2024年8月6日)

30)『世界の国からこんにちは』
1970年(昭和45年)に開かれた「大阪万博」のテーマソングがこの曲だ。作詞は島田陽子、作曲は中村八大で、他の歌手も歌ったが、三波春夫のものが特に有名である。
三波の歌声は素晴らしく、圧倒的な人気を博した。他の歌手のを含めて総売り上げは300万枚を超えたと言われる。あの頃は、1964年の東京オリンピックを引き継いで日本全体が上昇傾向にあった。そして、大阪万博も大成功を収めたのである。
総入場者は6421万人と万博史上最高の人出を記録し、日本国内では“民族の大移動”とさえ言われたのだ。もちろん、私も見に行った。
それに比べると、来年の大阪万博は大丈夫か? いろいろ問題が指摘されているが、心配である。それはともかく、三波春夫の歌声を聴いていこう。(2024年8月7日)

31)『長崎の鐘』
昭和20年(1945年)8月9日、アメリカ軍によって長崎に原爆が投下された。 当時、長崎医大に勤務していた永井隆博士も被爆して頭に重傷を負ったが、すぐに他の被爆者の救護活動に全力を尽くした。
永井博士は11日に帰宅したが、台所跡から骨片だけになった妻の遺骸を発見し、悲しみに暮れながらこれを埋葬した。被爆直後の永井博士の実状は以上である。
敗戦後も博士は白血病などに苦しみながら、被爆者の救護、救援に全力を挙げたが、昭和26年5月、入院中に帰らぬ人となった。まだ43歳の若さだった。
闘病生活を続けながらも、永井博士の献身的な活動は多くの人々の感動を呼び、内外に広く伝えられた。巡行中の昭和天皇が見舞いに訪れたり、ローマ教皇庁が2度にわたって見舞いの特使を派遣するなどした。
こうした中で、昭和24年7月にサトウハチローの作詞、古関裕而作曲の『長崎の鐘』が生まれた。歌ったのは藤山一郎で、藤山自身、アコーディオンをかついで生前の永井博士を見舞い、枕元でこの曲を歌ったのである。 (2024年8月9日)

32)『いつでも夢を』
1962年(昭和37年)にリリースされた橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲で、その年のレコード大賞を受賞した。また、のちに「日本の歌百選」にも選ばれている。作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正。
橋幸夫は若いながらもすでに有名な歌手になっていたし、女優の吉永小百合は可憐な美しさで光り輝いており、人気は抜群だった。
翌年には同名の映画『いつでも夢を』が作られ、橋も吉永も主役として出演している。この映画は、貧しくてもひたむきに生きる若者たちを描いており、多くの映画ファンの共感を得たと言えよう。

33)『王将』
村田英雄が歌ったあまりにも有名な“演歌”だ。リリースされたのは1961年(昭和36年)で、西條八十が作詞、船村徹が作曲した。累計売り上げ枚数は、最終的に300万枚を超えたと言われる大ヒット曲だ。
浪曲で鍛え上げられた村田英雄の声は、なんとも太くて渋みがある。この曲は大阪出身の有名な将棋棋士・坂田三吉をモデルにしており、関西では特に人気があって歌われていた。

34)『世界は二人のために』
佐良直美(さがらなおみ)のデビュー曲で1967年(昭和42年)にリリースされた。作詞は山上路夫、作曲はいずみたく。
発売されるや人気を呼び、佐良はその年のNHK紅白に初出場したりレコード大賞新人賞を受賞した。また、結婚式ソングになったり、翌年の選抜高校野球の入場行進曲になったりした。
平和な時代にぴったりのおおらかな曲だが、当時の自民党のある実力者(のちに首相)は「世界のために二人はあるのだろう」と皮肉って記者団を笑わせた。

35)『異国の丘』
戦後まもなく、最もよく歌われた曲が『異国の丘』だろう。昭和23年(1948年)にNHKの「のど自慢」でシベリアからの復員兵が歌ってから知れ渡ったが、はじめは誰が作詞・作曲したのか分からなかった。
やがて、シベリアから帰還した吉田正が自身が作曲したと名乗り出た。作詞者も分かって多くの歌手が歌うようになり、同名の映画『異国の丘』も作られて国民的な曲になったのである。
シベリアやモンゴル、北朝鮮などに抑留された日本人は約65万人、いや一説には107万人とも言われ、劣悪な環境のもと、強制労働に従事させられて“望郷の念”を深めていたのだ。この曲を聴く時、その気持ちが痛切に伝わってくる。

36)『ここに幸あり』
1956年(昭和31年)に作られた同名の映画『ここに幸あり』の主題歌で、作詞は高橋掬太郎、作曲は飯田三郎で、大津美子が歌った。
発表されるやいなや、その美しいメロディーと歌声で大いにヒットした。当時 中学生だった私もこの曲のことをよく覚えている。結婚式の披露宴でもよく歌われたが、評判は国内にとどまらず海外にも広まった。
特にハワイやブラジル、フィリピンなどでよく歌われ、大津美子はハワイ公演の時に、殺到したファンに頼まれ、みずから300部以上の楽譜を手書きで作ったといわれる。

37)『渡良瀬橋』
戦後の名曲がほとんど昭和のものなので、ここで「平成」のものをお届けしよう。平成5年(1993年)にリリースされた『渡良瀬橋』である。
作詞は森高千里、作曲は斉藤英夫で、森高自身が歌う。彼女は何度も栃木県の足利市を訪れたそうだが、郷土への想いと“彼”への想いが見事に交錯した歌だと思う。歌詞の中にある公衆電話がなつかしい。 ほのぼのとする気持ちが伝わってくる曲だ。

38)『思い出のアルバム』
幼稚園や保育園の卒園式ソングとして有名だ。発表されたのは1961年(昭和36年)で、その後、レコード化され保育の現場で歌われてきたという。
卒園式の日、この曲が流れると、若いお母さん方が涙を流してわが子たちを見守るシーンがよくある。小学1年生を前に、わが子たちのさらなる成長を祈っているようだ。これほど温かみのある曲も滅多にない。

39)『お富さん』
1954年(昭和29年)8月にリリースされ、新人歌手の春日八郎が歌って大ヒットした。ブギウギのリズムを基調とした非常にテンポの良い曲だったので、小学生まで意味が分からないのに歌っていたほどだ。
当時はどこへ行ってもこの曲が流れ、まるで“戦後復興”の日本を象徴するかのような感じだった。当時 中学1年だった私も、意味がよく分からないのにこの唄を歌っていた(笑)。
歌舞伎を題材とした曲だが、要するに不倫の恋をして別れた与三郎とお富が、再会するというストーリーだ。くわしい話は省略するが、実話を元にした歌舞伎の演目が題材である。作詞は山崎正、作曲は渡久地政信。

40)『悲しき口笛』
戦後日本の“歌の女王”といえば、なんと言っても美空ひばり(本名・加藤和枝)である。昔は、誰だって彼女の歌声を聴いているはずだ。
長々と説明するつもりはないが、美空ひばりが12歳で一躍 有名になったのが、この『悲しき口笛』のヒットによるものだ。1949年・昭和24年のことである。彼女はこれによって“天才少女歌手”と呼ばれるようになった。
この唄は同名の映画のテーマソングで、当時としては史上最高記録の45万枚を売り上げたという。作詞は藤浦洸、作曲は万城目正で、シルクハットに燕尾服姿で歌うひばりの姿がとても印象的だ。
映画は終戦直後、横浜に復員してきたある男が妹(ひばり役)の行方を捜すというストーリーだが、その唯一の手がかりは男が戦地に赴く前に、妹に教えた唄『悲しき口笛』だったのである。

41)『恋人よ』
1980年(昭和55年)の大ヒット曲で、五輪真弓が作詞・作曲し彼女自身が歌った曲だ。 ある人が、これは「アクティブな生き方をしているインテリ女性の失恋というイメージがある」と語っているが、私もそのような印象を受ける。
ちょうどこの頃は、男女間の雇用機会均等が叫ばれ、女性の社会進出が当然のことのように言われた時期だ。現実に5年後に「男女雇用機会均等法」が制定された。
そうした背景の中で、インテリ女性の“痛切な失恋”を思わせるこの曲が世の中に広まったのだろう。五輪真弓の硬質な歌声とメロディーによって、切々たる哀感が伝わってくるようだ。 しかし、アクティブな女性は挫けない。失恋という挫折を乗り越えて前へ進んでいくに違いないのだ。
なお、この曲は韓国やベトナムなど、アジア各国でも大いにヒットしたという。

42)『鐘の鳴る丘(とんがり帽子)』
アメリカ軍の空襲で家や親を失った子供たちを“戦災孤児”と呼んだが、終戦直後、そういう浮浪児が街にあふれていた。当然、社会問題化したため、その子たちを収容する施設が各地に作られた。
そこで、昭和22年(1947年)、NHKが『鐘の鳴る丘』というラジオドラマを始めて、そういう子供たちの日常生活を描いたが、その主題歌が『とんがり帽子』である。そして、翌年には映画化もされた。
歌の作詞は菊田一夫、作曲は古関裕而で、川田正子と音羽ゆりかご会が歌った。厳しい逆境の中でも、負けずに育っていく子供たちである。

43)『およげ!たいやきくん』
1975年(昭和50年)に、フジテレビの子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」で発表された童謡だ。作詞は高田ひろお、作曲は佐瀬寿一で、子門真人が歌った。
リリースされた直後から大ヒットし、今までにオリコン市場最高の450万枚以上を売り上げたといわれる。歌詞の内容は「たいやきくんが店のおじさんとケンカして、海へ逃げ込む」という幼児向けのものだ。
余談だが、この歌が発表されたころ、ちょうど国鉄労組などが“スト権スト”という大規模な闘争に入っていた。国電などが10日間もストップしたため、サラリーマンの諸君はやむを得ず自宅待機になったりして、家で幼児らと一緒にテレビを見ることになった。
すると、毎日のように『およげ!たいやきくん』の曲が流れたため、これが大ヒットにつながったという。

44)『二人の世界』
1970年(昭和45年)から翌年にかけて、TBS系列の「木下恵介アワー」で放送されたテレビドラマで、同名の主題歌をあおい輝彦が歌った。
脱サラしてスナック喫茶店を開いた“新婚夫婦”の物語で、主役は竹脇無我と栗原小巻のゴールデンコンビで、広く人気を集めた。
当時、私は忙しくてほとんど見なかったが、新婚ホヤホヤのわが女房は夢中でドラマを見ていたらしい。あおい輝彦の歌をいつも口ずさんでいた。だから、歌だけはよく覚えている。われわれにとって、いつまでも心に残る“新婚ソング”と言ってよい。

45)『ブルー・ライト・ヨコハマ』
1968年(昭和43年)12月にリリースされた曲で、横浜市の“ご当地ソング”ではナンバーワンの人気を誇る。 作詞は橋本淳、作曲は筒美京平、歌ったのはいしだあゆみ(本名・石田良子)で当時 20歳だった。
発売されるやいなやすぐにミリオンセラーとなり、いしだあゆみはまたたく間に人気者になった。とても歌いやすい曲で、自分も新宿・歌舞伎町界隈のスナックバーなどでよく歌ったものだ。
海なし県の埼玉にいると、海がある横浜は憧れの地だ。何度も横浜には行ったが、今でも友人や知人がいて親しく付き合っている。この歌を聴いていると、また遊びにでも行くか・・・(笑)

46)『青春時代』
1976年(昭和51年)にリリースされた曲で、作詞は阿久悠、作曲は森田公一で、森田自身とトップギャランが歌った。発売から半年でミリオンセラーになったという。
メロディーもいいが、阿久悠の歌詞が素晴らしい。「青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり」「胸に刺(とげ)さすことばかり」だと聞くと、自分の青春時代をつい思い出してしまう。
青春には大いに失恋や挫折などがあるだろう。しかし、それを乗り越えて前に進むしかないのだ。今の若い人たちは、この曲を聴いたらなんと思うだろうか。

47)『湯の町エレジー』
子供の頃によく聞いた歌だが、1948年(昭和23年)にリリースされ、蓄音機がまだ少ない時代なのに、すぐに40万枚以上売れたというヒット曲だ。最終的には100万枚近く売れたという。昭和20年代では異例のことである。
作詞は野村俊夫、作曲は古賀政男で、近江俊郎が歌った。ギターをメインにした“古賀メロディー”の代表的な曲と言えるだろう。
伊豆地方には何度も行ったが、温泉の地を背景に、初恋の人を偲びながらギターをつまびく切ない想いが伝わってくる。

48)『山小舎の灯』
近江俊郎の歌を聴いていたら、どうしても『山小舎の灯』を載せたくなった。大好きな歌なのでお許し願いたい。
この歌は1947年(昭和22年)にNHKの「ラジオ歌謡」で発表されたもので、作詞・作曲は米山正夫である。米山は戦前から近江俊郎と仲が良かったため、近江がNHKに強く働きかけて、放送が実現したといわれる。
余談だが、戦前はジャズを始めこういう歌は“敵性音楽”として禁止されたが、戦後になってようやく復活したのである。そういう意味で、音楽にとっても、戦後は戦前よりもはるかに良いと言えるだろう。

49)『鉄腕アトム』
漫画家の手塚治虫は1963年(昭和38年)に、テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作した。これを放送したのはフジテレビで、わが国初の30分枠だったため、そこから本格的な“アニメ時代”が始まったと言えるだろう。
オープニングの作詞は谷川俊太郎、作曲は高井達雄で、アニメにど素人の私でも、胸がわくわくするような曲だったのを覚えている。 手塚治虫はのちに“マンガの神様”と呼ばれ、日本のアニメ文化の発展に貢献したことはよく知られている。

50)『東京ブギウギ』
『東京ブギウギ』は1947年(昭和22年)にリリースされ一躍ヒットしたが、のちの『青い山脈』と共に、敗戦直後の日本に明るい開放的な気分をもたらした曲と言えるだろう。
両方とも服部良一が作曲したが、こちらの作詞は鈴木勝で、笠置シヅ子が歌った。笠置の歌声も元気いっぱいで良いが、なんと言っても、ブギウギのリズム感あふれる音色が素晴らしい。子供の頃に聴いた思い出がよみがえってくる。(続く)


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