<以下の記事を復刻します。>
私が最も好きな女優は吉永小百合である。われわれの年代(70歳~80歳代ぐらいか)では吉永小百合ファンが多いが、これを一般に『サユリスト』と言う。私はファンクラブに入ったことはないが、熱烈な『サユリスト』だと自負している。
何故か? この名前を聞くだけで心が温まり、吉永小百合の名前を書いたり、こうして打ち込んでいるだけで気持が晴れやかになるからだ。つまり、吉永小百合は私(われわれ)の太陽であり、天女であり、女神であり、崇敬と憧れの的なのである。
どうしてそうなるかと言うと、われわれが20代の若い頃、吉永小百合は銀幕(スクリーン)とテレビに彗星のごとく颯爽と現われてきたからだ。映画「キューポラのある街」や、歌謡曲「寒い朝」「いつでも夢を」などで彼女は一躍“スター”になった。しかも、清純で愛くるしく明るい印象がわれわれの心を虜(とりこ)にしたのである。
いつの時代にもスターはいる。古くは原節子、山本富士子、若尾文子らが、もっと最近では松坂慶子、夏目雅子、山口百恵らのスターが輩出している。しかし、われわれの年代の者にとっては、吉永小百合は格別だったと思う。したがって『サユリスト』が大勢生まれたのだ。
ところが、1963年8月某日、熱狂的な『サユリスト』である渡辺健次という若い男が東京・渋谷区の吉永小百合宅に拳銃を持って押し入り、彼女に自分の名前「ケン」を入れ墨しようとしたが、小百合さん一家5人はなんとか避難して無事だった。渡辺は駆けつけた警察官に拳銃を発砲し顔に2カ月の重傷を負わせたが、その後ようやく逮捕されたという。事件の巻き添えで小百合さんは足に軽いケガを負った程度で難を逃れたが、このニュースは全国の『サユリスト』に大きな衝撃を与えた。私もショックだったが、何ともないように明るく笑う小百合さんの姿をテレビなどで見てホッとしたものである。
ところが又その1カ月後の9月に、当時、手製の爆弾や拳銃で爆破や発砲事件を起こし、世間を震撼させていた“草加次郎”と名乗る怪人物から、吉永宅に弾丸入りの脅迫状が7回も送り届けられていたことが判明した。(なお、同じ年頃の映画スター・鰐淵晴子さん宅にも同様の脅迫状が数回届いたという。) その後、この事件は解決されずに終わったが、吉永小百合がいかに“人気者”であったかを示すものだろう。その当時は、スターはみんな狙われたのである。(美空ひばりや橋幸夫らの遭難事件があるが、省略する。 注・・・以上の記事は、毎日新聞社「昭和史全記録」を参照)
私が某テレビ局に入社したのは1964年だったが、ドラマなどの製作部門を希望していたのに、配属されたのはそれとは正反対の“お堅い”報道局だった。吉永小百合を始め有名女優とドラマ作りをしたいと儚(はかな)い夢を抱いていたのに、それは泡と消えたのである。 ところが、数カ月後に美味しい話が浮上した。撮影(カメラ)デスクの先輩が、ある航空会社が新路線を開発したので、そのテスト飛行に乗ってみないかというものだ。先輩はニコニコ笑いながら「吉永小百合も同乗するそうだぞ」と言う。えっ、天から降って湧いたような話ではないか! 私はもちろん同乗しようかと思ったが、しかし、人間とは不思議なものである。急に怖気づいてきたのである。小百合さんと飛行機に同乗するなんて、想像するだけで何か空恐ろしい気分になった。結局、この美味しい話は、報道局の契約アルバイトの学生に譲ってしまった。彼は嬉しそうな顔をしてテスト飛行へ向かったのである。
翌年(1965年)、吉永小百合は早稲田大学の第二文学部(夜間部)史学科に合格した。彼女は4年後、非常に忙しい中で「次席」という優秀な成績で卒業したから大したものである。学業と芸能活動を完全に両立させたのだ。
その頃、私は警視庁記者クラブに配属されていたので、事件や学生運動の取材などでもの凄く忙しかったが、ある日、秋葉原の喫茶店で休んでいた時、急に吉永小百合にファンレターを書きたくなった。ところが、不思議なもので、レターを書きたいと思えば思うほど、かえって重苦しい気分になってくるのである。相手がもちろん“高嶺の花”だから、何か畏れ多い気持になってくるのだ。結局、私は未熟で臆病だったのだろう。さんざん悩んだ挙句に、ファンレター(ラブレター?)を出さずに終わったのである。もちろん、レターを出したところで、見向きもされなかっただろうが(笑)
さて、それから数年後の1973年8月、吉永小百合は私がいたテレビ局の先輩ディレクター・O氏と電撃結婚した。私も驚いたが、周りにいる先輩、同僚も大変なショックだったらしく、寄ると触るとその話でもちきりだった。私はO氏と仕事で一緒だったことはないが、O氏を知っている局員らは「え~、何で~っ!?」という感じだったのである。しかし、年頃の女性が結婚するのは当然ではないか。
それから10数年が経ち、よく覚えていないがある日、報道の何かの番組に吉永小百合が出演することになった。芸能人である彼女が報道の番組に出るのは珍しい。
打ち合わせで小百合さんが報道の部屋に来た時は、みんなが緊張した感じだったが、私も緊張していた。彼女を見たいくせに、畏れ多くて面と向かって見られないのだ。不思議なものだ。彼女には“オーラ”があるのだろう。その横顔をチラリと見ただけで終わった。
つまり、吉永小百合はわれわれの年代の者にとっては、太陽であり女神であり天女であるのだ。現代の“天照大神”なのだろうか。『サユリスト』としては、まず畏れ多いと感じるのである。
わが家にある「吉永小百合」のDVD
青春時代の写真集(文藝春秋刊)
その本はまだ読んでいませんが、コマキストであることをお忘れないよに(爆)
この高橋英樹との映画は、大学生の二人が都議会議員選挙運動のアルバイトをするという話で、その事務所として、当時営業していなかった呉服店の中が使われたので、その時ロケに来て見ました。
「非常に小さいな」と言う感じでした。
この年は、『泥だらけの純情』もあり、彼女というよりも、日本映画にとって最上の年だったと思います。
翌1964年には、東京オリンピックがあり、スポーツの持つ本物の迫力とドラマの意外性に日本人は、作り物の映画からテレビに移行してしまったと思うのです。
柔道のへーシンクの金メダルのドラマは、私も凄いと思いましたね。
『雨の中に消えて』も『泥だらけの純情』も本文にある吉永小百合のDVDに入っています。『雨の中に・・・』では都議候補を演じた伊藤雄之助が面白かったですね(笑)
小百合さんは155センチぐらいだから小さいでしょう。面と会う機会がないので分かりませんが、だいたい想像がつきます。