<2016年1月に書いた以下の記事を、一部修正して復刻します。>
先日、大学箱根駅伝で青山学院(青学)が圧倒的強さで優勝したが、ふと青学出身の人をほとんど知らないないことに気がついた。知っているのは歌手のペギー葉山ぐらいだ。そう思っていたら、私がテレビ局時代にお世話になった先輩・Aさんのことを思い出した。青学出身の知り合いは彼1人だけだ。Aさんは30年以上も前に他界しているから、急に懐かしくなった。その思い出をどうしても書きたくなったので、興味のある方は付き合ってもらいたい。
私が某テレビ局の報道部に入ったのは50年以上も昔の、ちょうど東京オリンピックが開かれる年(1964年)だった。たまたま夜のニュースの担当になった時に、そのデスクがAさんだった。彼は長身で色が浅黒かったが、どちらかと言うと童顔で人なつっこい性格だった。その時、Aさんが青山学院出身で“牧師”の息子だと知ったのである。
いろいろなことを親切に教えてもらったが、決して忘れららない思い出が一つある。そのころ私は単純な男だから、何でも「オリンピック万歳」の調子で仕事をしていた。要するに、東京オリンピックをいつも持ち上げたのである。ところがある時、Aさんが私に言った。
「君、報道というのはオリンピックを持ち上げるだけでなく、その社会的な側面、つまり土地買収の影響とか環境や交通などの問題も取り上げるんだよ。それが報道の仕事なのだ」と。くわしい文言は覚えていないが、彼はそのように私をさとしたのだ。そうか、それが報道の仕事なのか・・・ 私はAさんの言った意味が分かったような気がしたが、相変わらず「オリンピック万歳」の調子で仕事を続けた。しかし、その時の彼の真剣な眼差しは今でも忘れられない。
それから数年たって、Aさんは外務省担当記者になった。ところが、しばらくして彼の良くない噂が広まったのである。なんでも外務省の女性職員と親密な関係になり、奥さんと別居してどこかに隠れ住んだというのだ。もちろん彼は記者の仕事を続けているので、私はそんなことはどうでもよいと思った。
ところがある日、私の地元の浦和駅(現さいたま市)で電車を降りたところ、ばったりAさんに出会った。すると彼は困惑した顔つきで、「君、ここで会ったことは誰にも言うなよ!」と釘を刺す。Aさんが女性と隠れ住んでいた所は浦和と分かったのだ。
それから私は、Aさんがいるアパートへ2~3度遊びに行った。彼はよくウィスキーなどで私を歓待してくれたが、それは女性としけ込んでいるという負い目があったからだろうか。とにかく口の軽い私だが、そのことは他言しなかった。しかし、Aさんはもともと人なつっこい性格なので、私と気が合ったのだろう。
彼が浦和にいたころ、私は初めてゴルフを教わった。もちろんAさんに誘われたのだが、荒川の河川敷で彼に習ったのだ。そのころサラリーマンでゴルフをやるのはまだ珍しかったと思うが、Aさんは実に上手でゴルフを熟知していた。だから彼はよく同僚・先輩からバタ臭いとか、軟派などと言われていたのだろう。
私はその後ゴルフはあまりしなくなったが、Aさんはやがて隠れ家を離れ彼女とどこかへ移ったらしい。他人のプライバシーには興味がないので、私は彼のことをほとんど忘れてしまった。しかし、それからだいぶたって、Aさんがたしか初代の外信部長に就任した時は驚いた。他にも適材の外信部員が何人もいたからである。
しかし、むろんAさんは能力があったのだろう。彼は外信部長としてばりばり働いたようだ。彼の欠点は少し“ドモリ”だったが、頭の良い人には吃音が案外多いようだ。大杉栄も田中角栄元首相もドモリだった。そんな話は別にして、Aさんが働き盛りの外信部長のころ、突如49歳の若さで亡くなった時も驚いた。あんなに元気な人が他界するなんて信じられなかったが、あとで聞くと食道ガンだったらしい。今から32年前のちょうど今頃(1月6日夜)である。
Aさんの話をつい長々としてしまったが、これも忘れられない先輩だからだろう。牧師の息子として生まれたからこそ、彼には異性問題などいろいろ悩みがあったはずである。そんなことはほとんど話してくれなかったが・・・ 改めてAさんのご冥福を祈るとともに、私の駄文に付き合ってくれたことに御礼する。(2016年1月7日)
私は青山学院大学のフランス文学科の卒です。
私の父は食道癌で11年前の今頃に他界しました、矢嶋さんの一つ上の年の生まれです。
私は新卒の時にフジテレビが第二志望でした。第一志望は関西テレビです。
どもりはありませんが、要領の良さで隠しているような処はあり、極稀にどもることもあります。
2020年東京オリンピックには反対で、今からでも潰すべしと思います。
――そんなことを思わされる記事でした。健康には最大限に留意して150歳以上生きることを目指しています。矢嶋さんも私を見習って長生きして下さい。
大隈重信は人生125年と言っていましたが、それを上回るものです。
しかし、そのぐらいの目標を持って生きていきましょう。
お互いに頑張りましょう!