無知の知

ほたるぶくろの日記

SNSに飽きているのかもしれない 4

2025-02-13 12:58:31 | 日記
人々の言説が無分別に拡散することが本当に良いことなのかどうか。

どうするのか?

人々の生の声を検閲なくそのまま流し続けるのか?
フェイク、ディープフェイク画像はどうするのか?


おそらく犯罪に関わることはたぶん除いていかないとダメだろう。
そして国家の安全保障的なことも。

だから、やはり国による検閲は行わなくてはならないだろう。
その基準が問題。
法律が整備されなくてはならない。

そして、なるべくはそのまま(世界の)人々の感情、思想、が
サイバー空間に出ていくべきだろう。

さまざまな国のさまざまな立場の人々の対話
(今後はAIによってあらゆる言語間の自動翻訳が行われると思う)
が成り立つ時、『ガイア』(生き物としての地球)に共に住まう、
という共生の感覚ができてきはしないか。

既にそういう感覚を持っている人もいるだろう。
それがさらに広がるのだろう。


そして、そうなった時、『群衆』は地球規模になる。

地球的『群衆』が「バラバを!」を叫ぶとき、、
は考えたくもないが、そうならないための対策も必要だろう。

「宇宙戦争」なんて言葉がSFではなくなってきた。。。



怖い考えになっちゃった。。。もう止めとこう。

そうでした。
SNSに飽きているのかもしれない、と思ったところから、
大分遠くまで来てしまった。

SNSは今や宣伝媒体になってしまった。
企業、国家、組織 等々
昔、テレビがCMばかりでつまらない、などの批判があったが、
現状のSNSもそんな感じ。資金のあるところがどんどん投稿する。

結局はバランスなんだろう。

戦争状態のサイバー空間に置くサーバーにはかなりの防御をする必要がある。
出入り口の管理、その他、技術は本当に日進月歩だ。
お金がかかるのだ。

そういうことで、SNSの現状はしばらく変わらないかもしれない。
人々があれこれ勝手な投稿をし、企業がCMと資金を提供し、
バランスを保ちながら共存していく。

政治性の部分が要注意だ。

権力への欲望をもった集団は『群衆』をどこかへ案内しようと
笛を吹くから。















SNSに飽きているのかもしれない 3

2025-02-11 09:08:07 | 日記
Twitter(今のX) のサービス開始は2006年。

今でも覚えているが、NHKの朝のニュース番組で私は始めてTwitterのことを知ったと思う。

最近の新しい街のトレンド、といった軽い明るい話題として紹介されていた。

「自分が何か書き込むと、世界中の人から反応をもらえる」
という趣旨だった。
「例えば、今某所にいるのですが、近くにおすすめのカフェはありますか?
と呟くと・・すぐにいろんな人からこんなふうに返信をもらえます!」

のような感じだったと記憶している。

正直な話、2006年だったので、既に2ちゃんねるは全盛期。
しかも、日本ではパソコン通信とかもあって、インターネットがポピュラーになる前から匿名で意見を表明し合う「掲示板」のようなものは90年代から存在した。
だからそれはある意味で怖い話だ、ということはよく理解していた。

上記の感想は「ナイーブすぎるな」と違和感を持った覚えがある。
しかもそれを公共放送が「良い話題」として提供している。。
大丈夫なんだろうか? と余計なお世話だが心配した。

しかし、意外にも世界は平和で、Twitterはポジティブに受け入れられていたし、米国のTVドラマ(あの頃結構放映されていた)を観ていると、シニアがFBで新しい出会いを得てワクワクしていたりするシーンがあったりした。

私は自分が抱いた懐疑を
これは私がひねくれたものの見方をしているからかもしれない。
と思っていた。

人々は自由にのびのびと、接した情報に対して気軽にSNSで反応している。
それはとても素晴らしいこと、に見えた。

織部扇形向付(江戸時代)(上から見ると扇形をしています)


が、その気軽さが何かを攻撃する方向へ向かうと鋭い武器にもなる。

マタイの福音書の中で
拘束されたイエスキリストについて、祭司長とユダヤ人の指導者は彼を磔にするべく色々な裏の仕掛けを行っていた。

ローマ総督ピラトは彼らの暗い意図に気づきつつも
「さあ、いったいどちらを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれるイエスか。」 と群衆に聞く
すると群衆は
「バラバを!」
(ここは有名なシーンです)

この部分本当にすごいな、と思います。
人々は群衆となったとき、こんなにも恐ろしい選択をしていく。
先の大戦の時もそうだった。
(私たちはもっと近現代史を知らないと。。)


私自身はXのアカウントも二つ持っていて、FBやらのアカウントも持っている。
が、ほとんど発信していない。
私は「2ちゃんねる」を観ていたし、SNSの武器的な要素をよく知っていたので、迂闊に発言できない、という本能的な危機感をもっていたから。

しかし、その後もSNSは発展した。
今になって思うと、既にその頃からその「利用法」において「政治的」「経済的」価値を見出している人々がいて、意図的、積極的にSNSの「善良な顔」を広めていたからだろう。

今騒がれているSNSの「中毒性」「個人情報侵害」「捏造の拡散」など負の側面はSNSの始まった2000年代前半で既に人々はわかっていたはず。
それでも規制よりは推進された。


今、私たちが直面している課題は
「人々の言説が無分別に拡散することが本当に良いことなのかどうか。」
だろう。

だからと言って規制するのか?
検閲?

続きます。。






SNSに飽きているのかもしれない 2

2025-02-09 16:35:00 | 日記
インターネットに感じた可能性は何だったか。

1)時空間の制約からの解放

時間的、経済的、その他の理由から現場には行けない場所の情報が得られる。

世界のどこからでも(今は政治的理由からダメな国もあるけれど)日本のサイトへアクセスすれば日本語でニュースが見られる。

メールや何らかのチャットアプリで日本語のリアルタイムのやり取りができるし、Zoomもあるから顔を見ながらの話もできる。

海外留学や海外転勤しても今はそれほど心細い思いはしなくて済むのでは、と思う。
行く方も、残る方も気分的に全然違うだろう。

海外との心理的な距離はかなり縮まった。
Googleマップで、世界のあの辺りってどんな景色?
とかも見ることができる。

もう、最高!

私のように旅行、特に海外旅行は億劫で行かない、という人間も
とりあえずの興味は満たされてしまう。

(ただ、リアルはまた情報量が全然違うんですけどね)



2)人々の生の声が聞こえる

こっちが今や政治問題化してきている点。

ただ、これも当初は相当にエキサイティングだった。

インターネット以前の記述の伝達媒体は紙がメイン。
グーテンベルグに始まる(それ以前から東洋ではあった、かも?)印刷技術によって、紙に印刷して、広く人々に広める。

ところがコストがかかる。
そうなると当然「コストに見合った内容のもの」が印刷に値するものになる。
検閲とまではいえないけれど、内容についてはかなり精査される。
 
全然手軽ではない。
人々が「ツィート」するような内容をダラダラ紙に印刷するなどはあり得ない。

だから、人々の生の気持ちや考えていること、は到底活字にはならなかった。

それは、どちらかといえば美術や音楽で表現されてきた。
現代美術(いろんな手法あり)、写真、自主映画、ビデオとか。
フォークソング(反戦歌とか放送禁止用語のはいった歌とかありました)
とかロックとかメッセージ性の高いものもありました。

それが、今や、活字でもビデオでも素人が何てことなく配信できてしまう。
何の検閲もなく(か、どうかは問題のあるところ)。
(誰の決裁も必要ない、って状況は社会を生きる大人にとってはとても重要!)

裏を返せば、公共の電波や伝達経路でコストをかけて制作配信されているものは
「何らかの意図のもとに行われている」
ということ。

だからこそ、個人の生の声がより「真実」のように見えてしまう。
特に「隠されていた真実」なんて言葉に私も含め人は弱い。

これが逆説的に怖い。
どういう個人か、どれだけの情報(裏付けも含め)を持った個人か、
全くわからない「匿名」の人が発信するのだ。
(もしかしたら個人ではないかもしれない。。。(悪の組織とか?!))
本当かデマか、釣りか。わからない。

(だから、いくつかの国はそれを人々の目に触れさせないよう必死だ)

本当に玉石混交なのだ。
混沌とした情報の渦の中、私たちは何が本当に重要で、真実かを見極めなくてはならない。

重要なのは「リテラシー」。

この間の中学校長の怪しい情報の全校配布問題の時にも書いたが、
驚くような内容の情報に接したとして、そこからどうするか。

今を生きる私たちは情報に対して、もう素朴ではいられないのです。

もう少し続きます。








SNSに飽きているのかもしれない 1

2025-02-08 16:04:16 | 日記
先日、松浦 晋也さんの『チガサキから世間を眺めて』
第77回「ところで、そろそろSNSにも飽きてきてませんか?」
を読んでいて、とても共感した。

そして、気づいた。
「SNSに飽きた」正確には
かなり前から飽きていた。



私が「インターネット」に触れ始めたのは欧州でだった。
1990年代前半。
その頃は研究をしていたので、そのために必須のツールになりつつあった。

ともかく計算機(サーバー含む)のハード自体もPC(パーソナルコンピューター)もすごいスピードで良くなってきた。
インターネットのデータ転送速度、量も上がっていたし、実際に「使える」道具になってきていた。

90年代後半、日本に帰国するころはさらにPCのスペックが上がり、データ転送技術もインフラも全てが飛躍的に変化していた。

その頃、今はなきNetscape Navigaterがメジャーのブラウザだった。
(ちなみに2008年に終了している。20年以下のサービスだったのだ。。)



ところで
インターネットにどんな可能性を感じたのか?

最も大きかったのは、アクセス(擬似的であることにそろそろ気づいているが)できる時空間の拡大。

私が欧州で仕事していた頃は、極東の日本は世界の果て。
日本で今何が起こっているのかわからない。
逆にこっちの無事も伝えられない。

あっちにいる時に阪神淡路大震災があったのだけど、
何かが起こったらしい、というリアルタイムの情報は研究所の人から聞いた。
日本に留学している人が、何らかのネット上の「板」に書き込んだらしい。
(まだ2ちゃんねるはなかったと思うけど、どこの国にもそういう書き込み板はあった)

その後、メールで大変なことになっている、という情報が日本の知り合いからも入ってきて、、、という流れ。

あの頃はネットニュースといっても画像はなし、文字のみ。
画像データの転送が今くらいに早くなったのは2000年代後半くらい。
それまではとてもじゃないが画像が多いと(画質にもよるが)遅くて見られなかった。

それでも、日本の「今」の情報がリアルタイムで入ってくることに
エキサイトした。

世界を手に入れたような感覚だろうか。
どこにいても日本の今にアクセスできる。逆も可能。
玉成混淆だが、さまざまな記述を見ることができる。

この話題続きます。。




鳥展 ーリベンジー

2025-02-07 20:27:31 | 日記
日曜日、小雨の降る中、鳥展へ。

前回は色々事情があって、インフルエンザの熱が下がってすぐだったのにも関わらず出かけたのでした。
もちろん、ヘロヘロ状態。

展示は興味深くも、体力が追いつかず。
途中で端折ってしまって残念だったので、今回リベンジしました。

まずはフルに羽を広げた孔雀さんがお出迎え!


この剥製はよくできていますし、美しい。

今回の鳥展、ゲノム科学の成果が過去の形態による分類を検証し、
あるものは訂正され、あるものは正しいことを証明した、という成果の発表。
また、鳥類が恐竜の末裔で起源の古い動物であり、それにもかかわらず、絶滅の危機に瀕している種類が如何に多くあるか、という事実のプロモーションでもあります。

へえー と思ったのは、フクロウとワシなどの猛禽類が近縁であり、恐竜からの進化の過程のごく初期に分岐し、その後フクロウと猛禽類が分離した、
ということ。

形態学的には骨格の特徴からその分岐が提唱されていたらしい。
ただ、現状のあまりの違いからとても近縁であったとはいえないし。。。
ということだったのがまさに「近縁種」だったことが証明されたそう。

あとはもう


オウギバトさんの美しさや、ペンギンの祖先の人間の大人ほどの大きな鳥、
ダチョウの大きさなどにシンプルに驚きました。

そして


この上の羽根の並びは「トキ」の風切羽です。
この羽根の色の美しさから乱獲され、朱鷺は絶滅してしまった。。

下の漫画も面白い話題です。
ササゴイは「釣り」をするんです。
羽毛や木の葉のかけらなど「擬似餌」を使って!

などなど、、生き物は本当に素晴らしく面白いです。

とてもシンプルな感動を味わってきました。
24日までだったと思います。

よろしければぜひ。