先日、松浦 晋也さんの『チガサキから世間を眺めて』
第77回「ところで、そろそろSNSにも飽きてきてませんか?」
を読んでいて、とても共感した。
そして、気づいた。
「SNSに飽きた」正確には
かなり前から飽きていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/f0/8dd051dc308f3a910f6e3e7735f540ce.jpg)
私が「インターネット」に触れ始めたのは欧州でだった。
1990年代前半。
その頃は研究をしていたので、そのために必須のツールになりつつあった。
ともかく計算機(サーバー含む)のハード自体もPC(パーソナルコンピューター)もすごいスピードで良くなってきた。
インターネットのデータ転送速度、量も上がっていたし、実際に「使える」道具になってきていた。
90年代後半、日本に帰国するころはさらにPCのスペックが上がり、データ転送技術もインフラも全てが飛躍的に変化していた。
その頃、今はなきNetscape Navigaterがメジャーのブラウザだった。
(ちなみに2008年に終了している。20年以下のサービスだったのだ。。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/67/53ebf6c9e1f0679c733b84d68055298e.jpg)
ところで
インターネットにどんな可能性を感じたのか?
最も大きかったのは、アクセス(擬似的であることにそろそろ気づいているが)できる時空間の拡大。
私が欧州で仕事していた頃は、極東の日本は世界の果て。
日本で今何が起こっているのかわからない。
逆にこっちの無事も伝えられない。
あっちにいる時に阪神淡路大震災があったのだけど、
何かが起こったらしい、というリアルタイムの情報は研究所の人から聞いた。
日本に留学している人が、何らかのネット上の「板」に書き込んだらしい。
(まだ2ちゃんねるはなかったと思うけど、どこの国にもそういう書き込み板はあった)
その後、メールで大変なことになっている、という情報が日本の知り合いからも入ってきて、、、という流れ。
あの頃はネットニュースといっても画像はなし、文字のみ。
画像データの転送が今くらいに早くなったのは2000年代後半くらい。
それまではとてもじゃないが画像が多いと(画質にもよるが)遅くて見られなかった。
それでも、日本の「今」の情報がリアルタイムで入ってくることに
エキサイトした。
世界を手に入れたような感覚だろうか。
どこにいても日本の今にアクセスできる。逆も可能。
玉成混淆だが、さまざまな記述を見ることができる。
この話題続きます。。
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