Twitter(今のX) のサービス開始は2006年。
今でも覚えているが、NHKの朝のニュース番組で私は始めてTwitterのことを知ったと思う。
最近の新しい街のトレンド、といった軽い明るい話題として紹介されていた。
「自分が何か書き込むと、世界中の人から反応をもらえる」
という趣旨だった。
「例えば、今某所にいるのですが、近くにおすすめのカフェはありますか?
と呟くと・・すぐにいろんな人からこんなふうに返信をもらえます!」
のような感じだったと記憶している。
正直な話、2006年だったので、既に2ちゃんねるは全盛期。
しかも、日本ではパソコン通信とかもあって、インターネットがポピュラーになる前から匿名で意見を表明し合う「掲示板」のようなものは90年代から存在した。
だからそれはある意味で怖い話だ、ということはよく理解していた。
上記の感想は「ナイーブすぎるな」と違和感を持った覚えがある。
しかもそれを公共放送が「良い話題」として提供している。。
大丈夫なんだろうか? と余計なお世話だが心配した。
しかし、意外にも世界は平和で、Twitterはポジティブに受け入れられていたし、米国のTVドラマ(あの頃結構放映されていた)を観ていると、シニアがFBで新しい出会いを得てワクワクしていたりするシーンがあったりした。
私は自分が抱いた懐疑を
これは私がひねくれたものの見方をしているからかもしれない。
と思っていた。
人々は自由にのびのびと、接した情報に対して気軽にSNSで反応している。
それはとても素晴らしいこと、に見えた。

織部扇形向付(江戸時代)(上から見ると扇形をしています)
が、その気軽さが何かを攻撃する方向へ向かうと鋭い武器にもなる。
マタイの福音書の中で
拘束されたイエスキリストについて、祭司長とユダヤ人の指導者は彼を磔にするべく色々な裏の仕掛けを行っていた。
ローマ総督ピラトは彼らの暗い意図に気づきつつも
「さあ、いったいどちらを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれるイエスか。」 と群衆に聞く。
すると群衆は
「バラバを!」
(ここは有名なシーンです)
この部分本当にすごいな、と思います。
人々は群衆となったとき、こんなにも恐ろしい選択をしていく。
先の大戦の時もそうだった。
(私たちはもっと近現代史を知らないと。。)
私自身はXのアカウントも二つ持っていて、FBやらのアカウントも持っている。
が、ほとんど発信していない。
私は「2ちゃんねる」を観ていたし、SNSの武器的な要素をよく知っていたので、迂闊に発言できない、という本能的な危機感をもっていたから。
しかし、その後もSNSは発展した。
今になって思うと、既にその頃からその「利用法」において「政治的」「経済的」価値を見出している人々がいて、意図的、積極的にSNSの「善良な顔」を広めていたからだろう。
今騒がれているSNSの「中毒性」「個人情報侵害」「捏造の拡散」など負の側面はSNSの始まった2000年代前半で既に人々はわかっていたはず。
それでも規制よりは推進された。
今、私たちが直面している課題は
「人々の言説が無分別に拡散することが本当に良いことなのかどうか。」
だろう。
だからと言って規制するのか?
検閲?
続きます。。