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江藤淳 「南州残影」 

2010-04-04 | 読書(芸術、文学、歴史)
この間、日本国内では、自民党政治の断末魔や格差社会の出現、経済は長期デフレに喘ぎ、2009年にGDPで中国に抜かれついに世界第2位の経済大国の座をすべり落ちた。 こうした大きな変遷を経験した今から振り返れば、戦後を「喪失の時代」といい続け、「第二の敗戦」という言葉で、20世紀末の日本の政治の迷走と国体の衰弱を憂えながら70歳を前に人生を自裁して閉じた作家は、既に歴史の一部になりつつあるかもしれない。

江藤淳は、20代前半に書かれた早熟の出世作「夏目漱石」や「小林秀雄」などにより、小林や福田恒存の跡を継ぐ文芸批評家として若くして名声を得、70年代以降は、政治や時事に関する評論も多く保守派の主要論客だったが、完全な戦後世代にとってはその言説は復古的な印象がぬぐえなかった。 大著「漱石とその時代」も、明治を振り返る気分など微塵も世の中になかった当時は、何度か書店で手にとって見たものの今日まで読むに到っていない。 この作家については、その推薦によって世に出、自らも弟子を自認する同世代の評論家 福田和也を通して感じてきた部分も多い。

作家の最晩年の作品で、出版時に話題になったのが1998年に上梓された「南州残影」だった。 しかし当時は、西南戦争という「薩摩の不平士族による最後の反乱」に半ば自爆的に打って出た西郷隆盛に特別興味はわかなかったし、欧米の歴史や文学の深い教養を持つはずの作家が、なぜ西郷を描いたのかを不思議に思う程度だった。

平成22年の今日、政権交代は実現したが、民主党政府の統率力の欠如のため政府は迷走を続け、人々は国家の衰退の兆しを肌で感じるからこそ、幕末維新や明治の英雄のTVドラマに熱くなっている。 真の改革者の登場と平成の維新が待ち望まれているのは間違いない。そこで日本近代の起死回生の革命であった維新の歴史追いかけると、どうしても西郷をいう人に最後はぶち当たる。 それが、いまどき「南州残影」を紐解くきっかけであった。 

この作品を、西郷が一身に体現した士族の精神の「全的滅亡」への感傷的追想、と言ってしまっては元も子もないが、それくらい全篇には憂いと哀調が漂っている。 西郷は勝てるとは思っていなかった、いや勝利する気さえなかった。 この戦争は、日露戦争や対米開戦と同じように立つしかない戦いだった、そう著者は断じている。「拙者儀、今般政府への尋問の廉有之」という出奔に際する手紙は、西郷暗殺を謀ろうとした政府の真意を問いただすために発つとある。 西郷暗殺が本当に命じられたかどうあはともかく、政府は薩摩の暴発の危機を一触即発の事態と受け取っていた。 

一般的に、西南戦争の動機は、新政府の推し進める西欧化、急激な政治・経済改革や、廃藩置県、秩禄廃止、廃刀令などによる士族階級の解体と四民平等社会の出現を、西郷と私学党の若者や、肥後など旧藩の一部の志士が誤った維新と見なしたためとする。戦争は維新をともに導いた幼馴染の大久保と西郷はもちろん、薩摩藩を真っ二つに引き裂き、村田新八など留学組の才子の多くも殉じた。彼らは本当に新政府の改革を理解せず、士族の特権と風習を温存すべしと考えたのだろうか。多分そうではない。彼らの培った精神と日本という国についての理想が、和魂洋才に勤めて欧化せねば世界に置いていかれるという現実を超越した所にあったとしかいいようがない。その忠義心は、西郷に対するそれであり、維新達成の過程で滅んでいった同士達へのものでもある。

「日本人は、かつて西郷南州以上に強力な思想を持ったことは一度もなかった」と作家はいう。 滅ぶと分かっていても立ち上がり、闘わなければならないことがある。鹿児島を出立したとき2万人近かった軍勢は、半年後に城山に墜ちて来たときわずか360余人になっていた。最後は、4重に包囲した官軍に白刃の振るいながら突撃した。官軍総攻撃直前、山県有朋が西郷に送った自害と降伏を促す書状は感動的すらあるが、西郷はこれに一瞥もくれず、別府晋介と辺見十朗太を両脇に配し、弾丸の雨の中を行進しついに果てた。西郷と士風は滅んだが、後に薩摩の抜刀隊の歌が帝国陸軍歌となり、滅びを怖れぬ戦いの気風が大東亜戦争での敗戦まで鎮魂歌よろしく歌いつがれた。こうして西郷南州は、滅びてなお後世まで不世出の偉人、大人として語り継がれた。 

西郷の目には、昭和20年8月末に相模湾に浮かんだ米艦隊の姿が見えていただろう、と作家は想像する。西郷の見たはずの嘉永6年のペリー艦隊と、70年後の作家の見た戦艦ミズーリは較べるべくもないだろう。ただここで作家は、滅亡をむしろ欲し戦に立った西郷や桐野利秋の姿に、全滅した日本艦隊を育てた海軍中将の祖父や、敗戦によって家産を失い銀行員で一生を終えた父や、母も生家も幼くして永遠に失った自らの人生を引きうつし、哀悼している。この作品には、作家の死への憧憬が宿るといってもいい。

作家はこの作品とほぼ同時期、文藝春秋に「第二の敗戦」と題する論文を書いた。日本は先に大戦で、開闢以来2600年の歴史の中で、初めて完膚なきまでに敗れ、6年に渡る占領を経験した。敗戦は未だに続いている。 戦後の未曾有の繁栄の中で、日本は自主独立を回復したか。 否、バブル崩壊後の政治は細川連立政権のあっけない崩壊後、自社さの野合、橋本政権の行革の失敗で益々衰弱した。軍事外交では、「日米防衛ガイドライン」によって、日本列島全体がアメリカの東アジア防衛体制に完全に従属し、経済では日米経済摩擦解消の名の下に押し付けられる郵政民営化や規制緩和の圧力下に、アメリカへの従属を深めていくばかりだ。 日本は紛れもない「第二の敗戦」を今経験しているのだ、と作家は憂えている(「南州随想」収録) 

そうまで日本の将来を憂え、文学の領域を超えて発言してきた第一級の知識人である作家は、まだ十分に延長しえただろう己の肉体の生命活動に終止符を打ったのはなぜか。 軽度の脳梗塞があったとはいうが、それが「形骸」となった己を処した理由なのか。その根底には、作家が一生背負って耐えてきた喪失感、欠落感があったようである。 6歳で母をなくし、12歳のとき戦争で大久保の生家を失い、戦後の窮乏で疎開先の鎌倉稲村が崎の家も売り払って、バラック同然の帝銀の官舎で少年時代を過ごした。義母は結核からカリエスを患い、自らも日比谷高校時代に結核に罹って一年休学している。その生い立ちは、「文学と私」「戦後と私」という60年代半ばに書かれた自伝的な随想に詳しいが、これはまるで老壮家の悲哀に満ちた晩年の呟きのごとくであり、これを30代で書かざるを得なかった作家の絶望の深遠は余人には容易に計りがたい。 

「私が戦後を喪失の時代というのは「私情」である。しかし、私情以上に強烈な感情があるのか。 マルクスの階級闘争も私情から発して、それが広い支持を得たのではなかったか。私は敗戦でそれまで圧迫されたり、拷問された屈辱を「ザマアミロ」と言う人の私情ももちろん否定しない。戦後の自由と繁栄を全面的に肯定する人も否定しない。 しかし、自分自身は、この喪失とそれを耐えてきた自分の私情以上に強力な感情や哲学についに出会っていない 文学が「正義」を語ることができると錯覚したところに、「戦後文学」の誤りがある。 戦後の文化は、今だに一人の鴎外、一人の漱石を生み得る品位を得ていない(「戦後と私」)」

30半ばでこう言い切った作家の心の穴ぼこを埋めた唯一の存在、母のイメージを宿し終生愛した夫人を失ったとき、作家には来るべき21世紀も、日本の未来も、自らの遣り残した仕事も最早耐え続ける理由になりえなかった。子供がなかった作家は、批評家としての名声と優秀な後進を何人か残したが、それらは妻が逝った喪失を埋めるには足らなかった。 

「南州残影」の詠嘆的調子は、全く自覚的なものであろう。 作家は夫人が病を得る前から、既に現実の生と、西郷や桐野に率いられた薩軍が行軍していったこの世ともつかぬ夢幻の地の間を往復し始めていたのではないか。 「漱石とその時代」で日本人にとっての近代という問題を徹底的に検証し、日本人の心の拠り所を探ろうとした作家は、結局「戦後」にその未来を仮託することができなかった。 1924年生まれで終戦のとき20歳前後だった吉本隆明は、文藝春秋1999年9月号に寄せた追悼文で、「江藤さんは一貫して戦後のあり方に否定的だったが、自分は明るい希望も見出したいと考えてきた」と発言している。 吉本が大病を得ても回復し、80歳を優に超えても現役で発言し続けているのに対し、江藤淳が21世紀の世界を見ることなくその生涯を閉じたのは、やはり残念といわざるをえない。 
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