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震災から5ヶ月目に見た宮城・福島の湾岸風景

2011-08-30 | 東日本大震災

 

仙台市若林区の一般道にはまだこんな光景も。    

 

南相馬市原町火力発電所(停止中)とその手前の海浜公園。

                

 

南相馬市の海岸。 堤防はこのように破壊されたまま。  

同じ海岸。誰かが花を手向けている。

沖のあったはずのテトラポットが流されてきている。

 

 南相馬市からR14で飯館村方面に向かう。

 

<!-- Soma city seashore  -->

〈相馬市北部の新地町の海岸。)

 

仙台をクルマで走るのは初めてだった。 今回は福島で東北道を降り、R115で相馬市に出てから6号を北上して、亘理から仙台東部有料道路に入った。 この道路を境に海側は津波に洗われたという。 盛り土の上に敷設された有料道から見る限り、津波の爪あとは定かではなかったが、下の道を少し走ってみると、背の伸びた雑草の陰にクルマが打ち捨てられていたり、アスファルト道の傍に漁船が打ち上げられたままになっていたりして驚く。

仙台は有料道がかなり整備されており、中心部から沿岸部までかなりのスピードで移動できるし、東部有料道路は三陸道となって石巻方面につながっている。 土曜の夜投宿した多賀城市のルートインも仙台塩釜港に近く、津波で一階の天井まで浸水し、目の前の道路は流されたクルマで埋め尽くされてという。 今はその傷跡は、わずかにひん曲がった駐車場のガードレールに見られるほどであり、復旧のスピードには目を見張る。

日曜は朝7時に出て、南相馬市まで前日と逆向きに仙台東部有料道路を南下した。途中、荒浜など海に近いところまで行こうとしたが、多くのエリアは作業車以外立ち入り禁止になっている。 名取市や仙台空港近辺、岩沼市、亘理郡と南下し、左右の広大な農地を睥睨し、時に海岸の松林まで俯瞰するにつけ、なんと広大な面積が津波に襲われたことか、と驚かざるをえない。 亘理で有料道路が終わり、6号線を南下するが、海側を常磐線が走っている。 かつては、素朴で自然を嘆賞しながらのんびりと走るローカル線だっただろうが、今は線路や駅舎は破壊され、進入禁止区域になって放置されているようだ。 途中、相馬市に近い新地町釣師浜というところでは海岸まで行けたが、倒壊した堤防がそのままに、津波の傷跡を残していた。

南相馬市に9時前に着く。 原町地区の社会福祉協議会がある一体は、病院や体育館など大型の建物が集まっていた。 ボランティアも40人くらいは並んでいた。 側溝の泥だしは土曜に大方終わったようで、多くのボランティアが前日の祭りの片付け(ゴスぺラーズが来たらしい)、テクノセンターという立派なビルの隣の体育館で、借上げ住宅に入居した方々への物資の配給のお手伝いとなった。 今回69世帯が新たに借上げに入り、日曜から4日間で物資の配給を受けに来るという。 体育館内は、各地から送られてきた様々な物資がダンボールに詰まって積み上げてある。 仕分けは入念になされており、食器から寝具、洋服、食料や日用品まで、それぞれコーナーが設置され、被災者の方は大きなポリ袋を持って、必要な物資をピックアップしながら、体育館内を一周すると言う具合だ。 地元の方々が、こうした援助作業を専門とする会社のスタッフとして担当されており、その方々の指示にボランティアは従うという仕組みだ。 13時から15時の間に来場された方は22世帯と多くはなく、作業自体は楽であった。 私は、トイレットペーパーとティシュのボックス、トイレタリー製品の入った袋を渡す持ち場を担当した。 

日曜のボランティアのうち、県外から初めてこのボランティアセンターの参上した人が8人ばかり。 なんと横浜の自分が一番近くて、他は京都、大阪、福岡からも若者がかけつけていた。 京都の綾部市近くに住む30代の男性は、いわき市の協力会社の支援で一ヶ月長期出張中だという(地元の消防団員でもあるらしい。) イワキのボラセンが一般の受付を終了したため、福島まで出て、阿武隈山地を越えて週末ボランティアにやってきた。 横須賀からバイクに乗ってきた男性は迷彩服を着ていかにも屈強そうであったが、前日は側溝の泥出しに精を出したという。 福岡から来た20代の自称フリーターの男性は、なんと青春割引切符で東京経由、福島からバスで今朝到着したという。 作業終了後、われわれと海辺を見に行ったあと、常磐線原の町駅からバスで亘理駅に向かい、そこから開通している列車で仙台に向かった。 常磐線はイワキから亘理までは不通になっており、南相馬の原ノ町駅の狭い線路には雑草が生い茂っていた。

放射能はもちろん、目に見えない。 この体育館で作業をしているスタッフやボランディアも大半が地元の方で、震災と原発事故以降一時は他県などに避難していたという人がほとんどだ。 中学生以下の子供たちは、しかしほとんど戻ってきていないという。 フジクラという会社の方は、自動車に使われるゴム製品の製造機械を防護服を着てすぐ南の小高町の工場から運び出し、デンソーの工場を借りて操業を再開したという。 家族とはなれて単身でこの地域の仕事に復帰した人も多いようだ。

家族を亡くしたり離れ離れになったり、家をなくしたり、そうした厳しい環境をともに生き抜いていこうという地元の人たちは、強い絆で結ばれつつあると傍目にも感じられた。 それは、1日2日のボランティアで入ってきた人間にはもちろん簡単に入り込めるものではない濃厚なものだ。

帰りは、往きに通ったR115より一本南を走るR12で、例の飯館村を抜けて二本松に出た。 阿武隈山地は予想以上に山深く(峠道の標高は500m越え)、上の方はガスがかかっており、放射性物質が滞留し、盆地にあたる飯館村の放射能レベルが、距離では原発により近い南相馬市より一桁高い、2~10マイクロシーベルト@時に達している。 NHKでもやっていたが、避難勧告地域となった飯館村の道路わきの住宅は窓を閉め切り、カーテンを引いたままで人の気配はない。 農地は放置され雑草が茂り、ビニールハウスも破れたり、雑草に覆われたりしている。 そうした村を、クルマだけは結構な台数が行き過ぎていくなんとも異様な風景であった。 「放射能はいつなくなるの。いつになったら外で遊べるの。」 福島の小さな子供たちが、先日東京で議員や官僚を前に切実な声を発したが、それに答えられる人はいなかった。 福島市や南相馬では校庭の除染などが本格化しつつあるようだが、果たして子供たちは安心してそこで暮らせるであろうか。 見えない恐怖と戦うという不安を、罪のない子供に押し付けているこの現実を、大人は深刻に取りすぎるということはないだろう。

 

 

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